不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

女性の楽劇と評されたもの

2020-08-17 | 
2018年ザルツブルク音楽祭新制作「サロメ」の再放送があった。手元に録画あるのは分かっているが、流されるものと比較しておく必要がある。実はその録画も一度ごみ箱に入れていた。そして調べてみると15GBの大きさだ。だから捨てようとしていた。映像では冴えなかったのだが、その公演で一夜にして世界のトップに躍り出たアスミク・グリゴーリアンの声を生で経験してからは、どうしてもマルリス・ペーターセンの歌と比較する必要を感じた。その両者のサロメが批評等で比較されていたからだ。

声に関しては理想的なリヒャルト・シュトラウス歌いとされるグリゴーリアンであるが、ペーターセンの歌い口には比較しようがない。やはり語学力も大きい。来年のバイロイトはどうなるか分からないが、目玉は彼女と初女流指揮者でしかないが、今回の「エレクトラ」でも独語歌唱に関しては心配になっている。折角オールラウンドの当代一の実力を持っているのだから、是非バイロイトデビューも圧倒的な成功をして貰いたいと思うからだ。

という事で、昨年のミラノでの「死の街」は別にして、「サロメ」をもう一度聴いてみようと思った。肝心の歌以前に、ヴェルサーメストの指揮に耳が行く。ヴィーナーフィルハーモニカーを上手に鳴らしている事では流石と思う。それは今年の感想でもあった。

承前)そのメストは開演一時間半前にはまだ通用出口で憩っていた。こちらも慣れぬコロナ対応で二時間も早くスタンバイすることになったのだ。隣の女性が気になったので、正面は避けてパパラッチだけにさせて貰った。あの彼女が奥さんとすると、義理のお母さんだったという事になる。なるほどと思わせた。

今回の「エレクトラ」のヴァリコスキー演出は、その継子が殺すのはその母親とステップファーザーなのだが、母親に焦点を当てている。最初にマイクで胸中を吐露するのもその母親である。その前には暫し虫の声が響く、それが全く「サロメ」のカステロッチの演出のそれと同じで、意識したのかなとも思った。そもそも会場のフェルゼンライトシューレは半オープンエアーの態勢があって、背後の岩壁もまさしく駐車場の壁の外壁になる。

ヴァリコスキーの演出をして女性の楽劇と評したものは多い。確かに妹のクリソーテーミスに当代最高のソプラノを配したキャストティングで、主役のエレクトラと母親と妹へとその比重が三等分された劇となっている。

母親クリムネストラ役のバウムガルトナーはフランクフルトで歌っている人の様で、バイロイトでもフリッカを歌っていたようだ。だから最初のスピーチから最後までその独語のイントネーションも自然でとても言葉が明快だった。この役にはその実力が要求されるようで、ヴァルトラウト・マイヤーなども声が衰えているからか殆ど語りのようになっている。それに比較すると歌としても決して悪くはなかった。

そうした歌と演技で以って何を表現させたか?感覚的にはとてもセクシャルだった。その点でも前記カステロッチの肉体性が表面に出る演出とは異なって、とても感覚的だ。同じような印象は昨年夏のミュンヘンでの「サロメ」でも共通したものがあった。もう一つ体験したのは同じシュトラウスの「影の無い女」だった。当時流行のフロイトの分析がホフマンスタールらの創作の背景にあったとなる。「影の無い女」では、当時の生殖、結婚、生活が作品の主題であったという事になる。それでは今回の「エレクトラ」での主題はなにか?(続く)



参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表情のヴィヴラート

2020-08-16 | 
朝一番で頂上を目指した。早朝でもあり出来る限り抑えて完走を目指すだけだった。肉屋が7時から開くので8時ごろまでには入りたいとそれだけだった。日曜日には暑くなり、パン屋が始まる月曜日から涼しくなるので、また通常に戻れる。つまりパン屋に寄ってから一っ走りとなる。山登りコースは冬までお預けだ。先週は旅行があって、最初で最後の機会を活かした。谷間の急坂は二回走ったので、三度目の正直で続けて頂上を目指した。

気温は20度前後乍先日よりも低めで陽射しが薄かった。比較的気持ちよく走れた。中域では汗が出て来たが、我慢して上り詰めた。頂上小屋には誰かが入って準備をしていたようだ。下りてくるまで誰にも合わなかった。下りは辛くとも足が止まることはないので安心だ。比較的早めに車に戻ってきたが、久しぶりにエンジンの掛かりが悪かったので、十分ほど肉屋入りが遅れた。それでも並ぶことなく買い物が出来て、帰宅したのは8時過ぎだった。

これでパン屋休暇中の走りは距離からすれば悪くはなかった。減量は叶わなかったが、増加を喰い止めた感はある。午前中11時のザルツブルクからの生中継を楽しみにした。

晩は涼しいうちにジャガイモを蒸してレバーヴルストで食した。日曜日には最後の暑さのピークが予定されているからだった。そして19時30分から先日放映されてセンセーショナルな成功を収めた「コジファンテュッテ」初日がラディオ放送された。

先ず、映像と同じようだが収録音が素晴らしかった。バイエルン放送協会の方を聴いて録音した。映像とは異なり会場の残響も多いことから指揮者登場の拍手の鳴りが良かった。そしてその音の新鮮感は公演の成果に大いに貢献した。当日は雨で大変だったようだが、恐らく空調の成果もあってか湿気よりも空気の清楚を感じさせる。舞台もシムプルで階段状に後ろを開けたことも音響に功を奏したかもしれない。反面放映でも感じた演奏の熱度は高く、序曲から飛ばし気味で、最初の女声デゥオまでぐらいは緊張感も勝ってか若干硬くなっていた。

しかし序曲における二拍子リズム取りも見事で、指揮者のマルヴィッツが楽譜を読み切っている。楽団が弾き切れば更に鞭を入れて行くようなその指揮振りは伊達に十代から現場にいる指揮者ではないと思う。最近は男性も高等学校には行かずに劇場で修業する人が増えているが、そのような経歴を誇る中では年齢から考えてもピカイチではなかろうか。当然の事歌手陣が名唱を披露すればするほど客席の熱気が上がって来る。成程、フランクフルトでの「メリーウィドー」ではそうしたところがあったが、楽団がそれにも益して乗って来るそれはやはり超一流の座付楽団のなせる業だと思う。

今回のヴィーナーフィルハーモニカーはヴァリサーメスト指揮「エレクトラ」でもここ最近聴かせたことが無いような本気ぶりを示していたが、指揮者、歌手陣、演出で類稀な成果だと思う。そして、マルヴィッツの挿む休止や間がなんとも微妙で、キリル・ペトレンコ指揮では聴けない柔軟なものだ。

今回は時節柄、直前にキャスティングをしても欧州のオペラ市場から歌手を選り取り見取り出来たらしい。その中での選択狙い通り、歌手陣も素晴らしく。デスピーナのレア・デュサンドルという人もバロックで活躍している人のようでルセやらピション指揮でも良く歌っているようだ。最初にリツイートなどされていて忙しくて忘れていたらまたハートを貰ったのでフォローしておいた。ドンアルフォンソを歌ったバイロイトのベックメッサーを除くと三十路前の歌手ばかりを集めている。

最近は世界中から集まるオペラ歌手が秀逸な教育を受けていて、その中で切磋しているものだからとても技術的に高く、嘗ての様に生来の声で売れるという事が無い。今回も指揮者からその若い歌手陣にまで皆共通する高程度である。BRが評として、偉大なモーツェルト演奏の伝統を弾く継ぐものとして、大げさではなく、画期的な百周年公演となった。放送でも19世紀中にカットされたもこのオペラブッファを原典回帰させたのは指揮者グスタフ・マーラーで、ザルツブルク音楽祭初演は指揮者リヒャルト・シュトラウス、そして女性最初のマルヴィッツと紹介された。あのカール・ベーム指揮の決定的名演が吹っ飛びそうである。

その中でも歌で気が付いたのはフィオルデリージのエルサ・トライシークの歌声で、経過とともに温まって安定感が増していき表情によってヴィヴラートが変わる。天性のものもあるのかもしれないがそれが歌唱としてコントロールされているのだろう。これはベルリンなどでも大人気だったのは分かる。



参照:
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まるで夏の打ち上げ花火

2020-08-15 | 文化一般
ルツェルンからの生中継を聴いて、時差で映像を観た。93歳で祝祭管弦楽団デビューを飾る指揮者ブロムシュテット、足取りも快調で元気そうだった。自宅から交通渋滞さえ避ければ十分も掛からないだろう。その指揮に慣れている嘗てのリーダーだったゲヴァントハウス管弦楽団のコンツェルトマイスターのブロイニンガーが出てくると想像していたが、若い二人が勤めた。まずそれで音楽的な成果は出ないと思った。

案の定、出てくるなり、コンツェルトマイスターに握手を求めて、それを受けてしまったので大笑いになり、ご本人はべそをかいていた。93歳でも緊張し過ぎたか?一緒に登場した共演するピアニストのアルゲリッチも80歳という事で話題になっていた。先日も中継で突然ショパンの葬送ソナタを弾きだして、台所の私まで吃驚したが、流石に技術的には傷があっても音楽自体はとても良かった。中継に呼ばれていた若い女流指揮者は緩徐楽章での色彩感は咳の無い会場を包んだと表現していたが、そのイントネーションもしっかり弾き分けていた。

因みに会場は一つ空けたぐらいの所謂チェス盤配置で、欠席者や売れ残り、また二人組などで凹凸があったが最上階までギッシリ入れていた。その代りマスクを演奏中にもさせるという蛮行で、殆どがロッシュなどのスポンサーの関係者だと思うが、よくも我慢しているなと思った。私など比べる程でもない額の寄付をして、招待されていて、マスクをしなければいけないとなったら怒り狂ったと思う。よくあることでそれほど何もしていない奴ほど喧しいのだ。

日本で圧倒的な人気の指揮者ブロムシュテットに関して、明らかに勘違いしていた評論家が出ていた。ここでもおなじみのマルコ・フライだが、どうも93歳で重苦しいテムポの指揮をすると考えていたようだ。この人はキリル・ペトレンコの初日本公演にも取材に出かけていて、いいものを書いていて、まだ若い声をしている。それもスイスで書いていてルツェルン在住のブロムシュテットの音楽を知らない。なんとも情けない。それゆえにその軽い足取りをと何か完全に間違っていて、新校訂版のベートーヴェンのハイティンク指揮やアバド指揮と比較してより感じ入っているので、もうこの人は駄目だと思った。老人がそわそわと落ち着かなくて、話しも相手の話す内容を聴きとれずにどんどんと一人で進んでしまう肉体的な問題や心理的にも我慢が出来なくなることが分かっていなくても、少なくともベートーヴェンの音楽の和声やその構造ぐらいは音楽学を学んだというなら理解しておいて欲しい。駄目な学徒だけならまだしもプロとしていい加減なことを書くならば社会的な責任を取らなければいけないだろう。

個人的には、ブロムシュテットの指揮はもう仕方がないと考えていて、音楽祭が手頃なところで手を打って、お客さんも喜んでならばそれで結構だと思う。しかし玄人はしっかりせい。流石にもう一人の女流指揮者は言葉を選んでいた。しかし興味深かったのは、「まるで打ち上げ花火のような」演奏だったというのは、とても良かった。これには私も一票入れたい。アルゲリッチの演奏も大きいが、スイスでこのような発言がなされたのは特記しておきたい。アルゲリッチの娘がデュトワという名でマネージャーをやっていて舞台袖でウロウロしていると聞いて、なるほどアルゲリッチもスイスでとても長いのだと納得した。もしかすると国籍もとっているのかもしれない。

少し涼しくなったので朝食にメットを食した。所謂ソーセージの中身でそれ専用のラインでミンチにしてあれば生で食せる。世界でも稀な豚肉の生食いである。薄くスライスした玉ねぎとフランスで購入してあったクンメル、塩胡椒で朝食とした。あまり体調の悪い時や暑い時には食欲が湧かないが、久しぶりで大変美味だった。



参照:
生の味付けのうまさ 2014-10-22 | 料理
注目する親子関係 2020-07-07 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塩浴のザルツブルク

2020-08-14 | アウトドーア・環境
涼しくなった。朝一番で急坂だけを走った。週末への準備である。この数日間は夜明け前でも摂氏20度を遥かに超えていたので20度そこそこでも気持ちよかった。上半身裸になっていたのが、パジャマの上着まで着て窓を閉めた。週末は20度を割って、日曜日が晴天になり気温上昇するだけだ。

気温が下がってくると食事の準備も可能となり、バルコンでも気持ちよく食事が出来るようになった。久しぶりにオーヴンも使った。一番暑い日は二リットルの水にコーヒーなども冷やして飲んでいたので胃も疲れていたが、これでお茶も一リットル作り置きで足りるようになる。

胃酸も薄まらずお腹も冷えないので、食欲が出てくると、食が進む。ワインもビールも美味い。胃が張っていたのも若干すっきりした感じがする。

夜分バルコンで食事をしたり寝椅子で涼んでいると下楷からの匂いが漂ってくる。直下には三件の窓、その下は三件、庭からもとなるとどれがどれという事はない。野外でのバーべキューは分かり易いが、意外にどれがどこからか分からないのは香水や化粧品類のそれだ。兎に角キッチンからではないのでそれほど邪魔になる事ではない。

しかし匂いは想像を掻き立てることが多く、結構その気になってしまうのである。その中で久方ぶりの雨で路面やら壁やらの匂いがし出した。それもそんなに埃っぽい匂いではなくて、塩っぽい匂いがした。それで思い出したのは、ザルツブルクだ。先日二十年ぶりで嗅いで来たものだ。私にとってはザルツブルクの想い出の全てに近い。それも暑い時に蒸気が立つような駐車場からのあの通路である。

今年は幸い気温も低く湿度も低かったので眼鏡が曇るようなことは一切なかった。その為か以前よりも通風が良くなった感もあった。そしてあの独自の塩気は殆ど海水浴のようなものだった。少なくとも今夏にそれを想い出して、改めて感覚に定着した。

ザルツブルクの街はそのバロック都市としてとても魅力的でまさしくホフマンスタールの描く世界である。その世界は得難く、様々な意味でヴュルツブルクは匹敵するかもしれないが、勿論それはバイロイトにはなく、勿論バーデンバーデンにもないものだ。

土曜日には8月1日「エレクトラ」初日が今度は3Satで放送されて、その前には8月2日「コシファンテュッテ」初日がラディオで放送される。特に後者はラディオで聞くとどのように聴こえるのかが愉しみで、より音楽のデテェールに亘ってもう一度吟味したい。

その土曜日の午前中にはザルツブルクの祝祭大劇場から生中継でムーティ指揮の第九が放送される。これも歌手陣の魅力だけでなくて、合唱をコロナ禍で最初に本格的に歌わせるとして話題性が高い。月曜日夕刻にはArteでも中継録画として放映される。



参照:
矛盾のザルツブルク音楽祭 2020-08-12 | マスメディア批評
ザルツブルクからの中継 2020-08-02 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プファルツ風ポテトサラダ

2020-08-13 | 料理
漸く返金手続きが済みそうだ。事情が事情と言いながら皆が気長に辛抱しているのだろう。コロナ条件を粛々と守っている気持と同じだろう。そうは言っても場所や地域によってその対応が異なっている。それが差になって、ロックダウンを避けがたい地域と逃れる人々の差が出てくる。このことだけは間違いないと、その新感染数の指数から感じている。20から30に至っている地域は自然減少は期待できないだろう。恐らく実行再生産数で1.5を超えているのだろう。感染者数が増えれば同じ振る舞いを続けていれば2を超えるのも近いかもしれない。

近所ではルートヴィッヒスハーフェンが26.9で全連邦でワースト二傑になっている。巡回するなりして引き締めないと駄目だ。祖国帰りの人とかが持ち帰ったとされているが、テストに並ぶ人の間隔を写真で見ると、これでは駄目だと思わせる。1mを切っているところはどこかで次の波が来る。

ここワイン街道地元はどこかで発生したらしく3若しくは隣近所では2となっているが、クラスターならばまた零行進に還ると思う。また来週から新学期になるとどうなるか。絶えずチェックして行かないと駄目である。結構な神経戦を迫られる。来週あたりから涼しくなって秋になって行くので、冷静な行動が可能となろう。

バーデン・ヴュルテムベルク州の状況が指数4ととても良くなっていて、とても喜ばしい。月曜日にバーデンバーデン祝祭劇場の発表があったようで、11月1日のヘンゲルブロック指揮特集までが来週に発売されて、入場者500人まででノイマイヤーのバレー公演から再開される。一月後の9月にそれ以降の期待される恐らく1000人規模の演奏会となる。新制作「サロメ」のオペラ公演がどうなるか、またベルリナーフィルハーモニカーの公演がどうなるかだけである。つまり、このまま返金もしないでおいて9月中旬まで全額寄付の判断も伸ばしておく。

早朝涼しくなったので一っ走り行こうかと思ったが、断念した。汗を掻くためだけならばもう1日伸ばして、もう少し涼しくなってからでもいいと思った。今年の暑さは2015年とかに並ぶもので期間は短いながらも、また夜間の気温は不快なほどではないので2003年とかとは大いに異なる。だから水風呂には入っていないが、シャワーは頻繁に浴びる。来週パン屋が始まるまでに一発最後の機会を活かして恒例の真夏の頂上往復ランが出来るか?気温からすれば土曜日早朝となる。

中々夜分も涼しくならないので、出来るだけ火を使わないものを食したい。ポテトサラダは先に準備しておくので涼しい時は可能だが、やはりそれはそれで面倒である。食するのは気持ちが良い。先日ザルツブルクに残りをピクニックとして持って行った。トスカニーニプラッツでヘレスビーアを1リットルほど引っ掛けてから、宿に戻ってそれを食した。夜食としては丁度よかった。



参照:
矛盾のザルツブルク音楽祭 2020-08-12 | マスメディア批評
乾いた汗の週末 2005-06-20 | アウトドーア・環境
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

矛盾のザルツブルク音楽祭

2020-08-12 | マスメディア批評
承前)批評が大分出て来た。ザルツブルク、ベルリン、ザルツブルクで三回行われるレヴィトのベートーヴェンツィクルスへの批判が厳しい。人気があって売れっ子であるから、どこまで突っ込むかは考えものだが、分かっている人はそもそも足が伸びずに、兎に角宣伝力もあるのでという聴衆に向けて、また本人に向けて書いているのだろうか。大体SONYレーベルのタレントの実力は似たり寄ったりである。なにもレヴィットが悪いピアニストではないのだが、グルダやソコロフに比較されて、「能力重視時代のピアニズム」とされると本人もAfDに対抗するようには反論できないだろう。

それが打って変わって、ネルソンズ指揮のマーラーの六番を誉め殺ししている。その指揮振りからまるでハプスブルク時代の臣民の指揮のようだと表現して、大抵は(その亡き師匠が言ったように)年老いてから身に着ける節約の指揮をして、いつものように自由度を高めつつ精密さを失わないという事を揶揄している。明らかに核心を隠した物言いで、こちらは読むご本人を想定している ― その独語力が試されていて厭らしい。ここまで回りくどい言い方は私はしないが、まるでこの曲が大戦のカタストロフを予見させるようだとトーマス・ザンデリンクの言葉を引用して、それにアナログに夢見るようにフィナーレへと向かう演奏をおいて、今日明日にでも起こるであろうサドンレスの音楽祭の中断を思い描かせる。

そこでもコロナ安全対策万全での音楽祭開催とされる。しかしそれは真っ赤な嘘である。万全の対策で収益性を犠牲にすることは無いようにあれだけ人を詰め込むのだ。開幕一週間経過を前に場内の開演前アナウンスが変わった。気温が急上昇する週末前に扇子の使用が禁止になり、アエロゾール感染への対応となった。空気感染するならば到底二席に一人の座席配分間隔では足りない。最低1.5mの間隔は保たれるべきなのである。音楽祭は矢張り収益性しか考えていない。最低三分の一までに収容人数とするべきであった。

更に大きな矛盾を露呈させている。休憩での密を避けるために動線を把握しやすいように休憩無しで上演すると決定された。しかし、現実には入退場で人が入り乱れている。それどころか奥の席に着く人が、先に座っている人の前を通る。もはや濃厚接触数秒である。

音楽祭が真剣に安全対策を練ったのではなく、形だけのマニュアルを制作したのは明白である。証拠は幾つも挙げられる。先ず場内整理が全くされていない。ホールに入る各入り口では通常の案内しかしない。少なくとも真剣にザルツブルクからヴィースバーデンやドルトムントに人を遣わせるなり、情報を交換していれば決して有り得ない処置である。もし、会場内で感染が広がれば刑事告発される可能性が強い。その時には証言をする心算である。

要するに先ずは半数の聴衆を入れることが先にあり、その時の処置として先ずはマスク着用、個人の同定と連絡先が付け加えられて、休憩無しから扇子使用の禁止へと進んだ。それどころか公演中もマスクの着用までを高額を取りながら推奨するようになって、愈々責任逃れへと動いている。百年の伝統の文化団体の体を為していない。

このことはミュンヘンでも把握していたのだろう。だから「ザルツブルク音楽祭にいって感染を避けるにはスポーティである必要がある。」と多くの市民に注意を促した。(続く



参照:
Danach wird das Leben anders sein, JAN BRACHMANN, FAZ vom 10.8.2020
すわ、コロナ吐血か 2020-06-23 | 雑感
ザルツブルクの崖っぷち 2020-07-29 | 文化一般
ヴィースバーデンモデル 2020-05-22 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バイロイトのアンデルセン

2020-08-11 | 
週末から気温が上昇した。外気温が摂氏36度を超えると室内も厳しくなる。ここ暫く暑い思いをしていなかったので加齢によるものかと思っていたぐらいだ。しかしどっこい、そこまで温度が上がると首の血管の温度が急上昇するの頭全体に過熱感がある。座っているだけでも眠くなる。

先週は旅行で走る余裕が無かったので短く急坂コースを走っただけだ。帰宅翌日の土曜日も夜明け前には起きれなかった。日曜日の朝は摂氏20度前後だったので現金も必要になって出かけた。休んでいるパン屋の近くを通って、いつもの駐車場で準備運動をしているとライヴァルのノルディックウォーキングの婆さんがやって来た。降りてくるときに抜くと、同じぐらいの早さじゃないとけしかけられる。遅いのは分かっているが、準備体操も入念にやっていたのだ。兎に角暑さに耐えるにはその前に発汗しておいて水気を摂っておくのに限ると思う。

バイロイトとザルツブルクを比較した番組があった。音楽祭の形態も何もかもが違うが、ザルツブルクがモデルにしたのはバイロイトだと最近初めて知った。

七月末にそのバイロイトの現況を伝える記事があった。手元の古新聞を探しても出て来ない。ネットだけだったのかどうか。中々意味深な事が書いてある。先ずは一時広報されていた独連邦ユース管弦楽団をティーレマンが指揮して、ショスターコーヴィッチ作交響曲13番「バビヤール」が計画された推移が書いてあって、カタリーナ、メルケル、フォンドナーニ兄、ウラハーンが話し合って決定したとある。最後の人はバイロイト議論を司っている人で、どうも音楽祭の知的監督官のような立場にある音楽学者の様である。ドナーニは元ハムブルクの市長で反逆罪で処刑された父親を持つ指揮者フォンドホナーニの兄である。

先ずこの情報から知れることは、監督官だけでなくて諮問団のようなものがあって、従来の友の会などを逸脱して存在するという事なのだろう。そして、ドナウエッシンゲンでお馴染のステンアンデルセンが音楽祭から委嘱でインストレーションを披露している。その作品自体は、空の祝祭劇場のサウンドスケープを使って歴史を描く出すというもので、企画意図からしても夏の音楽祭中止以降若しくはカタリーナ重篤の後で依頼されていることが想像可能となる。更にはハウトューメークの番組内で、イェルサレムなどの歌手にシェロー演出やブーレーズ指揮を語らせている。

そして次期「指輪」の演出を手掛けるヴァレンタイン・シュヴァルツは、その舞台の設置の為の最終調整だったのでバイロイトに滞在していて、その話しを聞いている。毎年修正をする機会が与えられてという事だ。そして聞き逃せなかったのは、ステンアンデルセンの今回の作品は無人だったが、他の指揮者同様に何回もまた次回は有人でプレゼンテ―ションするということだ。

バイロイトの劇場では第九演奏ぐらいしかなされないのだが、そこにステンアンデルセンの名前が入ってくるという事か。再び新聞記事に戻れば、祝祭劇場でのショスターコーヴィッチ中止の後でもベートーヴェン交響曲をドレスデンと同じように演奏する計画と放送が告知されたがそれらが悉く実現しなかった。又番組等でのティーレマンのインタヴューは多く撮られていて、背後に動きがあったとみられる。秋までの任期の元祖音楽監督であるが、実際にはも既に頭でっかちになっていて、人事を含めて変化があるという事には間違いない。

一方では新聞は秋にはカタリーナが復帰する前提で話しが進められている。そして2015年から一人態勢になってからの、功績は歌手の何人かの抜擢と子供ヴァークナー楽劇の展開や何よりもステンアンデルセンのようなプロジェクトがなされるほど先進したことだと結んでいる。ステンアンデルセンに作品委嘱したのは誰だったのかとの問いかけが必要となる。

来年再開がならなければ、一先ずバイロイトのヴァークナー祝祭は終止を打つとされている。その後の展開を含めての改革が背後で進んでいることは間違いない。



参照:
Der Loop des Nibelungen, JAN BRACHMANN, FAZ vom 24.07.2020
ドナウエッシンゲン祭管弦楽 2019-10-21 | 文化一般
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザルツブルクの勘違い

2020-08-10 | 文化一般
承前)「ザルツブルク音楽祭は始まった。そしていつまで続くかは誰も分からない」はフランクフフルタ―アルゲマイネ新聞の楽劇「エレクトラ」初日への音楽評だった。そこで批判されていたのは、教育を受けたベルリンでもいるような上等のお召し物で銀の格子のタイをしているような人がまともなマスクの準備もしていないということだ。

本年は海外からの訪問者は事実上締め出されて、ドイツ語圏を中心に近隣諸国の聴者が対象となって百周年祭が開かれた。そこでこちらが期待したのは、ミュンヘンとヴィーンからの聴衆を中心とした所謂玄人だけでなく高度な質の聴衆であった。しかし初日評に既に批判としてそのことは指摘されていて、聴衆も試されていた。当然のことながら初日は玄人筋を除いても招待客が多くスポンサー会社のお偉いさん方が集っていたのだろう。

その点では、「エレクトラ」二回目の上演に際して、それほどマスク装着義務などを疎かに扱う者はいないかに見えたが、ソーシャルディスタンシングは全くなってはいなかった。ディスペンサーを使う人はミュンヘンからの人のようにも思えた。しかし話し声からすると、ヴィーンは気が付いたが、普段は多数のミュンヘン勢は気が付かなかった。流石にあれだけ通っているとミュンヘンの顔見知りがいても良さそうだが、気が付かなかった。ザルツブルク周辺の人が多かったと思う。所謂彼ら彼女らは自らがインディゲーネと呼ぶアルプスの土着民が多かった。新聞にも言及があるということは初日にも今までは相対的に目立たなかった客層が主になっていたということになるかもしれない。

個人的に今回無理してでも出かけたいと思った理由の一つがザルツブルク音楽祭の客層への関心であった。邪な関心とはそれで、チャラチャラとした聴衆が減った中でどれほどの文化的地盤がザルツブルクに出来上っているかという状況だ。それも重要な創立の意志であって、同時に地域経済の活力化がはかられた。後者に関しては今回も支配人から語られていたが、前者の文化的な評価の方が重要である。なぜならば、モルティエ監督が目指して最終的に追放されてしまった経緯も地元における文化的な地盤が強ければヴィーンからのハイダーの意向への抵抗となった筈だと考えるからである。

結論からすると、やはりまだ歴史の四分の一ほどに浅いバーデンバーデンなどと比較しても地元の文化的意志は弱い。十五万人程と人口は多くは無いながらも、名門の音楽学校などがあるのだが、そうした学生なども恐らく特に夏休み中だからだろうそれほど目立たない。バーデンバーデンのカールツルー等の都市部とは比較にならないまでも、チューリッヒに近いルツェルンなどに比較してもそうした基盤は薄いと分かる。成程インディアンと新聞にも書かれる訳だ。

それは必ずしも高度な芸術における理解度から印象されるだけでは無くて、なによりもコロナ感染対策への意識から察せられる。どうもインディアンはなにも理解していないようだ。コロナ後にミュンヘンの街中を覘いたことはないが、ヴィースバーデンやドルトムントと経験を重ねてくるとその地域の意識がよく分かるようになってきた。

オーストリア政府がポピュリスト首相によって間違った方向へと進んでしまったことには言及しているが、とどのつまり市民の意識の高さが問われている。バルカン出身者がアルプスの小国にコロナウイルスを持ち込んで来ていることは事実かも知れないが、そうした報道で丁度日本人の様にコロナウイルスなどは下等な連中が感染するものとの意識が強いのではなかろうか。各々の市民が社会的にどのような行動をするべきかが、どうも分かっていない様である。

それは高度な芸術理解以前の問題で、まさしく「コジファンテュッテ」の啓蒙された人々であるかどうかであろう。ザルツブルク音楽祭は、どれほど素晴らしい公演を成功させても、その最も肝心な想いとは外れたところで営んでいる。モーツァルトのザルツブルクの大きな思い違いである。(続く



参照:
トウモロコシはまだか 2020-08-08 | 生活
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラのヴィーナー

2020-08-09 | 文化一般
久しぶりにヴィーナーフィルハーモニカ―のオペラを聴いた。以前は奈落のそればかり聴いていたが、最近は板付きの演奏ばかりだった。どちらが如何とは言えないが、やはり座付管弦楽団である。声に付けるのが巧い。ドレスデンのシュターツカペレも同様だ。最近はミュンヘンの楽団ばかり聴いていたので、それが基準になっている。

やはりそこはヴィーナーフィルハーモニカーで、ああいうたっぷりとした音響はベルリンでもドレスデンでも無理だろう。その点ではミュンヘンの座付楽団というのは元々大分毛色が違う。指揮者で元音楽監督のヴェルサーメストは座付管弦楽がそもそも好きではなかったようだが、今はとても評価している。そしてミュンヘンのオファーは受けずにまた楽員からもあまり好評ではなかったようだ。ドレスデンではとても成功していて、次期音楽監督と目されている。

今回の楽劇「エレクトラ」での指揮はそのヴィーナーの欠点を上手に補う以上に素晴らしい演奏をさせていた。なるほどルーティンで簡単に合わせてしまうところもあったのだが、主役のエレクトラを歌ったアウスリーネ・シュテュンディーテを引き立てるために最大の努力をしていた。初日には明らかに大舞台での生中継の緊張から最初のアガメノーンの一声からして上手くいかなかったのだが、流石に二日目となるとしっかりと抑えて来ていた。

初日における妹役のアスミク・グリゴーリアンの歌声も明らかにカヴァーに入っていて、公演を救う事に全力が尽くされていたと思ったが、案の定二日目は若干引っこませる形でこれまた主役を立てていた。相変わらず拍手喝采は最も集めていたのだが、主役の出来はメストが選んで一年間準備するだけの価値を示した。なるほどメストが指揮で抑えて主役の声を上手に盛り立てて、同時に管弦楽の抒情的なパッセージがこの歌手の最も得意とするその歌声に劣らなかった。同時に高音も強い音も過不足なく出していたので、なるほどこの人は当分エレクトラとして大きな舞台で活躍できるだろう。何よりも初日の印象とは裏腹に歌詞がとても良く聴きとれて、グリゴーリアンの何を歌っているのか分からないものとの差が大きかった ― グリゴーリアンは独語歌唱をもう少し熱心にやらないとバイロイトデビューで大成功しないだろう。

歌手の質としてはサロメでデビューしたグリゴーリアンとは比較のしようが無いが、リリックなエレクトラでの成功という事ではメストの腕は今回の方が評価される。そしてヴィーナ―フィルハーモニカーをしてその抒情的な音響効果はペトレンコ指揮の「サロメ」での成功と繋がるところがあり、どこまでも表現主義的な演奏でありながらも印象主義的な音響は存分に得られていた。なによりも楽想ごとの表情付けなど嘗ての指揮者陣とは異なり新世代に相当する。まさしくこれが出来るようになればこの座付楽団もとても気になる存在となるのは指揮者だけの成果ではない。

それにしてもヴィーナーフィルハーモニカーの密は激しかった。120人ほどの楽員が奈落に入るとすれば、どんな病気でも感染する。指揮者は「いつもの通り演奏しなければ、ヴィーナーではないと彼らがするのだから」と客観的な立場をとっているが、たとえPCR検査を頻繁にしていても駄目である。その証拠に公演後の木管陣などは戸外とは言い乍私の近くで、一般の客との背中合わせに、ベンチに十人以上が犇めき合って夜食としていた。感染はいつどこでも起こる。一度内部のIDカード赤組で陽性が見つかれば、秋のシーズンは吹っ飛ぶだろう。それを覚悟で音楽祭で小遣い稼ぎをして、次のノイヤースコンツェルトまでは公務員として最低の給料だけは確保しておこうという魂胆らしい。(続く



参照:
トウモロコシはまだか 2020-08-08 | 生活
壊滅に向かうか墺音楽界 2020-07-14 | 文化一般 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トウモロコシはまだか

2020-08-08 | 生活
ザルツブルクから帰宅した。充分にスポーティーに動けたと思う。空咳は出たが、まあ、調子が悪くなることはないと思う。この週末から危険地区帰りの旅行者にはPCR検査が義務化される。アウトバーンの国境でも場所によれば停止が命じられるだろう。

少なくともフライシングの小さな国境ではザルツブルク入りの時は無かったが、反対方向つまりドイツ側は警察が陣取っていた。帰宅はビールを引っ掛けての深夜のホテルへの帰還となったが、誰もいなかった。

ミュンヘンザルツブルク間のアウトバーンは通常に近いサマーヴァ―ケ―ションの渋滞があった。それでも往路は、9時半前に出て、宿に16時前の六時間程で到着した。一部山道で迂回などがあったがそれほど遅くはならなかった。

二十数年ぶりのザルツブルクで小ホールの周りは建て替えられていたが、その他は殆ど変わった感じはなかった。ミュンヘンからの距離感はやはりそれほどないのだがこの時期は渋滞することも忘れていた。だから帰りには新しく出来たキムゼーの北側を走るアウトバーンを使ってみた。金曜日の午後は反対方向はそれなりの交通量があったが逆方向は誰も走っていなかった。ザルツブルク周辺からのアウトバーンへのアクセスだけであるが、今回のようなホテルを使うならば距離的には殆ど差が無いので混雑が予想される場合は使えると思った。

しかし今回は将来のことも考えて最短距離の郊外の道を走った。湖もあったりしたが、基本はバイエルンの耕作地帯で、特にエンゲルスベルクというではトウモロコシ畑に向日葵がよく似合っていた。途中トイレ休憩など若干の寄り道を数回したのだが、走行距離は490㎞台でナヴィよりも10㎞も余分に走っていなかった。これでボヘミヤの森を除いてバイエルン州は一通り走ったことになる。

往路のキムゼーに下りて行く坂道も印象的で、その直前のアルプスの峰もどうしても写真を撮りたくなった。如何にも観光アウトバーンという感じだ。また通常はミュンヘンの北部環状を走るのだが、南部も完成に近づいていて、そちら側に導かれて市内の環状道路にまで入った。博覧会場方面から反対側の東側に出る最短距離だろう。復路は北から入ってくるので其の侭で渋滞も無くミュンヘンを通り過ぎた。

矢張り時間を争うならば嘗ての様に夜中に飛ばして戻るのが早いだろうが、少なくとも自動運転で無ければ当時とは断然厳しくなった違反を避け得れない。

よく考えてみると今の車でザルツブルクへ行くのは初めてだった。廃車にしようかという時に使ったことになる。また国境のこちら側から劇場へは通行税が必要ないことを確認したのでこれだけでも駐車場代の足しになった。旧市街駐車場のコンティBに停めて、雨に濡れずに各劇場に入れることも昔はなぜか考えなかったが、出るには使っていた。今回も表に出たので開演前に開けられたかどうかは知らないが、帰りも一杯引っ掛けたので、そちらには出なかった。特別料金の窓口が無かったので結局18ユーロも払った。ミュンヘンと変わらない。

プログラムもミュンヘンよりは高く10ユーロもした。官で無いから仕方が無いかもしれない。印刷は良くないが、写真も十枚ほど入っているので良しとしよう。同時にザルツブルク音楽祭の工房で作っているマスクも売っていた。現金も無く、再訪も無いので購入しなかったが、20ユーロ近く取ったと思われる。今年の百周年特製だけに希少価値はある。しかしこれから起きるザルツブルク音楽祭騒動を考えると負の遺産でしかない。

シュトュットガルトの劇場の支配人は初日にザルツブルクを訪問したらしく、そこから習う事としてドイツの劇場としては不可能な距離感を批判している。そして昨日からザルツブルク音楽祭は扇子の使用を禁じた。つまりアエロゾール感染を恐れた。音楽祭は二席に一人の詰込みの非合理性を自ら認めたことになる。収益率しか考えていないことも認めたことになる。シュトッツガルトの支配人ヘンドリクスは前記発言だけで充分に解任に値するだろうか。



参照:
アルコール無しの特効薬 2020-08-06 | 雑感
百周年ザルツブルク祭計画 2020-07-09 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダポンテの最後の啓蒙作品

2020-08-07 | 文化一般
新聞にザルツブルク音楽祭新制作「コジファンテュッテ」の評が載っている。なによりもロイの演出の中での舞台に光が当たっている。ドンアルフォンソを歌ったヨハン・マルティンクレンツェレは、バイロイトではバリコスキーのベックメッサーを歌っていたという事だった。その演技に大きく紙面が割かれている。余程舞台に近い所に居たのだろう。中継のカメラではその映画的な演技や表情はよく分かったが、逆に会場ではどのように感じられたかはよく分からなかった。

しかし、その演技を評価するのがその要旨ではない。クリストフ・ロイの演出を体現したそのインティームで、精密に抑制された演技を指す。その演技によって示されたのはシニックなアルフォンソでは無くて、若い恋人たちを親か教師のように見つめて、深い悲しみに心に喪失感を湛えるメランコリー家あった。つまり人は、智によってではなく痛みを以ってのみ賢くなるという。

アルフォンソが、女は皆こうしたものとモットーを歌い上げるときの痛切な顔つき、必ずや歌声にコメントを放ち、モーツァルトの思索が音楽となる。
Così fan tutte 2020 Trailer


マルヴィッツが音楽監督のニュルンベルクの新聞にはその舞台が付け焼刃のなにも無いものとするのに対してフランクフルターアルゲマイネはその扱い方にも注目する。そのロココには、その庭園の音楽に、室内・室外、精神・肉体、理性・自然が、その音楽の中で啓蒙主思想のダポンテのリブレットの理念から導かれているそのものであると評価している。

そしてプログラムに載っている演出家の一節を引用する。この作品は、基本において啓蒙の目的に従っている。それはただ理性的であるという事ではないのである、それはアルフォンソが歌う「心の必然」としての自然に一致するという事である。そこで望まれるのは、人間的な有りの儘の姿に対する強い寛容であり、軽妙な人生観よりもそれ自体べラカルマな心穏やかな平穏という事である。そのように書き纏める。

如何にこの公演がザルツブルク百年祭という場において改めてモーツァルトの本質に触れたかという事がこうして詳細されて最後にセンシブルに息を合わせた指揮のマルヴィッツをして、何もそこに特別な効果をつける必要が無いという事を知っているからだと、言外にここ暫くダポンテ程度の悪い音楽をしている連中のことを示唆している。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルコール無しの特効薬

2020-08-06 | 雑感
お出かけの準備を着々進めている。エンジンオイルと足しておいた。ドルトムント行以来だ。200㏄以上入れた。出かける前に問題なくエンジンが動くかどうかだけだ。

やはり早めに出かけれるようにしておかないと安心ならない。宿にも15時までには入りたい。18時過ぎに車庫入れするとして、二時間ほどゆっくりできると良いだろうか。493㎞ほどで、ミュンヘンからは先日水に浸かったキムゼー沿いのアウトバーンでなくても北側から入れることも分かった。その時の交通状況に拠って判断したい。宿からガレージまで40分である。つまり9時には出発しなければいけない。

ピクニックの準備は朝には間に合わない。朝食の時間まではないがゆったりと出て行きたいからだ。飲み物は2リットル。ハーブティー1リットルは就寝前に作って冷蔵庫に入れておく。食事も不味くなるかもしれないが、幸い夜中は摂氏20度以下になるので、準備しておいても良い。朝食は肉屋で何かを買って車中で食する。

衣裳もお泊りセットも準備出来た。必要な宿の予約書も入場券もお出かけ用のマスクも鞄に入れた。イヤフォーンは充電済みだ。タブレットのナヴィもアップデートした。

年頭から歯の治療を始めたので初めて嗽液を購入させられた。最初はジョンソンのリステリンでアルコール濃度が高かったが、コロナ感染した。その後大分安い商品テスト評価の高いものをアルコール抜きを購入した。とても辛いがアルコールの方が後味は良い。効果が同じなら安い方でいい。私の特効薬である。

手元にあったバレンボイム指揮の「エレクトラ」を一通り確認して、エクサンプロヴァンスでのシェローの演出を少し観た。後者はサロネン指揮で最初を聴いてその音楽は確認できていた。最後の場面だけを確認する。流石にヒリツウルスの歌はそこまでやるかと声を絞り上げているが、一番感心したのはピエチョンカの歌で、やはりこの人は安定していると思った。

さて、CDの方は主役をポラスキーが歌っているのだが、何時もの通り声を張り上げて何を歌っているか分からない。生はミュンヘンで「影の無い女」の乳母役だったがそれは変わらない。妹役は明らかに弱く、ベルリンのアンサムブルの人なのだろう。母親のマイヤーはまるで朗読の時間の様に歌っていて音楽的には指揮者の責任もあるが、通常はその程度の歌しか歌っていなかったことが窺われる。一番の問題は指揮者の腕で、やはりベルリンでは成功していないと思ったが、改めて詳しく聴くと、ベルリンでは無理してアウフタクトに入る指揮をしていて、やはりドイツ音楽は難しいと思わせる。そう言えばコロナ休業期間中の放送でアイネクライネナハトムジークを振った時も同じような塩梅だった。嘗てシカゴなどでは耳に付かなかった如何にもドイツ風と言う感じが、そのポストに居直る姿勢と相似形をなしている。なるほど造反者が出るのも肯けるバレンボイムレジームだ。

結論、このCDは殆ど資料としても役に立たない。そもそも安売りで購入しているからそんなものかもしれないが、必要ないとなると邪魔になる。バレンボイム指揮のベルリンでの録音は粗製乱造が多くて多くが将来塵になるものばかりだろう。一刻も早く詰まらないポストから退いて嘗てのように自由に客演をしていい演奏をして貰いたいものである。

という事で、これと言ったものは浮かばないので、先日聴いたドレスデンでベームが振ったものを確認用に持って行こう。帰路はマルヴィッツの「コジファンテュッテ」でも聴こうかと思う。それにしてもヴェルサーメスト指揮「エレクトラ」は良かった。ヴィーナーフィルハーモニカーが二日目以降も真面目に演奏するかどうかは分からないが、一皮剥けたともされる指揮が良かった。主役がやや背後におかれる分グリゴーリアン前に出て来ていいとこ取りできるのが愉しみである。

会場では開演前に演奏が始まったらマスクをとっても構いませんが、しかしそれ以外は常時されることも願いたいとアナウンスが流れるようだ。それが拍手の時はするという事になっている。要するに客席を埋めるために協力しろという事らしい。



参照:
回復力吃驚とはならず 2020-01-16 | 雑感
二泊三日は必要ないか 2020-07-12 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野蛮の自己飼育具合

2020-08-05 | 文化一般
参考音資料を探している。楽劇「エレクトラ」の録音を道中二回ほど聴き通せるので、先日のザルツブルク初日の映像以外にもう一つ資料が欲しい。何をと考えている。既に通して聴いたのはベーム博士指揮の録音で、一番初演時代の演奏に近いと思っている。実際にとてもいい出来で、不協和な音などがシャープに出て来て痛快なのだが、先日の初日の演奏を聴くと矢張り音化として足りないことが分かった。

そこで、初日のFAZ紙の評の中にバレンボイム指揮ベルリンの座付管弦楽団の演奏に言及があった。そのCDを所持していることを思い出した。そこでは、シェロー演出の再上演がなされてその心理劇が、喜びと恐れの間での暴力と幻想への衝動の抑圧としてあるとされる。そこが、ヴェルサーメスト指揮ではその心理とは血の気に応じる野蛮であるかのように思われる。

感覚的には、ヴィーナーフィルハーモニカーの華やかな演奏とドレスデンでの録音やベルリンでのそれを思えば直感的にはとても分かり易い。それは実際に音楽的などのような特徴がどのように演奏されるることで差異が生じているのか、つまり創作のどのような固有の特徴が演奏実践として顕著になっているかという事にこちらのお勉強の興味は向かう。

批評に戻ると、それだからと言って大まかでは無くて、ヴィーナーフィルハーモニカーが声に被さってしまうというのはないと、またヴェルサーメストの場合指揮の正確さが疑問となることも無いとしている。つまりエレクトラが母親のクレムネストラを「女神」と呼ぶとき、エレクトラの夏の風に靡く髪が、男たちが震えると歌う時に弦楽に妖精の踊りがと書かれる。

「ばらの騎士」の音楽がすでにそこに、二分の三、四分の六、四分の九とエレクトラが亡き父の慕で踊るときに刻まれる。柔軟性と彫塑性を以ってヴェルサーメストが振ると「ツァラストラかく語りき」からの踊りへ戻り、楽劇「ばらの騎士」へと論理的な帰着となるとしている。

燃料を満タンにした。残りもあったのだが79ユーロとまあまあの価格で入れれた。今回は行先でもう一度満タンにしないといけないので、往復で千キロを超えるので100ユーロは超えるだろうが、120セント以下の入れれたので大分助かる。

衣裳も準備した。シャツや上着は選択の余地はあまりないが、タイをどうするか考えている。色合いが「エレクトラ」の方はもう一つ分からなかった。再度映像で確認しておかなければいけない。新聞は書いている。上等な衣装を身に纏っている者に限って、そのマスクの準備はみすぼらしく、同じような状況はベルリンでも同じで、教育を受けている者があまり留意していないとなる。まさしくその社会性が問われて、その密な祝祭劇場前やフェルゼンライトシューレではそれが配慮や自己飼育への試金石となっていると書いている。



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
フラマン人の誇り 2020-08-01 | 文化一般



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ無常の心の距離感

2020-08-04 | 
日曜日のザルツブルクからの中継はセンセーショナルだった。まだ批評は出揃ってはいないが、コロナによって急遽企画されて情景に適うように企画された新制作「コジファンテュッテ」のネットのみでの生中継だった。最初から独仏共同局arteが生中継を行いそのテロップがバイヤー監督制作映像となれば期待が膨らんだ。

先ずは公演前録画の指揮者ヨアンナ・マルヴィッツと演出クリストフ・ロイ揃ってのインタヴューがあって、休憩無しに終えるための削除などの作業についての話しがあり、マルヴィッツがザルツブルク史上女性初のオペラ指揮者であることの意味への質問に「初めてというのが驚くぐらいで、男でも女でも全く関係無い」と言い放ったのはとても歯切れが良かった。まだ発表されていないが、マルヴィッツ以外にはバイロイト初の女性指揮者はいないと信じる者にとっては当然の反応だった。

いづれにしても二回ほどのフランクフルトでの指揮を観聴きして少なくとも劇場指揮者としてはマルヴィッツ以前にはこの程度の女流指揮者はいなかったと感じた。だからある程度事情通としては、コロナ以前の元々の「魔笛」でのデビューも決してしくじることはなく、縮小されたプログラムでも出てくるとは思っていた。しかし思いがけずにオペラブッファとなってどのような指揮をするのかあまり想像がつかなかった。

そして、登場して態々エルボーバムプをしているのを見て、中々の余裕の表情を見せていたので驚いていたが、想定以上に序曲から明確なアクセントをつけて来て、更に企画からかピアノをレチタティ―ヴォ伴奏に入れるように編成も大劇場に合わせて比較的大きいのに拘わらずの軽妙さと新鮮さは久しく聴くことが無かったものだ。多くの人が1970年のカール・ベーム博士の歴史的な演奏を思い浮かべたようでその演奏時間差が語られている。今回の短縮で六曲が削減されたのにも拘らず2時間17分、ベーム指揮28分より少し短いだけだった。

小劇場の方ではツァグロセク指揮でも同曲を体験したが、到底今回の演奏に比較出来るものでもなかった。今回のその音楽的な成果はヴィーナーフィルハーモニカーにここまで立派なモーツァルトを奏させた事にもあるが、そもそもマルヴィッツも今までの経歴からしてもこんなに上等の管弦楽団を振ったのは初めてだと思う。アーティキュレションも明晰にこんなに精緻な音楽を殆どウェットを交えながらの=表情豊かに振れたのだと思った。そしてアーノンクール時代を通じてこの座付管弦楽団はこのような演奏は出来ていなかった。

総じて今回の企画の「若い風を吹かせる」コンセプトは大成功したと思う。歌手陣も素晴らしく、特にベルリンで人気のフランコデンマーク人の二十代のエルサ・ドライシークは理想のフィデオリージとされて最大の発見とされている。そしてロイの演出もとても良かった。ドンアルフォンソを歌ったフランクフルトのクレンツレはよく分かっていると語っていたが、なるほどフランクフルトの市立劇場に似合いそうなミニマリストの演出だ。しかし何といってもマルヴィッツの指揮は、素肌感覚のセンシティーヴなモーツァルトの音楽を引き出していて、内田光子のそれに通じるようなとても細やかな心の綾を描いていた。まさしくこれがベーム博士のそれを乗り越えているモーツァルトの演奏実践で天晴れというしかない。まさか生放送でこのような稀有なモーツァルト体験が叶うとは思ってもいなかった。

舞台上で繰り広げられる劇が馬鹿しい人形劇のような登場人物のロールプレーに終わらず、そのソーシャルディスタンシングな関係性を普遍的で且つとてもセンシティーヴな心の綾を伝える舞台としたとても稀な例だったと思う。ザルツブルク音楽祭百周年にしてエポックメーキングな公演だった。

期待した通りその映像のカメラワークと半数の空席のある大劇場の残響感が飛翔の空間を再生していて、これまた見事だった。公演後の舞台の表裏では成功の歓喜に沸き返っていたというが、ライヴでも同じように響いたものと想像する。放送の方では早めに切って、9歳から指揮者と幼馴染のピアニストのレヴィットが出て来て祝福と同時に自身のリサイタルとその放送の前宣をしていた。



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
二本立ての一本目 2019-12-17 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

へそ出しもビキニも

2020-08-03 | 
楽劇「エレクトラ」を観た。最初は放送を聴いていたが映像が始まったのでそちらに写った。カメラアングルが生放送であり浴槽やシャワーから離れて歌手をアップしたりするので全体像は浮かばなかった。バイエルンの放送局のノイホッフ氏などの感想でも全体像は分からなかった。演出に関しては、更に横に広い舞台でどのような解決法をしているかも分からなかった。先に出ていた写真とは異なって、上手でのソロが多く、中心線も上手寄りになっていた。それどころか合唱も右の壁のくぼみに配置されていた。
Elektra 2020 · Trailer


管弦楽団は120人超えでギッシリと入っていた。よかったのはヴェルサーメストの指揮で、これは中々の聴きものになった。ヴィーナーフィルハーモニカーを上手く振っていて、嘗てのベーム指揮の録音などよりもよい。但し、劇が佳境となってくるとやはり平素の慣れが出て来ていたのだが、放送が無くともウニテルの映像化もあるので、もう少し細かなところも直して行って欲しい。放送局では「サロメ」よりも良くなっていると評する

まあ、しかし何といってもお待ちかねのアスミク・グリゴーリアンの歌が良かった。三人で主役一人とあるが、演出上も前宣ではあまりにも主役を売り込む動きだけがあったが、三年前の泥鰌は到底無理でもせめてと思ったのだろう。

なるほど今までのエレクトラからすればアウスリーネ・シュテュンディーテの歌は抒情的でもあり、小柄故に舞台ではサロメ風の娘風に演じているのだろう。流石に最初は頑なっていて音がもう一つ決まらなかったが、総体的には目されたとおりの仕事をしたのかもしれない。しかし、やはりシュトラウスのドイツ語の歌が全く歌えていないので、準備を一年かけても難しいのだろう。

母親役のバウムガルトナーはフランクフルトで歌っているだけにその点はドイツ語歌唱は立派でよく聴き取れた。反対に声は仕方がないとして音楽表現としてはこうした大舞台では物足りない。フランクフルトぐらいの入れ物なら全く問題ないと思われる。

そして肝心のグリゴーリアンの歌であるが、バイロイトでのデビューを控えているだけに集中的に学んでいることが窺われた。インタヴューぐらいはドイツ語で通せるようになるのではなかろうか。よってサロメの時よりも音楽的にも自然であり、昨年のミラノでのマリエッタとは大分異なる。指揮者がいいからには違いないが、それだけでは解決しないようだ。

またしてもへそ出しからビキニにまで想定通り脱いでいたが、へそ出しもビキニも本人の希望であるとしか思えない。歌う時に横隔膜の動きが最早見世物になっているのだが、やはり自由になって歌いやすいに違いない。しかしこうした頂点の人がそこまでするとなると舞台衣装など要らなくなる。なるほどグリゴーリアンはサロメの時は裸であったし、フランクフルトのマノンレスコーもビキニとへそ出しだった。その他にもYouTubeを見れば幾らでも臍だしが出てくる。私などは父親の遺伝で腹を出したり冷たいもので直ぐに腹具合が悪くなる。

そして演出が上の三人の配役を上手に活かしているもので、これが何よりもよかった。矢張り生で舞台の全体像も把握しないと評価できないと思う。その点では商品化される映像は兎も角、演出自体もライヴで吟味したいと思う。



参照:
四苦八苦している内実 2020-07-17 | 雑感
初アスミク・グリゴーリアン 2019-10-11 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする