2018年ザルツブルク音楽祭新制作「サロメ」の再放送があった。手元に録画あるのは分かっているが、流されるものと比較しておく必要がある。実はその録画も一度ごみ箱に入れていた。そして調べてみると15GBの大きさだ。だから捨てようとしていた。映像では冴えなかったのだが、その公演で一夜にして世界のトップに躍り出たアスミク・グリゴーリアンの声を生で経験してからは、どうしてもマルリス・ペーターセンの歌と比較する必要を感じた。その両者のサロメが批評等で比較されていたからだ。
声に関しては理想的なリヒャルト・シュトラウス歌いとされるグリゴーリアンであるが、ペーターセンの歌い口には比較しようがない。やはり語学力も大きい。来年のバイロイトはどうなるか分からないが、目玉は彼女と初女流指揮者でしかないが、今回の「エレクトラ」でも独語歌唱に関しては心配になっている。折角オールラウンドの当代一の実力を持っているのだから、是非バイロイトデビューも圧倒的な成功をして貰いたいと思うからだ。
という事で、昨年のミラノでの「死の街」は別にして、「サロメ」をもう一度聴いてみようと思った。肝心の歌以前に、ヴェルサーメストの指揮に耳が行く。ヴィーナーフィルハーモニカーを上手に鳴らしている事では流石と思う。それは今年の感想でもあった。
(承前)そのメストは開演一時間半前にはまだ通用出口で憩っていた。こちらも慣れぬコロナ対応で二時間も早くスタンバイすることになったのだ。隣の女性が気になったので、正面は避けてパパラッチだけにさせて貰った。あの彼女が奥さんとすると、義理のお母さんだったという事になる。なるほどと思わせた。
今回の「エレクトラ」のヴァリコスキー演出は、その継子が殺すのはその母親とステップファーザーなのだが、母親に焦点を当てている。最初にマイクで胸中を吐露するのもその母親である。その前には暫し虫の声が響く、それが全く「サロメ」のカステロッチの演出のそれと同じで、意識したのかなとも思った。そもそも会場のフェルゼンライトシューレは半オープンエアーの態勢があって、背後の岩壁もまさしく駐車場の壁の外壁になる。
ヴァリコスキーの演出をして女性の楽劇と評したものは多い。確かに妹のクリソーテーミスに当代最高のソプラノを配したキャストティングで、主役のエレクトラと母親と妹へとその比重が三等分された劇となっている。
母親クリムネストラ役のバウムガルトナーはフランクフルトで歌っている人の様で、バイロイトでもフリッカを歌っていたようだ。だから最初のスピーチから最後までその独語のイントネーションも自然でとても言葉が明快だった。この役にはその実力が要求されるようで、ヴァルトラウト・マイヤーなども声が衰えているからか殆ど語りのようになっている。それに比較すると歌としても決して悪くはなかった。
そうした歌と演技で以って何を表現させたか?感覚的にはとてもセクシャルだった。その点でも前記カステロッチの肉体性が表面に出る演出とは異なって、とても感覚的だ。同じような印象は昨年夏のミュンヘンでの「サロメ」でも共通したものがあった。もう一つ体験したのは同じシュトラウスの「影の無い女」だった。当時流行のフロイトの分析がホフマンスタールらの創作の背景にあったとなる。「影の無い女」では、当時の生殖、結婚、生活が作品の主題であったという事になる。それでは今回の「エレクトラ」での主題はなにか?(続く)
参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
声に関しては理想的なリヒャルト・シュトラウス歌いとされるグリゴーリアンであるが、ペーターセンの歌い口には比較しようがない。やはり語学力も大きい。来年のバイロイトはどうなるか分からないが、目玉は彼女と初女流指揮者でしかないが、今回の「エレクトラ」でも独語歌唱に関しては心配になっている。折角オールラウンドの当代一の実力を持っているのだから、是非バイロイトデビューも圧倒的な成功をして貰いたいと思うからだ。
という事で、昨年のミラノでの「死の街」は別にして、「サロメ」をもう一度聴いてみようと思った。肝心の歌以前に、ヴェルサーメストの指揮に耳が行く。ヴィーナーフィルハーモニカーを上手に鳴らしている事では流石と思う。それは今年の感想でもあった。
(承前)そのメストは開演一時間半前にはまだ通用出口で憩っていた。こちらも慣れぬコロナ対応で二時間も早くスタンバイすることになったのだ。隣の女性が気になったので、正面は避けてパパラッチだけにさせて貰った。あの彼女が奥さんとすると、義理のお母さんだったという事になる。なるほどと思わせた。
今回の「エレクトラ」のヴァリコスキー演出は、その継子が殺すのはその母親とステップファーザーなのだが、母親に焦点を当てている。最初にマイクで胸中を吐露するのもその母親である。その前には暫し虫の声が響く、それが全く「サロメ」のカステロッチの演出のそれと同じで、意識したのかなとも思った。そもそも会場のフェルゼンライトシューレは半オープンエアーの態勢があって、背後の岩壁もまさしく駐車場の壁の外壁になる。
ヴァリコスキーの演出をして女性の楽劇と評したものは多い。確かに妹のクリソーテーミスに当代最高のソプラノを配したキャストティングで、主役のエレクトラと母親と妹へとその比重が三等分された劇となっている。
母親クリムネストラ役のバウムガルトナーはフランクフルトで歌っている人の様で、バイロイトでもフリッカを歌っていたようだ。だから最初のスピーチから最後までその独語のイントネーションも自然でとても言葉が明快だった。この役にはその実力が要求されるようで、ヴァルトラウト・マイヤーなども声が衰えているからか殆ど語りのようになっている。それに比較すると歌としても決して悪くはなかった。
そうした歌と演技で以って何を表現させたか?感覚的にはとてもセクシャルだった。その点でも前記カステロッチの肉体性が表面に出る演出とは異なって、とても感覚的だ。同じような印象は昨年夏のミュンヘンでの「サロメ」でも共通したものがあった。もう一つ体験したのは同じシュトラウスの「影の無い女」だった。当時流行のフロイトの分析がホフマンスタールらの創作の背景にあったとなる。「影の無い女」では、当時の生殖、結婚、生活が作品の主題であったという事になる。それでは今回の「エレクトラ」での主題はなにか?(続く)
参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事