Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

二本立ての一本目

2019-12-17 | 
眠い、寒気もあってか疲れた。音楽祭やレートナイト等では二本立てあるが、常設小屋では初めてだった。オペラと大交響曲は可成りである。オペラがマテイネーで良かった。逆なら鼾をかくところだった。

フォーレ作曲「ペネロープ」を観れて良かった。演出は、フランクフルトの歌劇場としては標準的な出来だった。決して悪くはないが音楽的にまだまだ芝居が出来た。結論からすると、評にあったように献身的な楽団とあったが、充分だったろうか?確かによくやっていたかもしれないが、ヴィオッティ指揮の程度には至らなかった。理由は、やはり指揮にあるのではなかろうか?なるほど現時点で先輩のヤングなどよりは間違いなくよく、経験を積めばティーレマンやそこの音楽監督ヴァイクレよりもいいのかもしれないが、そして前回の「メリーウィドー」の時よりも進化していると思った。ニュルンベルクの音楽監督をしながらミュンヘンで振っていたりして経験を積んだからなのだろうか?

とても細やかでいい指揮だと思ったが、コムパクトに振るのが難しいようだ。身体の緊張とかの筋肉などに係るものかもしれないが、それが欠けている。どうしても清涼感が必要なところも明確になるところもヴァークナーの様に鳴ってしまう。勿論「オランダ人」をバイロイトで振ったりは問題無くても、コンサートとなると厳しい。

「ペネロープ」に関しては象徴などもあるようで、それはプログラムにもあるが、またオリエンティーリングも途中から聞いたのだが、それ以上に音楽と舞台として充分な提示では無かった。それはドラマテュルギのステファニー・シュルツ嬢の話しを聞いていても、もう少しドラマを作らないといけないだろうと思う。また苦情をすれば紡ぎの動機もあまり効果的ではなく、音楽的な裏打ちも完璧では無かった ― 当夜の演奏もCD録音化されていたとあるが、幾ら編集するとは言ってもオームクラシックの程度の低さが知れる。

もし管弦楽などアンサムブルがミュンヘンだったらヨアナ・マルヴィッツの指揮ともう少し優れた演出でこの作品がリヴァイバルとなったかどうかとどうしても考えてしまう。音楽的には、六月に漏らしたように、もう二度とは思わないのだが、フランクフルトのオペラは一時間掛けて行くのが精々という価値だろう。その意味から五時間掛ける価値はパリにはなく、ベルリンの八時間などはもってのほかである。シュトッツガルトがもう少し頑張ってくれればとは思う。

さて、次回はいつ行くことのなるか分からないようなオペラ劇場であるが、今回は端から二つ目に座っていて、後半に端に移動してきたおばさんがいた。トラムの時刻があるから真ん中から端に移ったのだと。二幕の後に休憩があると思っていたので、もしかすると私と同じようにアルテオパーへ行くのとは思わなかったのだが、その人の席に座らせてもらった。真ん中である。最上階前から四列目で席にして五つしか変わらないが、予想していた視角に限らず音が素晴らしかった。左側の木管群の直接音が聞こえるだけでは無かった。いつも遅くになって席を選ぶので座ったことが無かったのである。万が一今後行こうと思うならば同じ価格なら真ん中に座ろうと確信した。

どうも皆次を急ぐので、拍手は続いていたのだが、早めに席を立つ人も多く、駐車場周りでもそれも感じた。駐車料金は後払いで4ユーロ現金。18時12分ほどに道路に出たが、折からのヴァイナハツマルクトの交通封鎖で遠回りした。19時始まりなので、アルテオパーの車庫入れは30分前で大分余裕があった。日曜日だから可能だった。久しぶりの通い慣れたアルテオパーである。前回はゲヴァントハウス管弦楽団ツアーの途中だった。



参照:
余りにも恵まれた境遇 2019-10-15 | 雑感
高いアヴェレージ 2019-11-07 | 暦
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ヴィール背中肉ステーキ

2019-12-16 | 料理
ショスタコーヴィッチ交響曲11番、次の演奏と見つけたのはコンドラシン指揮のモスクワでの演奏である。13番は、恐らくユダヤ系という事もあるのか、もはやムラヴィンスキー指揮では無く、この指揮者が初演している。少なくとも録音した時点では作曲家の直接の意向などを分かっていたと思う。そして、ここでも後の世代のヤンソンスなどと同じような曖昧さがその演奏解釈の特徴になっている。明らかに楽譜以上の何かに頼って演奏している。その何かが作曲家直々の指示なのか雰囲気なのかは分からないが、それならばなぜあんな楽譜を出版しているのだろうと疑問になる。

マーラーのパロディーの様にも響かせながらも結局は何も起こらない。対抗声部を強調したかと思うとこれも尻つぼみとなる。二楽章までしか聴いていないが、どこまで行っても何かあるように見せて何も示さない。

ここ二三年、キリル・ペトレンコのお蔭で熱心にロシア音楽にも親しむようになったが、チャイコフスキーだったり、最終的にはとても西欧指向的な土壌での接触なのでこうした不明瞭な曖昧模糊としたものが本当にショスターコーヴィッチが目した感興なのかどうか、少なくとも「マクベス夫人」や四重奏曲など他の曲での印象とも異なる。記譜の問題などではある筈がないのだが、益々分からなくなってきた。父親と作曲家との繋がりなどモスクワ流れの継承としてユロスキー指揮の演奏でその霧が晴れるのかどうか?

肉屋に立ち寄ると、ヴィールの背中肉があった。旨そうなので切って貰った。どうも購入したのは初めてだったようで価格が分からなかった。結局牛フィレと同じだと分かって、キロ49ユーロだった。薄く切って貰ったが7ユーロした。尋ねると一番いいのがステーキなのでそのようにした。ロズマリーとレモンで味を調えた。ワインはラインガウの2015年産テュルムベルクのリースリングを選んだ。熟成しだしていて丁度良かった。

フランクフルトから帰宅した。出かけるときに車のギアーが故障して焦った。なんとはなったが自分で治せるように調べておかないといけない。その遅滞で少し焦っていたが、ゆっくり走っていて再び写真を写された。今回はネズミ捕りの一時的なカメラが陸橋の下に隠してあった。前の車が時速80㎞ほどで走っていたので追い抜いたら赤く光って、直ぐに100㎞の制限速度が見えた。どんなに出していても110㎞ぐらいで、100㎞制限ならば殆ど誤差を超えたぐらいだ。前回の、ミュンヘンの帰りも似たようにゆっくり走っていた。まだ書類が来ていないからわからないが警察には恥を知れといいたい。



参照:
熱すぎないシュニツェルのうまさ 2014-12-22 | 料理
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女

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パロディーで落とさない

2019-12-14 | 雑感
日曜日はフランクフルトだ。週の間に燃料は入れておいたので出かけるだけだ。しかしいつものように準備が捗々しくない。特に「ペネロープ」がもう一つ入っていない。時間を掛ける必要がある。ショスタコーヴィッチは少し演奏史のようなものをざっとみるために、先ずムラヴィンスキー指揮録音を聴いた。

LPで所持しているが、YouTubeで聴いた。最初から流石にムラヴィンスキー指揮でしっかりと音化されている。序奏だけでもヤンソンス指揮との差は大きい。キリル・ペトレンコ指揮しか思い浮かばないようなミニマリズムへの拘りだ。

兎に角、動機が確りと出されるから交響曲的な強い印象と同時に、それが叶わないのがショスタコーヴィッチで、パロディー的に簡単には落とされない。一番印象に残るのはアダージョ楽章での革命歌の旋律がアイヴスのパロディーのようになるところだ。最終楽章まで一貫していて、とてもセンスが良い分、指揮者がこれ以前の交響曲の初演時に「もう少しここは」と文句をつけたのだろうと想像する。それ以降はお互いに密接な関係はなかったようなというような印象になる。

ヤンソンス世代がそうした粗が出ない様に暈したような演奏しかしていないというのはやはり演奏史なのだろう。そして印象としてはモスクワの楽壇の陣営が演奏解釈に華を開かせていたのだろうか。しかしムラヴィンスキーの指揮でショスタコーヴィッチの語法も明白になっていて重要な演奏であることは間違いないだろう。もう一つ時間が許せばモスクワでの演奏録音を聴きたい。

雨上がりにパン屋に行って目新しいものを購入した。復活祭のウサギに似ていたのでウサギというと作った職人のお姉さんが「サンタよ」といった。時期的にウサギはないのでその通りなのだが、中々把握できなかった。

流石に夜中に降っていたので森の中の足場は悪かった。水も流れていたが陽射しが射して来て、何とかお勤めを終えた。足が冷えて結構厳しいが、気温は摂氏8度と高くショーツ一丁で走れた。前日は寒気があったので、木曜日の鍵捜索で風邪ひきになったかと心配したが、何とか跳ね返せたと思う。



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大切なものを納める所、蔵 2019-12-12 | 雑感
復活祭の連休の束の間 2015-04-05 | 暦
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運動しやすい下着をつける

2019-12-13 | 雑感
ここに来てクリスマス商戦に参加している。運動用の下着に穴が開いていて二つ組の一つを廃墟処分にした。もう一つも良く見ると時間の問題かも知れない。一週間おきに履き替えていた専用下着なので同じ頃に破れる筈だ。精々差は山小屋泊りに使ったことが有るかどうかぐらいだろう。そのボクサー型の下着を選んだ理由は安かったことで、その安い意味は口が開かれていない事だった。そもそも社会の窓が開かれていない下着を購入したことが無かったので分からなかった。

結果その下着はスポーツ用に回されたことで、そもそもその意図はなかった。今回もボクサー型から探すと同じ下着が七割以上価格上昇していた。それなら再購入の価値はない。そこでスポーツ用に限定して調べるとデンマーク耐久という銘柄が出て来た。カットなどその生地あいとすこぶる評判が良い。更にブリーフ型ならば価格が三枚組で10ユーロ以下なのでこれはと飛びついた。大きさは分かり難いが大きめを選べとあるのでXLを発注した。カットは可成り切り込んであるが、運動し易いなら文句はない。

いつものことで余分に注文するものを探す。このところ気になっていたのがバスタオル問題だ。数だけはまだあるのだが幾つかは透けて見えるようになっていて、これはもう自宅用バスタオルとしては用をなさない。精々旅行用に持ち運ぶぐらいである。同時に足吹きや床掃除に使うことになる。

一番いいものでももう起毛などはない。一つぐらいはまともなものが必要で、現在あるものでは充分に頭髪をぬぐえないぐらいで、一度濡れると乾かすまで使えないぐらいだ。そこで毛の立ったタオル地のいいものを探す。ユートピアタオルという銘柄で本社はサンフランシスコらしい。結構な価格だが、ものは良さそうなので試してみることにした。安いものの何割増しかの価格である。

更に送料無料へと懸案の足拭きマットである。前回絨毯の破れを隠すために購入した時に気が付いていて、今までは適当に大きめのバスタオルを使っていたが、それも吸水性が悪くなって、洗濯から洗濯の間に綺麗に使えなくなってきていた。そもそも保湿力も無いので仕方がない。しかし反面分厚くなると洗濯しにくくなる。

そこで見つけたのが少しは補強されているタオル地の足拭きで、丁度ホテルなどで使っているものに相当する。吸水性と乾燥時間、更に洗濯しやすいの三点を考慮して洗濯した。乾かし方にもよるが、冬でも一日で乾いてくれると嬉しい。補助的にその他の不要な古いバスタオルを使えば足元が乾かないということは無かろう。なによりも期待したいのは毎日のシャワーでは無くバス上がりの足元の快適さである。

パリからの中継を観た。指揮者サロネンが十八番のマーラー作曲交響曲三番を振るものだ。その曲でルツェルンでロスの交響楽団を振った辺りがこの指揮者の頂点だったと思うが、今はどうか?先日のロンドンのフィルハーモニア管弦楽団常任引退欧州ツアーでもマーラーを振ったが、全く売れなかった。評価だけでなくて人気も無い。それでもサンフランシスコの交響楽団に都落ちするだけの人気はあるに違いない。

ざっと観た感想は、なるほど一部の人気はそのフィットネス張りの動きの良さにあるのだと思った。日本デビューの時も観たが同じような塩梅で殆ど変わっていない。その時からすればロスの時に頂点を迎えたのは、その身体的な運動性と指揮する音楽にそれほど乖離が無かったからだとも思う。少なくともその時はもう少し上手に弾かせていた、吹かせていた。「もう一人のペトレンコ」がベルリンで指揮した時に宙を掻いているだけと称されたが、差し詰めサロネンは宙を舞うぐらいの運動量はあっただろうか。余りにアンチエイジングに嵌り過ぎて道を誤った感じすらする。もう一人パイロットになるというハーディングとも共通するところがあって、双方ともストックホルムで仕事をしているというのが面白い。

ヴュルツブルクからモーツァルトフェストのティケットが届いた。念願のというか、今頃行くことになるとは思ってもみなかった。当時はバロックなどの歴史的な場所での演奏会というのも興味があったのだろう。勿論身近なシュヴェツィンゲンやらそこいらで経験してはいたのだが、コリン・ディーヴィス指揮BR交響楽団などというのは行きたいと思わせた。やはりそれも日本でのおぼろげなミュンヘンの楽団などに対する一種の過剰評価が自分にもあったのだろうかと思う。なんでもない、放送交響楽団にすれば同じ放送エリアのヴュルツブルクへのドサマワリでしかなかった訳だが、まだマゼール指揮の同交響楽団なども聴いていなくて、自分勝手に評価していたのかもしれない。



参照:
キリル・ペトレンコと共に 2019-09-25 | マスメディア批評
儒教に沿わない男女同権 2019-04-01 | 文化一般
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大切なものを納める所、蔵

2019-12-12 | 雑感
ショスタコーヴィッチ作曲交響曲11番のお勉強である。今回初めて総譜をざっと見た。今までムラヴィンスキーなどで聴いていた印象とそれほど変わらなかった。単純明快な曲の構成とその作りにある。しかし、ヤンソンス指揮のフィラデルフィア管弦楽団の録音で聴くと色々と見えてくることが逆にあった。

単純なものをそのままに指揮するコンセプトなのだろうが、それ以上に疑問が膨らんだ。指揮自体はロシアンリズムを通す反面、リズムの不明快さを目指しているようで、それが楽譜から何かを浮かび上がらせない。その他ダイナミックスもいい加減な付け方をしていて、手元にあるロシアの楽譜が無視されているところも少なくない。

恐らくヤンソンス氏の解釈はあの当時のソ連でのショスターコヴィッチ解釈を体現しているものなのだろう。しかしまだ存命中の作曲家の曲でそこまでの演奏解釈の定着がなされていたのだろうか。いい加減に感じられたり、指揮が充分に出来ていなかったところも意図したものとすると、恐らくそれが正しいのだろう。兎に角、目指されているところは表面上の明快さであって、よくもこんな対旋律をつけるなと思うところもそのように演奏されている。殆どジョン・ウィリアムズ作曲のサウンドトラックかと思えるような楽想もそのように演奏されている。

なにもユロスキー指揮実践を待つことも無く、なぜここで敢えて行間を備えたようなその筆運びを無視して知らぬ顔で音楽が進むのか?よく理解できない所ばかりだ。全集版のCDの余白にはワルツやトロットなどが収められていて、正しく指揮、制作の意図なのだろう。要するに飽く迄も皮肉に屈託なく明るくというような一寸矛盾するような感覚しか浮かばなく、とても意図的だ。まるで総譜がなんら実りの無い引っ掛け問題のような表層を呈している。

雨の合間に走りに出かけた。短いルートを駆けた。坂の上りでショーツのボンボンポッスェを触った。車の鍵が上手く収まっていなかった。それでも構わず走って下りてきた。車に近づき下腹をまさぐると、鍵が無い。「落とした!」とうろたえた。そして腰を触って、また周りに落ちていないことを確認した。急いで今のルートを同じ方面から辿る。枯れ葉が邪魔して大変な捜索になる時期だが、誰もその後トレースしていないので見つかると思った。一度ボルダーリングの所で落として、自宅から戻ってくるとそのまま見つかった経験があるからだ。あの時は車を停めていた場所だった。

ゆっくりと目を見張って歩いて行った。登りには見つからなかった。あとは降りの林道だと思った。上部を重点的に探した。降りてから二度目の捜索まで時間が掛かるからである。しかし今回は走り乍鍵を確かめたので間違いなくそのルート内に見付かる筈だ。林道は小走りに下りてきたが最後の合流点まで見つからなかった。車に近づいた、周りを見た。それでも見つからない。二度目にルートを辿る前に、股座をまさぐった。堅いものがあった。鍵だった。

また新たに学んだ。大事なものを入れるところは蔵である。又蔵である。丁度下着のシューツにも穴が開いて最後の心算でもう一度だけ履いていたのだ。探索でルートを辿った時に良くも落とさなかった。シューツの穴は今回の騒動とは関係が無かったが、穴が開いた衣服は切るべきではない。戻ってきて早速穴を割き開いた。



参照:
釣べ落としの秋の競争曲 2016-10-02 | 暦
宣伝へのアルゴリズム処理 2019-12-08 | 雑感

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不当なNHKの番組作り

2019-12-11 | 文化一般
「ペネロープ」二幕、三幕へと進んだ。一幕の二桁の景のような音楽の変わりとその定着も無い分、二幕は結構じっくりと進む。三幕が短く纏められていて、全体のドラマテュルギ―がなされている。一番気が付くのはあのヒット作ルキエムの浮遊するようなカ所と、下から上へと循環旋律のような作りの部分だろうか。フランクフルトでは細かな演出が付けられているのかどうか。

受け取り証明付きの書き留めが来ていた。大抵はいいものではないが、予想されるのは証明書類もあるので、慌てずに取りに行こうと思う。特に催促のものであればそう簡単には請求書を渡せないぞと示したい。場合によっては受け取り拒否をする。しかしそういったものではないだろう。

気になっているのはミュンヘンからの帰路の写真だが、これも受け取り証明するようなものは無い。大抵の公の催促状は高飛車なので受け取ったかどうかなどは気にしない。強制執行あるのみだからだ。もし公的な書類ならば中身が重要な場合だろう。警告金ならばこの週末までに来る筈だ。あと税金類は払い込んだので問題が無い筈だ。

そのミュンヘンから来年のオパーフェストの冊子が送られてきた。特別新たな情報はないのだが、そのお手紙の格子などを読むと一緒に盛り上げましょうという事のようだ。ミュンヘンに住んでいない人間にはあまりなにも出来ない。精々お目当ての「ファルスタッフ」に予算を計上するぐらいだ。赤く光っている初日が配券されるとなると今までの最高額券となる。

気がついたのはそれは四回しか上演されないので、続き二回は秋に誰かが振るという事になるのだろう。アダム・フィッシャーだろうか?フィッシュなどの控えの指揮者も新シーズンからは変わって行くのかもしれない。ユロスキー指揮、バリーコスキー演出の「ばらの騎士」は秋ぐらいなのだろうか?

NHKホールでのフィラデルフィア管弦楽団演奏会中継録画をダウンロードした。演奏は悪くはないと思ったが、録音がもう一つよくなかった。ピアノには補助マイクが立てられていたがその他は吊りマイクで収録していたようだ。なによりも具合悪かったのはピアノやファゴットやコントラバスの低音楽器のファンダメンタルが録れていないことで、全体のバランスが悪かった。その要にいるマツカワは前半にしか乗っていなかったので、そちらがメインのようなプログラムだった。それにしても新世界でのまるで前だけで室内楽をやっているような合わせ方もネゼセガンの目指しているものだ。

何はともあれ、ここ二年程集中してこの楽団を聴いているが、映像は前回の極東公演の香港でのものしか観ていない。その点では貴重なのだが、映像録音共にもう一つで、更に訳の分からない進行が付いている。舌足らずのようなアナウンサーの声だけでなくチンとかシャンとか効果音は一体何だ。どうもNHKはフィラデルフィアなどはエンタメ仕様の交響楽団でそのような日本的なショーアップが必要と考えているのだろう。とても程度が低い。結局日本人には欧州の交響楽団が本物でビッグファイヴなどは偽物なのだろう。ふざけた番組である。要するにフィリーの興業と言うのはNHKが考える程低能で程度が低くはないという事だ。なぜビッグファイヴが日本では不当に評価されているかはこのNHKの番組作りで明白になった。



参照:
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
Wブッキングの逡巡 2018-12-07 | 生活

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ハイデルベルクの春へと

2019-12-10 | 生活
またまたティケットを購入した。ノルウェーのピアニスト、アンスネスの故障からのカムバックの話しからネット検索するとハイデルベルクでのリサイタルが出て来た。急いで一昨週のボストンでのグリークの録音を流す。最初に聴いた時の印象と同じく故障後のそれとはタッチが違う。そもそもスカンディナヴィアの男性で、からも大きそうで、春先のようなことはないと思っていたが、豪快にそしてとても抒情的に鳴らしていて、これは大丈夫だと思った。そのコントラストこそがこのピアニストの持ち味だと想像した。

復活祭にはブロムシュテットの指揮でモーツァルトという事でこれは駄目かなと思っていた。しかし十八番のグリ-クを弾くことで何かを示したのかもしれない。少なくとも悪くないと思った。コンサートは、シューマンの謝肉祭を最後に前半ドヴォルジャークからバルトークへと繋げるプログラムだ。ウィグモアー公演などツアーの一環。その後のバーデンバーデン。

もう一つは、アムランのリサイタルで、これも幾つかあってレヴィットらとのトリプルジョイントリサイタルは流石に売り切れていた。ユリア・ハーゲンとのジョイントも興味があったが、アルテオパーで聴くロシアプログラムと似かより、更にタカーチカルテットとの共演で室内楽は解っていたので、珍しい曲のマティネーにした。

あとはレヴィットのショスターコーヴィッチのプレリュード全曲もあったが、復活祭一週間前でベルリナーフィルハーモニカーが入るころなので時間を開けておいた。何よりも要らない評論家のおばさんが出てくるので馬鹿らしいので止した。

大学の旧講堂での演奏会は、先ほど亡くなったツェンダ―氏や故デュテュ―ユ氏の後ろの席でアルテミス四重奏団を聴いたりしたが、ピアノ演奏でも奏者から数メートル圏で取り囲むようにして聴けるのも魅力である。齧り付きファンも少なくないようだが、同じ高さでもう少し近くで聴ける。

それ以上に為になったのはネットバンキングやクレディットカードの安全のためのEUガイドライン強化に伴って、新しい方式で支払う練習をしたことだ。先頃ヴュルツブルクのコンサートは分からずに急いでペイパル支払いにしたが、今回は所謂フォトTANを初めて使った。バンキングでは既に使い慣れたがプッシュ方式と言うのは今回が初めてだった。基本はSNSのようにタブレットに支払い準備の連絡が来て、それに応えるというに過ぎない。しかし、スマートフォンを使用していないので上手く出来るかどうか不安だった。しかし一度使ってみて、これならば全く問題なくSIMカードの入っていないタブレットで事足りることが分かった。試せてよかった、今後の厳しい入券条件の時にもこれで最前線に飛び込める。

車中の放送でベルリンでのベートーヴェンの学術的な研究結果が紹介された。幾つもの資料から領主であったラズモスキー伯爵への反抗から演奏拒否をした部屋がりの楽聖の籠っ入っているところへ押し入ろうとする伯爵を切りつけようとして他の客人から止められた実話や、そして捨て台詞として「伯爵は幾らでも代わりがいるが、私の様なものはただ一人しかいない」と吐き捨てたこと。また当時の部屋狩りは料理長などと同じ音楽雇人でしかなかったこと、またその風采も頭を掻き毟り、敢えて粗末で不潔そうな生活をしていたことなどが紹介されていた。とんだ跳ね返り者の楽聖像が紹介されていた。その背景の社会と啓蒙思想での民意の高まりがあったにせよ、スパルタ教育パパの父親そしてワイン商など成功者の祖父などからの家庭環境も影響していたという事だ。確かに晩年になって落ち着いてきてはいるが、その根は三つ子の魂百までもだったようだ。



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ミニUSBプラグの抜き差し 2019-12-09 | 雑感
楽章間拍手が意味すること 2019-05-12 | 音


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ミニUSBプラグの抜き差し

2019-12-09 | 雑感
ハウウェイのタブレットを愛用している。EUの新たなガイドラインからネットバンキングなどには必需品になって仕舞った。だから外出以外では携帯電話をあまり使用しない者には欠かせない。ここ暫く初めての不調に見舞われた。2018年2月に購入しているので、まだ一年半だ。その前に使用していた2014年7月から三年半で壊れた。落としたからだが、それに比較すると早く問題が出た。

問題個所は充電の時のミニUSBがぐらぐらして充電が出来なかったりしたことだ。移動時に車で充電するとどうしてもぞんざいに使って物理的なストレスが溜まったと思う。しかし重要な唯一のインターフェースなので臍の様なものだ。これはどうしたものかと思った。今や世界を圧巻する大メーカーの製品の製品管理として如何なるものかと感じた。

そこでいつも愛用しているコンタクト磨きのイゾプロパノールを塗布したミニUSBプラグを抜き差しすると不接触が直った。機械的ではなかったことになる。しかしシナの様に空気が悪いところで、これぐらいで接触が悪くなるとなると、数か月で不通になるのではなかろうか。兎に角、先ずは充電が早くなったので助かった。しかし同時にレノヴォの重く強い充電池と比較すると弱めな感じで消費が早い。

充電池が悪いのはパナソニックの最高級髭剃りだ。2014年11月に購入しているので五年ほど経つ。新たなEUのガイドラインであると七年なので、必要があれば適価でバッテリー交換が要求されることになるだろう。要するに水準を上げなければEUでは販売できない。既に改善されている可能性が高い。

日曜日の生中継はBGMとして流して録音した。しかしとても良かった。いつものようにユロスキーの話しが抜群に面白い。先日から話題にしていたブルックナーのバロック性からその対位法などルネッサンスへと遡って話しをしていて、勿論版の経過をざっと話していた。彼のドイツ語能力はその語彙や個性に関わらずキリル・ペトレンコと比較して特に優れているというものではないが、その話しの巧さはラトルの英語以上で、ネゼセガンの英語にも匹敵若しくはそれ以上に巧い。そして指揮も全然悪くなく、話している視点と全く矛盾しないだけの表現となっていた。ロンドンフィルではそれ程雄弁に話していたとは思わないのだが、ここに来て指揮以上に素晴らしい音楽の紹介者になって来ている。確かに少し程度は高過ぎるのかもしおれないが、コンサートに集う最も良い聴衆にも訴えかける力は強い。ミュンヘンの歌劇場ではしっかりと音楽監督を務めてくれるとは信じているが、同時にBRの交響楽団も任せる方向でお試ししてみてはどうかと思う。

Vladimir Jurowski über die Sinfonia Concertante von Joseph Haydn



写真:環境に優しい輪タクでコンツェルトハウスへと向かいながら解説するユロスキー。



参照:
再びオパーフランクフルト 2019-10-09 | 生活
再び求道的な感じ 2019-09-08 | 女
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宣伝へのアルゴリズム処理

2019-12-08 | 雑感
週末に仕事を溜めてしまった。こうならば週明けから「ペネロープ」とショスタコーヴィッチ11番のお勉強だ。更に15日までに終了するフィラデルフィア管弦楽団NHKホール公演の見逃しオンデマンドをDLしなければいけない。纏まった時間が必要だ。

ツイッターの人工知能のアルゴリズムになにか特殊なものが入っていると気が付いた。先ずはお薦め指揮者に外山雄三の名が挙がった。とても微妙な選択だ。普通の人には最早忘れられている名前かも知れないが、昔この人の話しを聞いたことがある。しかしその指揮に関してはあまり印象にない。精々作曲の何とかラプソディーと言う曲だけは手元のカセットにある。それぐらいでしかない。とても微妙だ。色々と外していくとそうした名前がリスト内から挙がってくるのだろう。

もう一つ呟き六周年記念のロゴの横にクレンツィスの写真が出ている。ツイッター社にまで販促に金を出しているのだろうソニーは。それはティーレマンの写真が出るよりは自然かもしれないが、よくも出して来ると思う。後者に関してはウォッチャーして二十年程になるので繋がりが深いが、前者に関しては殆ど関係が無い。ただの宣伝か!腹立たしい。

「飛行機乗るな」の運動には関心を持っている。不要不急の飛行を控えてCO2排出を抑えるという考え方だ。実際の科学的な評価には色々と議論があるのは当然だろう。しかし重要なことは出来るだけネットなどで用事を済ませて、郵便等も出来るだけデジタルで済ましてしまう事、これは重要だと思う。

自分自身の事を考えても忙しく距離を動けば動くほど何か社会活動をしていて、仕事をしているという錯覚をしていたこともある。しかしそれに伴うエネルギーの無駄はフクシマ禍が起こるまでは充分に実感していなかった。東電の様なエネルギー産業が起きな力を持っていることは四十年以上前から聞かされていたが、その先へとは思考が進んでいなかった。

適当にBGMでメトからの放送を流していた。フィリップ・グラス作曲「エクナートン」のオペラ中継だった。同じミニマルでもアダムスのオペラは鳴り物入りで有名で、その音も耳にしたことがあるがグラスのそれは初めてだった。一体どのように作曲しているのかが興味あった。流れていた感じでは、歌を上手くミニマルのカーペットの上に乗せているなと思った。映画「ミシマ」のサウンドトラックのセリフが歌になっているような感じではあるが、これはこれで上手にこなしていると思った。録音しておいたので何回か流してみるが、それなりのドラマテュルギ―は効いていたのは確かだ。

いつもの番組構成で次回放送の「スペードの女王」のリサ・ダヴィドソンの話しがあった。確かに声も出て期待される歌手であるが、とても幼さがあって完成されていないのと、グレゴーリアンなどを比べると全く世界が違うなと思わせる。調べると32歳で、一寸あれではと思った。彼女のドイツ語力だけの問題などではない。



参照:
年末までの計画整理 2019-11-28 | 生活
鳴かぬなら突いてやろう 2019-08-07 | マスメディア批評
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「超一流を聴け」の真

2019-12-07 | 
ルツェルンからティケットが届いた。今回は希望通り届くことは分かっていたが、席などに興味があった。先頭を切って発注したからだ。前回もそうだったが今回はネットに情報が乗るかどうかで発注した。結果は殆ど同じだったが、今年は第九の方が若干横にずれたが今回は真ん中で、翌日もその隣だったのでこのクラスでは一番いい席だと確認した。つまり一度は今年と同じ席に座る。これ以上上のクラス席に座るかどうかだけで先ずは当分はこのままでもいいかと思う。前列に出れば視界的には更に良くなるが音響的には殆ど変わらない。下に行って真ん中最前列はスポンサー以外は中々入らないだろう。コンセルトヘボー演奏会の方も今年のゲヴァントハウスと同じような席で、こちらは合唱が入るだけどうなるか?あとは前日のロート指揮の晩にどこを買うかだけだが、割引券も付いているので問題はない。

その前に六月のワインフェスト期間中に避難の旅に出る。先ず一週目はミュンヘンからヴュルツブルクに立ち寄ることにした。丁度モーツァルトフェストが開かれているからで、以前はクーベリックやコリン・デーヴィス指揮でBR交響楽団が演奏していたと思うが今はより近いオーヴァーフランケンからバムベルカーがそこに入っている。更に来年は指揮者がゲーベルなのでWDRが入っている。丁度出かける日はゲーベル指揮演奏会とレートナイトがあってヴュルツブルク郊外区に宿をとった。全三泊の一泊だが、ミュンヘン近郊からアウグスブルク経由で、ウルムから北上ヴュルツブルクへと抜ける。アウトバーンからから降りて宿にチェックインして、旧市街に往復して翌朝はそこからロマンティック街道沿いのアウトバーンで帰宅する予定。走行距離でヴュルツブルク片道ぐらいが長くなるだけで、それほど大きな遠回りとはならない。

ヴュルツブルクはザルツブルクと同じ設計者の街で同じように大司教区なのだが、モーツァルトの生家が無い、そこで出来たような音楽祭でBRで毎年中継されている。以前ほどの盛り上がりはないようだが、一度は行ってみたいと思っていた。特にあそこのレジデンスでの音楽会はその音響にも興味ある。とは言ってもいつものように安い席しか買わないので控えの部屋から聴かして貰うだけである。バムベルガーの演奏にシカゴ交響楽団の様な金は出せない。ヴュルツブルクからの郵送料込みで38ユーロの二回のコンサート、宿泊代67ユーロ。

BR交響楽団のヤンソンス追悼の定期を生放送で聴いた。流石に格上の指揮者ヴェルサーメストの演奏は素晴らしかった。特にアブハムセンの新曲など明らかにルツェルンで聴いたラトルなどよりも立派な演奏で、同席していた作曲家も満足したのではないか?なぜあのラトルが最近はぞんざいな指揮ばかりをするようになったかは分からないが、年代的に近いメスト指揮の方が現時点では大分いい。今年のコンセルトヘボーでのクリスマスコンサートはメストが第九を指揮するので夏のペトレンコ指揮のそれと比較されることになるだろう。

後半のヤンソンスを偲んで家庭交響曲から替えられた「死と浄化」で、この放送交響楽団が一流なのかもしれないが、超一流との差が誰の耳にも明白となっていた。先ほど日本のSNSで話題となっていた「超一流を聴け」はまさにここに当てはまり、日本の交響楽団程度との比較でのお話しではない。ここ二年ほどでペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏でこの曲を生で聴いて、ネゼセガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の驚くべき「ドンファン」と比較するまでも無く、超一流のアンサムブルによってこそ初めて音楽芸術が始まるのが分かるのである。残念ながらラトル指揮では一流との差は無くなって仕舞っていたが、ペトレンコ指揮で為されるところは合奏芸術である。作曲家の知能とその美意識を考えれば(ティーレマンなどが指揮して)安物になるものは全く間違いであるというのがメストのインタヴューでの意見だ。

どのようなスポーツなどでも超一流のその動きの一つ一つやその調整力に技があり、少しでも腕に覚えがあればどうしてあんなことが出来るのだろうという事ばかりである。同じように芸術の技も同じで、「やっていることは皆同じ」などと嘯いている楽師さんがいると、一体この人達には向上心も無く、日々の営みしか無いのだろうと思う。そうした技術的な希求の気持ちの無いところに芸術などは存在しない。技術の出来不出来や何流とかの問題ではない、心掛けなのである。



参照:
許容範囲だろうか 2018-12-13 | 文化一般
どれほど重いかその両腕 2019-12-06 | 雑感
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どれほど重いかその両腕

2019-12-06 | 雑感
翌日も樹氷が残った。ここワイン街道では、氷点下も樹氷も珍しくはないが、雪も乗らずにこうして残ることはそれほどない。一度記憶にあるのは一月に氷点下二ケタ台になってしばらく続いた寒さだが、その時も雪が地面に乗ったままだった。それ程の放射冷却で陽も射す。写真を撮りに行く時間はなかったが、温まった部屋にいると我慢出来なく眠気が押し寄せる。

週末の夜は、先ほど逝去したヤンソンスを偲ぶミュンヘンの放送交響楽団の演奏会の生中継から始まる。指揮はヴェルサーメストで、プログラムがシュトラウス作曲家庭交響曲から「死と浄化」に変更になっている。

先だってマリス・ヤンソンスについての思い出が語られている。メストが最初にヤンソンスの指揮を聴いたのは学生時代にトーンキュンストラー管弦楽団を振った時で、その後知り合って、ヴィーンの国立劇場での練習中で、自分自身はノイヤースコンツェルトを振る前だったが「肩に両手を置いて、どれほど重いかを知っているのは私だけだよ」とのエピソードを語り、「分別のある最も親切な指揮者仲間だった」という。

シュトラウスを交換したのに対してアブラハムの曲はそのままで、ヘンツェを偲ぶ曲と今回の初演の現実的な問題以上にその抒情がマリス・ヤンソンスに合うと思うとしている。機会も機会であるが、格上のメストがどれぐらいの指揮を出来るのか楽しみだ。ここ暫く故人の指揮で聴くに堪えない演奏しかされていなかったので、夏のネゼセガン指揮に続き、管弦楽団の現在の実力が分かると思う。時間があれば出かけても良いぐらいに思った。プログラムも面白い。

夜分ネットをサーチでYouTubeでは消去されていたバーデンバーデン祝祭のヴィデオ集が出て来た。興味深いものもあった。記憶に無いものもあった。特に記憶になかったのはティーレマン指揮のシュターツカペレとミュンヘンフィルでの二つのシュトラウスの楽劇上演で、「ばらの騎士」の方はメディア化されていて内容も知っていたが、前者の「アリアドネ」は全く記憶になかった。そもそもあの当時はあまり出かけておらず、既にカラヤン財団はザルツブルクからバーデンバーデンへと移っていたが、復活祭音楽祭は2013年までザルツブルクだったからである。それでもその間にベルリナーフィルハーモニカーがカラヤン賞を授与するなど徐々に関係は深まっていて名演もなされていた。しかし主軸はヴィーナーフィルハーモニカーの方であった。だからシュターツカペレドレスデンのオペラ舞台上演は殆ど興味の対象にもならなかった。益してミュンヘンフィルのオペラ上演は、こけら落としのケントナガノ指揮のベルリンの放送交響楽団演奏の「パルシファル」上演以上には期待させなかった。しかし何よりも気が付いたのは幕がある祝祭劇場の舞台だ。あれならばカーテンコールも可能だ。



参照:
なにも顧みることなく 2019-12-02 | 文学・思想
幕が掛かって湯煙 2019-12-01 | 文化一般


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一日早いニコラウス

2019-12-05 | 
歯医者に行った。清掃は思いの外痛みを伴わず快調に進んだ。意外に上手に歯ブラシが出来ていたのだろう。歯科衛生士さんに文句は言われなかった。しかし、懸案の抜歯は来年早々に終えてしまう心算になった。ブリッジの具体的な経過を説明して貰って数週間以内に全て終わるなら時間を見つけてやってしまう方がよさそうだ。もう少しネットで調べてみよう。そもそも自身のは自体が酷くなっているので被せてしまって新しい歯を入れた方が少なくとも美容上は良いと思わず笑ってしまった。健康上は勿論一番大切なことだ。金物は一切使っていないというから、逆に金物が入っていると経年変化でやはり具合が悪いのだろう。

歯医者に行くのに朝起きした。いつもより一時間ほど早かったか。車外温度は零下4.5度に至って、旧国道沿いの並木には樹氷が咲いていた。本物のアーモンドの花が咲くまで二三カ月である。そして森に入ると気温が一度ほど上がった。放射冷却が抑えられるのだろう。霧が立ち込めた感じなのだが冷却の関係で湿気はそれ程でもないので走るにはそれほど悪くはなかった。但し流石にショーツ一丁は無理だ。

ワイン街道へと戻ってくるとまた気温が下がる。結局午後も零下のままだった。冬タイヤでなければ危ない。色々と請求種類が溜まって来たので工面しなければいけない。税金の還付が何時になるか?普通はクリスマス前なのでその前に一時的に都合しなければクリスマスを迎えられない。

その前にクリスマスのプレゼントをニコラウスの聖日前に渡しておいた。これだけでもクリスマスストレスになるところだったが上手く顔を合わせたので良かった。日本から持ってきてもらった飾り扇なのだ。なんと2000年の大丸の包みである。中を調べると破れることも無く上手く開けたので、そろそろ上げておかないと二十年を超えてしまう。ヴィンテージワインでもないので貰った人が生まれる前に購入したとなると何かおかしな感じになって仕舞う。先ずは捌けた。一日前のニコラウスと言われたがそれ以上突っ込むと自ら落ちを作ってしまうので止めた。成果は今後のお楽しみ。

いつも何だかんだ配っているように見えて、二十年も寝かしてあるのが、その頻度を示しているようで面白い。ズビン・メータが語るブルックナーの娘を見れば手当たり次第ではないという事だけははっきりさせておこう。彼は九曲も交響曲を作曲しているが、私はまだ一つも作曲していないようにである。勿論脈が無ければ態々カードに下手な文字を書き加えるのも面倒だ。そう言えば、歯医者にいつもながら瑞々しくと言われた。歯の事があるのでかなり落ち込んでいると予想されたのだろう。なるほど一年間は自身の運動能力が出ないので本格的なスポーツを控えているが、コンディション維持だけはしているつもりだ。筋力などは再びつけなければいけないが、上体は意外に早く戻ると思う。下半身から体幹の方が重要だろう。歯の治療が済めば再び追い込める。



参照:
スパイ活動をしていた教授 2019-11-25 | 生活
あまりにも忍びない 2018-08-16 | 生活
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昨今の音楽劇場の傾向

2019-12-04 | 文化一般
フランクフルトの新制作「ペネロープ」の新聞評を読む。他の批評とは異なってその演出を絶賛してある。視点の違いは細やかな芝居への配慮かも知れない。ここの所オペラ劇場と音楽劇場の差異を示すのは、本格的な芝居を試みる演出なのかもしれない。半世紀も遡ればヴィーラント・ヴァークナーの様な抽象的な舞台から音楽を聴かせるとか、また四半世紀も遡ればコンヴィチニーなどの読み替えがそれとされていたが、最近の傾向は芝居という事になるだろうか。

その意味からはピーター・セラーズ演出などがザルツブルクでも一度は成功しても後が続かないのは要するに時代遅れという事でしかないのかもしれない。音楽劇場の音楽自体もより細やかな心情や心理描写、心理的風景の描写をその総譜から引き出す方向へと一気に進んでいるという事なのだろう。

「ペネロープ」の一幕をお勉強した。想像していたよりもいい。なぜこの1913年に初演されて百年近く隣国のドイツで上演されず、今世紀に入って独初演されて、今回フランクフルト初演となったかである、その理由をそこに見る。歌に合わせて被らないような薄い管弦楽が付けられるところから数段に亘ってフォルテシモが付けられるところまで、実はダイナミックスもかなり大きい。要するに従来の音楽劇場が丁度昔の磁気録音やSP録音と同じくそれなりにダイナミックスを縮めてしか演奏出来なかったことにも相当する。

もう一つ景から景への移り変わりが勿論音楽的な変換なのだが、可成りカメラの切り替えのようにコントラストとテムポを以て変わって行く。演出上のポイントでもあるのだろうが、当然劇場指揮者の腕の見せ所だ。

それだけでなく音程間を重視した動機とそのリズムからのアティキュレーションは音楽的に優れた人が指揮しないとお話しにならないだろう。DLした楽譜はその写譜がよいのかとてもニュアンスが豊かだ。これならば今回のヨハンナ・マルヴィッツのようにネーティヴのフランコーネでなくとも間違えることは無いだろう。

Gabriel Fauré: PÉNÉLOPE, Oper Frankfurt



そして幾つものカ所で場合によれば指揮者の力量が問われることになるだろう。大変評判が良いだけに自らの耳で確認してこの女流指揮者が将来どの辺りのキャリアを築くか判定を下せると思う。前回は「メリーウィドー」指揮では出来なかったものだ。最低直にバイロイトの二代目音楽監督は間違いないが、総監督になれるかどうかも判断できるのではないかと思う。そう言えば元祖ティーレマンの契約延長はまだ発表されていない。とても心配である。

復活祭の新制作「フィデリオ」について調べていた。新たに興味を持ったのはマルリス・ペーターセンの歌う「レオノーレ」の録音が発売されたことで、その演奏は2017年にバーデンバーデンでコンサート形式で演奏されて話題となった。そして二月にミュンヘンでペトレンコが初めて指揮した時の公演の為のお勉強素材にしていたことだ。アルモニアミュンディとは違う経由で公開されていたものだった。そして調べてみるとその時点ではペーターセンが歌うことは発表されていなかった。しかし2018年11月に完全予想していた。

そして自身の書いたものを調べると2019年2月には今年ミュンへンでペトレンコ指揮以外で再演されることも予想していた。特にキリル・ペトレンコ指揮の公演関連は全てその前から準備の期間があって、唐突に何かという事はあまりない。その法則をみて2021年復活祭の聞こえ漏れた上演プログラム関連を逆算して観察しているのだが、現在のところあまりその兆候が無い。

2020年オープニングツアーのプログラムも発表されて、その後の日程の予測にもなる。そこで気が付かなかったのは、ベルリンではペトレンコの3Fプロジェクトの一つFriedenの「ミサソレムニス」がティーレマン指揮で演奏されるとある。なるほど今シーズンには復活祭でエクスクルシーヴで演奏される意味が分かった。同様に第九も日本でだけデュダメル指揮で演奏される。ペトレンコ体制ではその辺りの指揮者が当て馬にされるいつものプログラミングである。



参照:
生誕250周年への準備 2018-11-28 | 暦
「キリルと高度に一致」 2019-02-05 | 文化一般
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年末大当たりは要らない

2019-12-03 | 
朝起きたらバルコンへの扉が開いていた。前夜に干してあったものを取り込んだ節、しっかり閉めていなかったようだ。月曜の朝は氷点下だった。それでも部屋が特別冷たいという感じはしなかった。暖房のお湯が天井裏へと流れているからだろうか。

その戸口のところを掃除機で吸ってカーペットに穴をあけたのでそれを隠した。発注した竹で組んだマットである。まあ、無難に収まった。自分自身では問題が無いのだが、お客さんが来た時などはバルコンが湿っていると皆足元を気にするのでそこで形だけでも拭って貰える。

カーペットの入れ替えも懸案事項なのだが、家具等を動かすのが面倒なので、隣をリフォームするときまでおいておいて、その時に両方のアパートメントを同時にリフォームしようと思っている。

先日から年末年始のプレゼントへの応募お誘いが多い。一番高そうなのがヴィーナーノイヤースコンツェルト二人券と三泊というZDFの抽選だ。自分たちが散財するものだから視聴者も巻き込もうという魂胆なのだろう。ある程度の場所が只で貰えるならば悪くはないと思うが、三泊もしている暇も無し、交通量も嵩み可成りの散財になりそうで興味が無い。

同様にベルリンでのジルフェスターコンツェルトへの招待と言うのもあったが、これは家で観ている方が楽しそうなので、別に行こうとは思わなかった。こちらの方が出費は少ないが、ベルリンの大晦日のどんちゃん騒ぎは御免である。

ベルリンから販促資料が届いた。メディアソフトを売ろうとするものだ。そこには既に購入した「悲愴」からフルトヴェングラ-、ラトル物の知っているものが並んでいる。しかし付録の不買品第九などはない。興味あるのは全てDL券が付いていることだが、価格がべら棒に高い。ライヴ録音でよくもこの価格で売ると思う。そもそも映像などには興味の無い者からするとそうなる。そしてそのハイレゾのDLは既に日本のサイトから無料で落としてしまっている。なるほど日本語が分からない普通の人には興味があるのかもしれないが、そもそもDLさせてしまうともうそこからはコピーで行き渡る。ネットメディア商売が成り立たない所以だ。こうして宣伝を受け取れば受け取るほど全く将来性の無い事業だと思う。それでも10%割引券が付いていたので、なにかに使えないかと調べている。

頑張って二日続けて走った。最大の障壁は、寒さやにわか雨では無くて、隣町への国道旧道が閉鎖されていることだ。バイパスを遠回りして走ると距離が三分の一程伸びる。しかし帰りは山の中腹をは未舗装道路を通って戻ってきた。入車出来ないので事実上片道通行で対向車が無くて助かった。対向車は隣町へと行くその山の中の住居街住人の車だけだろう。



参照:
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
未だ嘗てない年越し 2018-12-31 | 暦

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なにも顧みることなく

2019-12-02 | 文学・思想
マリス・ヤンソンスの訃報が新聞に載っている。文化欄一面の最下段で大きくも小さくもない。一方日本での人気は正直驚くほどで、とても興味深い。どうも2003年以降のバイエルンの放送交響楽団との活動で特別に日本で愛されたようだ。だから私は全く分からない。同時に分からなかったのがその放送交響楽団の日本での人気だったので辻褄が合う。

なるほど新聞にもその指揮の特徴として、その規律と継続性が挙がっている。勿論それは芸術でなくてもスポーツでも同じだが、またヤンソンス氏の人間性と言うか楽天的な感じがとても日本で愛されたのだろうと思う。それらが音楽として表現されていた。

相思相愛な感じがして、心臓さえ悪くなければNHK交響楽団を任せれればよかっただろうと思う。もし世界的に通用するザルツブルクの音楽祭に出るような楽団にするにはこの指揮者しかなかったのだろうと思う。斎藤記念よりもオスロの交響楽団よりも良くなったかもしれない。

ショスタコーヴィッチの交響曲全集は色々な意味でヤンソンス指揮の集大成だと思うが、この十五日に交響曲11番を聴くのでそのお勉強に使おうと思う。じっくりと聴かせて貰おう。因みに11番を担当しているのはフィラデルフィア管弦楽団である。

週明けの朝は零下1.5度まで下がった。しかし朝日が強く射したのでショーツ一つで走れた。短いコースだったが、目が覚めた。月曜日の朝はバタバタするのが嫌で控えることが多いが、朝早く済ませられるとこれはこれでまた活力が生まれて得したような気持になる。特に今回は月初めで特にである。

もう少しすると来年の日程が決定してくる。何かと物入りで、巧く都合したい。年末に決算して仕舞たいものもある。クリスマス前に税金の還付もあるだろうが、出来るだけ早めにして欲しい。やはり先に工面しておかないとやりくりがつかない。

ブルックナー交響曲八番ノヴァーク版に関して探していたバロック期のバラの絵が見つかった。あれは自身の頭脳の中にあった。存在しないバロックの名画だった。そのオリジナルは詩だった。

Angelus Silesius
(eigentlich Johannes Scheffler)
Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.

それはアンゲリウス・シレシウスの詩で十七世紀中盤を生きた新教のブレスラウからシュトラスブルクへと医学と行政法を学んだ人で、更にライデンとパドュアで医学と哲学の博士号を習得している。その後、新教をそのドグマ性から反キリストと考え転向したことでルターからはルツィファーと呼ばれ旧教の守護に回った。

上の詩は、「智天使ケルビーム」集に入っているもので、ブルックナーにおける特にノヴァーク教授の視点からそれほど遠くないものであるとの印象はそれ程当て外れではない。作曲家ブルックナーの心的な神秘主義の恍惚などはまさにこうした宗教的な信条として同様である。ブルックナーの交響曲のバロック性でもある。

薔薇に理由はない。
咲く故に咲いている、
自らを気に掛けることも無く、
見られるかどうかなど顧みない。

私がイメージした図柄は真っ黒の背景で、どこからともなく薔薇の花がこちらを向いて咲いている。何色のバラだろうか?赤みのあるバラ色だろうか?

ズビン・メータ指揮のブルックナー交響曲八番は、そのものなにも顧みることなく鳴り響く。そのような音響芸術だと思ったのだった。それは、ブルックナーの神秘主義の核心でもある。



参照:
無情なまでの無常 2019-11-09 | 音
幕が掛かって湯煙 2019-12-01 | 文化一般



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