Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

その口で語るな、芸術文化を

2020-11-16 | マスメディア批評
何処からか回って来たSNSに驚いた。音楽雑誌「音楽の友」編集者のようだが、あまりにもその呟きが酷い。当該「ヴィーナフィルハーモニカー記者会見記事」自体は既に紹介されていて眼にしていたが、見出しの「ノイヤースコンツェルトに言及」は目を引いた。

内容の「元日恒例のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、1700名の観客全員に検査をおこなってでも(関係当局の指示や法律的な問題はあるかもしれないが)、楽団としては100%やるつもりでいる。」という部分が注目される。

楽団がフォロシャウワー団長の発言としてそれを語るのは今迄のその団体の行動からしても想定内であるが、それの伝え方に大きな問題がある。少なくとも玄人筋がその経過や状況を伝えるとした場合、この内容は看過できないと思った。

音楽の友社の「レコード芸術」には、指揮者キリル・ペトレンコを「ポジティヴ移民」とした編集長がいて、未だにそのことに関しての謝罪も訂正記事も出ていない。流石にこの秋に発売されたCDボックスの引用記事にはその部分が削除されて誤魔化されて流用された。どのような無知な者が鼎談に参加していようがいまいが全ては編集者の文責である。

今回の件もとても悪質で、少なくとも音楽芸術を論ずるジャーナリズムにはあってはならない姿勢である。要するに、コロナ感染防止よりも業界の営業を優先するという主義主張を、改めてSNSで強調して、「今回のウィーン・フィルを特例中の特例で終わらせてはならない。この光明を、どうやって次につなげ、広げていくかは、音楽界のみならず社会全体にとっての大きな課題でもある」 としている。この業界の人達は、骸を積み上げるのを良しとしているとしか思われない。なんていう人たちだ、ショービズの銭の亡者。

まさか音楽ジャーナリストが、この春からの一連のヴィーナーフィルハーモニカーとクルツ首相の間で行われたディールを知らない訳が無い。両者は直接電話で話して、フィルハーモニカーのやり方を餅は餅屋式に一任することになって、ザルツブルクの音楽祭もそれに続いた。それどころかスイスも業界に首を突っ込むことは止めた。この二つのアルプスの共和国が現在欧州で最悪の感染状況にある事と政府のこうした放任政策とは全く無関係とはならないことは当時既に予測されていた。

そして今回日本ツアーに際してクルツ首相が一役を担い、当然のことながらノイヤースコンツェルトは最大級の配慮がなされる。その一方更に経済的な影響の多いスキーや冬の旅行などは夏の強い日差しの影に沈む。政治的責任が問われる。

世界中で注目されて、世界的な催し物の一つとしてメディア業界瞠目のイヴェントである。オーストリアが世界で注目される一年に一回の国家的な行事ですらある。NHKもその予算の一部を聴視料から支払っている。業界紙ならばその経済的な持続的な成果を最大限に求めて記事を綴ればよいだろう。しかし、その口で文化芸術とか音楽芸術とか語るなと言いたい。

それどころか、そのような状況を客観的に紹介できないところにジャーナリズムなどは存在しない。そんなに難しいことは言わない。オーストリア政府の対応とその挙句の果てに毎日多くの死者を出して、二か月前までは十万人中7人しかいなかった死者が今は21人になっていて、自慢していた医療システムが崩壊しようとしている。どんなに催し物を禁止とした完全ロックアウトが火曜日零時から始まっても死亡者数はしばらくは増え続ける。指数は簡単に倍増するだろう。欧州で上位となる。せめてそのような状況を念頭に口を開け。そうしたセンシティヴィティさえも無い者は去れ!

大阪府と同規模の人口のオーストリアは、先週ICU患者が138人増えて、死者は先々週295人だったのが先週だけで443人となっている。そのような状況下でラデツキー行進曲で拍手など出来るだろうか。ドイツでは、来月も平常化などは考えられない、例年のようなクリスマスなどは有り得ないと語られるようになった。



参照:
新年から必要な厚着 2020-11-06 | 暦
第三波までの再計画 2020-10-30 | 文化一般
武漢で病人が出た遠征 2020-07-06 | 文化一般
不適切な「ポジティヴな移民」 2019-10-27 | マスメディア批評
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スターリングラード交響曲

2020-11-15 | 
懸案のムラヴィンスキー指揮ショスタコーヴィッチ交響曲八番を流した。最も難解な曲だと思うが、LPを購入した時からその演奏の説得力に打たれていた。一体それのどこがという事で今回楽譜も手元にあるので流してみる価値があった。
Шостакович, Симфония № 8 - Мравински


半分ほどの演奏時間の続く第一楽章では、五番交響曲風の主題も更に彫塑されていて、そこからして意味合いが異なっている。続く主題も広がりがあるのは、細やかに演奏されているからで、ヤンソンス指揮の大雑把に流すようなものとの正反対にある。しかしそこで何か具体的なイメージを固定するようなこともないのがこの指揮者の芸術で飽く迄も音楽的に運ぶのだが、ピッコロなどが強奏されていて、ネオエクスプレッショニズムというか殆どポストモダーンな鳴り方である。

ムラヴィンスキー指揮の端正なその音楽性を知っている者ならば、嘲笑的な楽想もとても真剣に響き渡る。それはチャイコフスキーの「悲愴」などにおいてもそうであって、二楽章のサロンの笑い声もそのようには響かない。ペトレンコ指揮の瀟洒さはそこにはない。

第四楽章のトラムペットもサーカスというよりも明らかにミリタリーで、レニングラード交響曲の延長というのがよく分かる。

しかし注目すべきは矢張り四楽章のパッサカリアではないかと思う。丁寧に音楽的に演奏されていて、勿論スターリン時代に求められたプログラム音楽的なものとはかなり遠い。ここは今回のペトレンコ指揮と比較してみる価値はあると思う。

当然のことながら中間楽章での表現の精査がペトレンコ指揮では終楽章のフィナーレで活きることになるのだが、ムラヴィンスキー指揮ではそこが大分異なる。キリル・ペトレンコも言及したショスタコーヴィッチの八番の終楽章の難しさというのはまさにそこにあるだろう。

手元に同様に作曲家と後年協調作業のあった指揮者コンドラシンのLPがあることを思い出した。これも是非もう一度聴いてみないといけないと思っている。

天気が良くなって、気温が16度まで上がるとワイン街道も急に賑やかになる。火曜日からのオーストリアの様に外出禁止にはなっていないので、行楽は許されるのだが、多くの人が接触していると思う。来週の中間集計には数字としては表れないかもしれないが、ドイツの感染は上昇が鈍化しているだけで、反転はしていない。オーストリアのような酷い状況が避けられているだけである。ここ暫くの対応がとても重要なことはどれほどの人が理解しているか甚だ怪しい。昨日職人の親仁などの話しを聞いていて、其処を別けているものが何か良く分かった気がする。



参照:
隔離と田園性の叙述法 2020-11-14 | 文化一般
記憶の底から呼び起こす 2019-10-30 | 雑感
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隔離と田園性の叙述法

2020-11-14 | 文化一般
ショスタコーヴィッチの交響曲八番を流した。再放送も流した。キリル・ペトレンコがインタヴューでアウトラインについて語っていた。九番があまりに上手く行ったので八番を取り上げたというのは我々皆同じ気持ちだと思う。但し、少し想定と異なっていたのは、ソヴィエト時代には殆ど演奏されることが無く、馴染んでいた曲では無かったいう事で、先頃ヤンソンス指揮の全集について言及したことと全く一致している。要するにソヴィエトでは表面的にしかショスタコーヴィッチは扱われなくて、そうあるべきだったという仮定を支持する。

この曲が、七番のレニングラードとは異なりとてもインティームなものを扱っているというのも、大きな鍵である。それゆえにか、マーラーよりもブルックナーとの親近性について語っていて、まさしく動機の扱いなどはその通りであり、終曲の「隔離と田園性」としても、そしてコロナのロックアウトについての示唆としていた。

ここまで語れば、それ以前から準備していたように若しくは楽譜の冒頭に大書きされているように、献呈された指揮者ムラヴィンスキーの演奏を先に語らなければいけない。要するにその初演者の録音はやはり基準になるという事も間違いない。

再放送前にムラヴィンスキー指揮の演奏を確認しようと思っていたが、時間が無くてならなかった。LPも所持していて、又ネットには練習情景がある。それを確認したいのだ。時間が無くなったのは、朝一っ走りして下りて来て、肉屋に寄って戻ってくると、車に邪魔されて車庫入れが出来なかった。職人が先日亡くなった爺さんのアパートを直しているようで、ロシア語訛りの親方が寄って来て、暫く待ってくれという。

その車の前に付けてしばらく置いておいた。呼び鈴を鳴らしたりしたようだが、放っておいて、朝食終えてから声を掛けた。マスクもせずに近づいてくるので出来るだけ避けようとどこかに行くのを待っていたら、近寄って来る。そこから30分ほど、こちらガレージの中に逃げ、入り口で咳をしながら、こちらに向かって語り続けていた。全くコロナなどは頭にないようで、車庫中がコロナのウイルスだらけになって、シャワーを浴びたこちらの身体にどっぷりと浴びせかけたと思う。とんでもない親仁だ。

30年以上ドイツにいて、言葉を勉強する方法を編み出したと自慢気に語っていた。ネットで調べた数字を出してのセールスである。結局何が言いたかったかというと、世界で訳されている様々な聖書を読むことだというのである。そこには真実があると語っていた。

そもそもカザフタン出身で、反プーティンで、東方教会とも関係が無いところで国教会の聖書から初めて色々と行きついた様だ。少し間違えばアメリカの移民の右翼のようにもなる。実際に英語もそこに委譲した親戚との繋がりもあってという事らしい。更にそもそもの生まれからトルコ語も勉強しているようだ。確かにあの地域で強い言葉だろう。

しかし地元は、ヴォルガドイツに繋がっていて独語を習うという。確かに多言語的だが、少なくとも彼のドイツ語を聞いていると少し違うなと思った。語学が好きだというのだが、何か違うなと感じたのはやはり語学教育の質なのだろう。恐らく独学で学んだようだが、可成り語彙に偏重しているようで、構文とか文法とかいうよりも、叙述法まで至っていないので、とても沢山出てくる数字ほどには説得力が無い。文法的な用語も認識していない様で、抽象的な把握へとは至らないのだろう。

キリル・ペトレンコも言及したショスタコーヴィッチの八番の終楽章の難しさというのはまさにそこにあるだろう。



参照:
言い得て妙な表現方法 2020-11-13 | 雑感
聖像破壊者と伝統回帰者 2020-11-02 | 文化一般

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言い得て妙な表現方法

2020-11-13 | 雑感
森の中でエンジンが掛かるかビビることは無くなった。だから自分の都合のよい晴れ間を狙って行けた。しかし雨雲レーダーほどには陽射しは無かった。走り乍でも車で帰宅できるのかどうか分からないのとは大分違う。ガレ―ジで掛けるとブレーキの踏み方の為にABS不良などの警告が光った。これも全てブレーキについているマイクロスイッチが影響している。だからギアーも入らなかった。その代りブレーキを踏み込まないでもエンジンが掛かることが分かった。

長い間の不調は電源劣化による電磁石由来であり、ギアーが入るも入らないもマイクロスイッチによる。今後はエンジンを掛けてからブレーキを踏み込んでギアーを入れることにする。エンジンを動かすと正常な位置に戻ることがあるようだ。インディケーターのターミナル電圧は今朝は67%程に落ちていた。警報と係っていると思われる。漸く自由な機動性を取り戻した。冬タイヤが路面に吸い着いて気持ちがいい。

今夜は再び無観客演奏会中継がベルリンからある。再び只券を使う時だ。ショスタコーヴィッチの交響曲八番が演奏DCH生中継される。先日の九番があまりに素晴らしかったので今回も生を観ようと思う。年内の予定では、年末は無料中継もあるので、ペトレンコ指揮はロックダウンが続く場合12月初めにフォアアールベルクの代わりに指揮、中継される可能性がある。その時は新たに購入しなければいけない。

九番と八番の楽譜も落としてあるので、先ずはヤンソンス指揮の全集から当該の二曲を聴いた。九番はオスロフィルの演奏で、悉く主題を浮き立たせないような、同時に裏を聴かせるわけでもなく楽譜の冒頭から後ろまでを、極端に言えばMIDIの様に流していく。本全集が評価を受けたのも故人のショスタコーヴィッチへの見識とか見解が注目されて時間を掛けて制作されたからだった。

実際にその言い分はここにも反映されていて、内容の多面性という事では一つの表現方法だと思う。しかし先日のペトレンコの各々の主題が語りだすその音楽を聴いてしまうと、これほどまでに何も語らないのは、故人が最後まで尊重していた、ソヴィエトのプロレタリアートの音楽としか理解できない。つまり表面上は誤魔化して音楽を最後まで流してしまうという流派である。同じ流派にいる演奏家は知らないが、同様の教育がなされていたものと思う。そういう指揮者がカラヤンコンクールで認められてと、とても良く分かる時代構造背景だ。そしてザルツブルクでのオスロフィルへの喝采もそうした土壌の上に成り立っていた。

八番は、管弦楽団がどこだか分からずにブラインドで聴いていたが、音楽的に表現できることを悉くすり抜けてどんどんと先に進む。BR交響楽団中心の全集だったから、ミュンヘンのそれに比較すれば技術的にも洗練されていて同時にあまりにも非音楽的なので訝っていた。ところどころの鳴り方がハリウッドのそれで、その通りピッツバークの交響楽団演奏だった。初めて聴く楽団だが、やはりビッグファイヴでは絶対有り得ないほどの能天気さである。なるほど日本などでは評価が高い筈の非音楽性だ。

どなかたかの表現を借りれば「太筆書きの指揮」で、言えて妙である。リズムの処理も大まかで、アゴーギクも寧ろ大きな枠組みで計算されているような指揮である。音程などへの配慮も全く同様で、どうして此の侭演奏させているのだろうと思うところがありとても平均律的だ。ソヴィエトの音楽教育はそうだったのだろう。要するにレニングラードの聴衆から辺境の少数民族まで万人が同じように聴こえる明快な音響が目されている。故人が得意にしていたような、まさしく作曲家の思いが秘められていたジャズ組曲とかそのものである。

それでも、それ故にこの全集はとても価値があると思うのは、正真正銘のソヴィエトのショスタコーヴィッチの記録だと思うからだ。マリス・ヤンソンスの才能やその実力以上にこの指揮者の存在価値はそこにあったと思う。少なくともオスロで活動の同時代ではそこまでは把握できなかった。まだソヴィエトも存在していた。



参照:
聖像破壊者と伝統回帰者 2020-11-02 | 文化一般
新年遅くまで次々と 2020-11-08 | 暦


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来夏には全て正常化予定

2020-11-12 | 雑感
これで車で何処にでも行けるようになった。バッテリーを交換した。一時間待ちの心算だったが、マイスターが準備を整えて呉れていて30分ほどで済んだ。これだけでも金を払う甲斐がある。路上でストップして二時間待つことを考えれば、少々の金を払うのは仕方がない。既に九月のフランクフルトではエンジンの掛かり難さがあった。それどころか、不都合が出て来たのは、記憶を辿れば遡るかもしれない。ザルツブルクでも駐車の位置などを考えていたかもしれない。途中でトイレなどにも行ったが掛かり難いを事を考えていた感じがする。しかし、ギヤ―の入り方がおかしくなったのも実は電磁石が上手く働いていなかった可能性もあるので、そうなると一月から問題があった。もし今後同じ事象が起こらないとすればバッテリーバテの影響は一月からになる。なんとなくそうした印象もある。

先ずは二三度エンジンを掛け直したが調子はいい。電圧は13.5Vで変わらずだが、変動が少なくなった感じはする。全く変わったのはターミナルの電圧比で、74%が44%に落ちていたのがヘッドラムプを点けた状態で85%になっている。これだけ電圧が落ちていたら正しく制動していなかった可能性も強い。なんとなく走りが安定している。ギアは若干ぎこちなさがあるが、早めに変わっているような感じがする。もしそうならば街乗りの燃費に影響していたかもしれない。

これで森の中に行って車を停めるにも大きな覚悟も要らない。その前に余分に走ってバッテリーに蓄電する必要もない。少なくともエンジンの掛かりがおかしくならない限り、以前通りどこにでも停めれる。短い距離ばかりでは少し気を使う必要もあるが今まで問題が無かったことであり、コロナでそれほど行動範囲が狭まった感じも無いので大丈夫だろう。廃車までの間に散々使いたい。

往路の車中ではラディオも点けた。ここ暫くは電力節約走法をしていたので久しぶりだ。そこで重要なニュースをやっていた。ベルリンの政府は、巷で言われているワクチンの波及状況を更に後押しした。つまり来年の夏までに七割の国民に接種が可能とした。恐らく接種を必要とするのは国民の最大2%ぐらいなので、百八十万人ぐらいだと出来る。復活祭までに接種が終ってしまう可能性はあると思う。

これではっきりした。来年の夏の音楽祭は平常通りの計画で、復活祭を入場人数制限するだけで、上演は通常通りになるだろうという事だ。既に書いたように病床の数との指数が必要になるが、ここは思い切って完全ロックアウトを年内してしまう事も真剣に考えるべきだと思う。要するに新年は正常化しても新たな指数基準を超えないように社会活動と接種を並立していけるような気がする。もう一息。



参照:
バッテリーチェック 2020-11-11 | 暦
あとは辛抱だけでは 2020-11-10 | 歴史・時事
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バッテリーチェック

2020-11-11 | 
冬タイヤに履き替えた。今度こそ最後になるだろう。30分ほど曇天の湿っぽい戸外で待っていた。仮待合室が整備工場の一部とは言ってもマスクまでしてとは思わない。さて肝心のバッテリーチェックは、顔見知りのマイスターが出て来て、「替えなきゃ駄目だ」となった。自分でも替えれるけど、「休み時でなければ直ぐにでも替えれる」と言われたので、待つのは御免なので翌日に準備して貰う事にした。一時間ほど待たなければいけないので、散歩でもしよう。

ここ二カ月ほどの問題が全て解消するとは思わないが、少なくともエンジンを続けて掛けてバッテリーが上がって動かなくなることはこれでなくなる。全て込みで300ユーロならば、自分でやる倍は掛かるかもしれないが、少なくとも時間が節約できるのと、エンジンの掛かりの問題も確認される。修理へと進まなければそれはそれで一安心である。修理が必要になっても今後の誤魔化し方がハッキリするだろう。

買い物にも心配せずに出かけられるようになり、なによりも森の中で往生することも無くなれば嬉しい。先ずは翌日に掛かるかどうかである。今回は週末から余分に充電しておいた感じなので問題なく掛かった。電圧も13.5Vで安定しているが、やはり若干低過ぎるのではないかと思う。

電気自動車もよさそうだが、まだ充電に時間が掛かることなどもう少し機能が向上して欲しい。理想的には走り乍太陽エネルギーや摩擦熱変換などでそれなりの充電が出来るようになって欲しい。兎に角、先ずはハイブリッドとなる。

先日から幾つか放送中継録音を聴いた。興味深かったのはサヴァリッシュ指揮のブルックナー作曲テデウムの教会演奏会だった。歌手はパーペ以外は知らない人だったが、合唱の扱いや管弦楽が明快になっていたので驚いた。BR交響楽団は、コリン・デーヴィス指揮の時代ではないかと思うが、もしかすると一番良かったころなのかもしれない。当時一度どこかで生演奏を聴いた筈なのだがプログラムを探してみないと内容を思い出せない。

ケザ・アンダが二三度フランクフルトに客演したその一つのブラームスの協奏曲も、HR放送管弦楽団が情けないと思ったが、良く聴くとやはり面白かったので消去できなかった。またNHKホールからのN響の定期を同じHRが流した。指揮は日本では取り分け評判の良いスキホフだったが、何回も客演している割にアンサムブルを整えられていない。あまり首を突っ込まないようにしているのだろうが、やはり演奏の質はとても低かった。



参照:
新年遅くまで次々と 2020-11-08 | 暦
知らされていない情報 2020-11-04 | テクニック
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あとは辛抱だけでは

2020-11-10 | 歴史・時事
予想通り天気が良かった。陽射しが気持ちよい。今年の11月は10月並みで、記録的な温かさになるのではないか。コロナ禍の中では嬉しい。

マインツのビオンテクがワクチンBNT162b2の最終臨床試験を昨日終えたと発表して、来週合衆国で認可。九割に効いて、副作用も確認され無かったようだ。薬であるから二年後に最終結論は出るようだが、そもそも接種するべき人間は限られているので、それほど大きな問題ではないだろう。重要なのは、危険因子のある人間にどんどんと打って行って、社会的弊害を取り除いていくことでしかない。

独保健相は、失望させてはいけないのでと前置きして、万が一遅滞が生じても新年の第一四半期には接種可能と語っている。どれぐらいの勢いで捌いて行けるかは分からないが、ある程度感染速度を制御しながら同時にベット使用数を一定以下に保つ指数が弾きだされるだろう。

つまり実際の感染者数は増加し続けてもベット数が保たれていればそれだけ摂取の効果が表れてきているという事で、最終的には現在の実効再生産数よりも重要な指数が目安になる筈だ。要するに重病化が避けられる点でバランスを取りながら接種を続けていく。どこかで感染者数が下がって其の侭急増加しない所へと落ち着く。

ざっと想像すると、2020年の夏程度の社会水準は保てるようになると思う。催し物などに関して大胆な予想をすると、ザルツブルクは今年の水準が再び可能になる。バイロイトは制限付きで開かれるか。

気になるのは復活祭か。ベルリナーフィルハーモニカーも徐々に間隔を短くしていて、ワクチン接種が始まれば健康者の感染と重病化との比率だけだから、最早舞台の上や奈落での感染は恐れる必要は無くなってくる。そこにザルツブルク方式のPCR検査を徹底させれば、問題は殆ど無くなる。客席側は、潜在的感染者が増えるので人数制限は今以上に重要になるだろう。但しこちらも感染自体をそれほど恐れることが無くなれば、危険因子を持つ者は先ずはワクチンで、あとは社会全体の指数に従う事になる。経済性はあまり期待できないが、芸術性はあまり問題にならなくなるかもしれない。

漸く夜明けが見えてきたと思う。あとは辛抱だけではなかろうか。年内はまだまだ厳しいが、可能な限り死者を出さないような大胆な施策が必要だろう。先が見えて来たならば軽くブレーキだけでなくて、更に深く踏み込んでもいいと思う。

ビオンテクの代表で米ファイザーをパートナーとしてワクチンを開発したウグール・ザーヒン博士は、トルコ人のケルンのフォード社への出稼ぎ労働者の倅である。こういう移民の人達がドイツの社会を支えて、文字通り世界を救う。マル・トライヤー知事が、「ラインラントプファルツ州の誇りだ」と春に言っていたその通りである。



参照:
疑わしいロックダウン 2020-10-29 | 歴史・時事
決して一人にはしません! 2020-03-14 | 女
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「音楽の都」の現代音楽祭

2020-11-09 | 
マウスの電池を交換した。二年間保証で前回まではその宣伝文句は確かだった。しかし今回は調べると一年少ししかもたなかった。理由は分からない。最低一日一回はオフにする。以前よりは小まめに切ることはなくなったが、その前も一年半と二年半から一年短くなっている。そして今回は更に三ヶ月ほど短くなった。次は一年もたないか?キーボードの方はあまり変化がなさそうだ。機能やソフトウェアーに関しては満足している。もう三年、十年間程使えるのではないかと思っている。

デスクから籠り部屋に移動するとマウスなどの手垢などが急に気になって来る。自慢のマニュキュアー落としで清掃した。特にキーボードは掃除すると未だに最初と同じストロークの感じが活きていて、新品の時とその機能が全く衰えていない。マウスとのセットの製品だけれども中々お買い得だったと思う。

ヴィーンモデルンの映像が出ている。ロックダウンで無人で演奏されたようだ。開幕はグバイドリーナ特集で、その中心にべートーヴェンイヤーの為の誕生日へと依頼曲第一部プロローグ「神の怒り」などが全三曲演奏されたようだ。Es muss sein, Es muss nicht sein.と対語にして後半をいいたかったようだ。

ヴィオラを管弦楽が伴奏する協奏曲は、この年配のヴェテラン作曲家でなければ無理な編成ではなかっただろうか。経験豊かな作曲家であるから今後どのような機会に再演があるかなども考えられている筈なのだが、シニトケとかショスタコーヴィッチとかが脳裏にあるのだろう。ヴィオラをタメスティが弾いて、伴奏をオクサーナ・リニヴ指揮の放送管弦楽団が受け持っていた。

非常に不経済な作品で1996年作であるからバブル期の創作なのだろう。まさしくNein, es muss nicht seinで、ロックダウン最中にこうやって演奏されているのは偶然とは思われない。まさしくこのような大掛かりなことは不要という事を自嘲しているような曲に聴こえてしまう。

肝心のプロローグは、ベートーヴェンとショスタコーヴィッチから引いているようだが、一体第二部はどうなるのだ?あまりそこが聴こえてこない。これはこれでこの機会に演奏されてとても自嘲的だ。彼女が四十代の時から何度も文字通り顔を見合わせているが、昔の方がよかったのではないかと思う。元々老け顔であり、声の調子は若いが、もう九十歳前である。

この音楽祭はクラウディオ・アバドが始めたように思うが、今回の楽曲依頼はクラスター事件を起こした市立芸大と共同となっている。恐らく支配人がそこの教授なのだろうが、「音楽の都」の現代音楽祭としてこの芸術的な質はどうだろうか。

週明けは暖かくなりそうで、晴になっても放射冷却も無く、朝から摂氏7度で昼に14度まで上がりそうだ。週明けから二週間ほどはそれ程には冷えそうにない。不凍液もまだ要らない。早朝ランニングもショーツ一枚で可能だろう。早起きして軽く一走りしたい。



参照:
通信社のインタヴュー記事 2020-10-01 | 女
胸がきゅんとなる 2020-11-07 | 女
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新年遅くまで次々と

2020-11-08 | 
クリスマス商戦が始まっているらしい。例年ならまだしも今年はそんな気持ちにはなれない。それでも目にすると気になるものもある。

朝は計画通りに銀行に行って現金を下ろした。夜明け前でヘッドランプを点けて走らなければいけないので、エンジンを掛けたまま銀行に入ることにしていた。エンジンを掛けたままドアを閉めることも可能と分かったので、試してみた。銀行内には温かくして酔っ払いが寝ていた。挨拶もせずにちっらっと見ただけだが、普通の酔っ払いの様だった。酒臭いのはいいが、コロナウイルスまで一晩中吐かれていたら嫌だと思った。

ヘッドライトのほかにもエアコンも薄く入れておかないとフロントグラスが曇る。予定では雲と霧で放射冷却の影響が無く外気温摂氏3度だったが若干放射冷却となって摂氏2度でそれなりに寒かった。パン屋も並んだが直ぐに入れた。やはり寒い週末となると早起きで出てくる人は少なくなる。パン屋の売り子も一人居なくなるようで募集している。以前もその人は休んでいたので忙しいのだろうか。

今日は摂氏二度と知っていたら目出帽型のマスクを試してみるべきだった。まだ手袋は要らないのだが流石にショーツで走るのは止めた。どうせゆっくりしか走らないので長いパンツでもそれほど邪魔にはならないだろう。下りて来てから車が動くかどうかが心配だ。あるターミナルの電圧は69%から44%へと落ちている。どうも警報が出たままなので回路上の問題のようだ。バッテリーの総電圧は13.5どころか13.6も保っているので大丈夫だと思う。

前回のキックダウンしてからのエンジンの吹きの悪さは、アクセルのワイヤーを少し締めるだけで直ったようだ。ケーブルが切れた記憶は自転車のブレーキからの連想だったようで、前の車ではワイヤーがささくれ立ってアクセルが戻らなくなったことがあった。旅行先で偶々自動車のエンジニアーが乗っていたことからそのササクレを見つけてくれてそれを剥がしたのだった。アクセルが戻らないよりは安全であるが踏み込んだ時に思うように動かないとこれもまた事故につながる。少し絞っただけでもいい感じになったので良かった。

来週はベルリンから再び無人の公演が中継されることになった。本来ならば国内ツアーの第二プロをもう一度フィルハーモニーで演奏して、恐らく録音する心算だったのだろう。それがロックダウンで中止となったので、交響曲九番の代わりに同じショスタコーヴィッチの交響曲八番が演奏される。急になぜ八番か分からなかったが、来年年明けにペトレンコの指揮科の先生ビシュコフの指揮によって演奏されて、同じプログラムが復活祭で掛かることになっていた。

つまり、前半はリサ・バティシュヴィリのチャイコフスキーと後半はこの曲だったのが変更されたという事だ。考えられる理由は休憩無しで演奏するには他の作品に変更になるという事だろう。少なくとも短期間に決まったという事はキリル・ペトレンコはこの八番交響曲をよく知っているという事に違いない。九番は作曲家への価値を変えるような演奏だったが、より重要とされてきた作品八番の指揮がとても楽しみである。

因みに前任者サイモン・ラトル時代に唯一ベルリンで聴いたプログラムがこの八番で、このコムビでの最初の生体験として大変期待していただけに、些か失望した。同時刻にコンツェルトハウスで同じ曲をアシュケナージが振っていたのでそちらに行けばよかったぐらいに思っていた。再び、ラトル時代のレパートリーを上書きしてしまうペトレンコには本当に恐れ入る。

束の間乍ら天気が良かった。バルコンなどの掃除の床が乾くのが早い。これで年内の掃除などの見通しが付いた。クリスマスに八百屋で貰った幾つもの小鉢が順々に蕾から開花して行く。室内温度などにもよるかもしれないが、全て時期が鉢毎に異なっている。待降節から新年遅くまで次々に咲いて行く筈だ。



参照:
ラクロワに黒マスク集団 2020-09-05 | 文化一般
新年から必要な厚着 2020-11-06 | 暦
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胸がきゅんとなる

2020-11-07 | 
相変わらず天気が良い。11月での陽光としては珍しい。黄金の十月が無かったからだろう。冬籠り初日はよく眠れた。やはりベットの上掛けは寝返りが自由でなくて身体に悪い。足がコブラ返りになりそうにもなったことがある。昔日本の雪国などでは重い上掛けをしていたがあれは健康被害がなかったのだろうかと思うようになった。それどころか綿入れ布団が重くないと眠れないという人の話しも良く聞いた。

ヒーターは就寝中は切るが、比較的温度は高いお湯が流れていた。調整が良く出来ていたのだろう。何れ効かない時もあると思うが、最初の印象が大きい。準備をしておいたので、食事が済んでから階下のデスク周辺のノートブックを寝室に上げるだけで実質一回とその他の茶器やガウンを持って上がるだけだった。半年ぶりなので忘れているが、30分も掛からない内に落ち着いていた。

お湯を上がり場で沸かしての煎茶が中々旨い。照明はベット横の電球が明るいので足元の光をタブレットで消しておいた。これだけでも電気代節約になる。間接照明はその付け消しが面倒な時があるがタブレットで操作するので小まめにプログラミング可能となった。これは大きい。

さて、サブのアクティヴスピーカーで音を鳴らしてみる。ベットの中ででは無くてBGM用のメインとして鳴らすと失望しないか緊張したが、全然悪くない。低音が響く訳でもないが、素直にもどきで無く聞こえるのがいい。BGM用にはバランスもとれていて何一つ文句はない。アクティヴのスイッチの接触不良はあるのだが、屋根裏部屋の天井も高くて中々広がりがある。

その音出しは録音しておいたミュンヒナーフィルハーモニカーのファミリーコンサートでデビューしたヨアンナ・マルヴッツ指揮の九月の演奏会録音だ。既に映像で見ていて、ところどころの音は確かめていたが、こうして通して聞くと違う。チャイコフスキーのロココ主題の伴奏も言えば色々と出てくるだろうが、ミュンヘンフィルでこうして瀟洒な音を出してくれるだけで嬉しい。これだけでもこの女流指揮者がゲルギーエフに代わって首席指揮者になればよいと思う。

この人の指揮は、ザルツブルク音楽祭の「コシファンテュッテ」でもあったように胸キュンものの感受性に富んだ音楽作りで、今後特に交響楽団指揮者としては紆余曲折があると思うが、音楽監督としてもう一つ上に行く人だろう。ブッルクナーを配慮したシューベルトだった様だ。フォンドホナーニ指揮との相違は大きく、こんなに簡単にやって仕舞えるのだと、比較的若い女性の触媒ホルモンを感じる。女性も加齢するとこういう柔軟性は心身ともに衰えてしまうのだろう。兎に角いいものを持っている。

BR交響楽団はアクサーナ・リニヴの方が本格的な交響楽の世界を提供してくれるので適当だが、二人がミュンヘンで振りあうとなると、我々も無視できなくなる。

フォア―アールベルクの感染状況がもの凄い。一時も傑出したことのあったフェルトキルヒとブレゲンつの間のドルンビルンの指数がオーストリアトップとなった。隣町にホテルは予約してある。演奏会は無くなったのでキャンセルすればよいのだが、12月が駄目になることを確認してからでもと思っている。指数で700人は、千人に7人ぐらいが陽性である。つまり隣町の演奏会場で500人入れれば、3人以上、潜在感染者は十五人に一人ぐらいか?とても恐ろしい数で、自分の並びか前後の並びの話しかけるところに誰かがいるぐらいだろう。そんなところで幾ら空調を効かしてもウイルスの濃度は上がる可能性がある。そこに一時間以上閉じ込められる。舞台も客席も何もない。

ドイツも一日で二万の新感染者数と死者116人は尋常ではない。こちらはまだロックダウンの結果が出ていないので、再生産数の毎日の低下7.9にしか期待はできないが、12月から元に戻せるとは思えない。11月中に規制徹底から法改正が議論されているが、現行の規制は効果があまり期待できない。それに比較してオーストリアの政府は浮足立ってしまって、なんら数字が出ていない矢先から更なる強化に言及しだした。医療システムの崩壊が避けられないのだろう。そんなことは9月初めから分かっていた。未必の故意として閣僚らは起訴されるかもしれない。



参照:
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
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新年から必要な厚着

2020-11-06 | 
冬籠りが始まった。明日の朝は摂氏1度の予想だ。ヒーターをつけて部屋を暖めて、ぐっすりと眠って、すっきりと朝起きしたいところだ。今日はそれほど冷えなかった筈だが、それでも陽射しが強くなってからも沢の河川敷には白く霜が一面に残っていた。地面には水溜りがあり、霜柱があったようには思われない。そこまでは冷えていない。だからショーツ一つで寒すぎたという感じでもなかった。

なんとか車も動いて戻って来れた。今度はインディケーターの他の数値などを一通りチェックした。エアコンの吹き出しは電圧で調整していることも分かった。又ヘッドライト等を付けるとそこの電圧が68%に落ちることも確認した。その他ではアクセルをキックダウンしてみるとそのあとで吹きがおかしくなった。どうもアクセルのケーブルが一気に伸びて仕舞ったようだ。少しだけ絞るようにしてみた。あまり絞るとワイヤーが切れるだろう。バッテリーはどうもそれほど悪くはなさそうで少なくとも来週の車屋でのアポイントまでは動きそうだ。

ドイチュラントフンクでバーデンバーデン祝祭劇場のスタムパ支配人が語っている。ペトレンコらベルリナーフィルハーモニカーが「今回のストップが今後長い期間に影響する」と警告した声明を考えていたが、その一つの状況が語られている。勿論スタムパが語るように祝祭劇場は自己の演奏家を持っていないので、ベルリンのフィルハーモニーとは状況が異なる。その為に四週間のストップが更に四週間の準備期間が必要になるというのだ。そうした百年以上続くようなクラシック業界のビジネスネットがあって成り立っている為に、次に何かを始めようとすれば同様な準備期間は聴衆の方にも必要になるというのは当然だろう。

そしてもう一つは、今回のベルリンからの上からの決定のような構造上の問題を語っている。文化事業は自治体のものでその構造が活きなければ文化とならないという事らしい。それは今回のようなストップ指示を越えて、恐らく公的な援助とかにも関わるのだろう。

私立の祝祭劇場のような機関にとっては、短期のストップ以上にストップアンドゴーが強く堪えるというのは分かったが、その延長の来年に目を向けるとドイツ連邦共和国の公立の劇場や文化機関などが大変なことになると話している。恐らくそれは今迄凌んできた時短を超えてそこに従事する多くの関係者の人事に係るような事態と察することが出来る。スタムパの言葉では厚着を強いられるとある。

祝祭劇場は、市からの一時的な援助で年内は凌んで、来年へと計画を始めて12月に纏めたいとしている。この休止期間をフェルマータと呼んだのは、その時限が決まっていないからのようで、祝祭週末で戻って来て、復活祭とベルリナーフィルハーモニカーで国際舞台となるとしているのも意味深である。

ベルリナーフィルハーモニカーも来年のティケットを予定通りに発売可能なのか、それならばその時までに来年度の復活祭までの様子が明らかになるという事だろう。催し物における人数制限は経済的な利潤が得られないというだけで、芸術性とは全く関わらない。百人の聴衆であろうとも三千人であろうともその芸術性には影響しないのが芸術である。そこが娯楽の催しとは異なるところで、商業的なものにそのような開催方法での公的な資金の援助は出来ない。

兎も角、昨日も楽劇「マイスタージンガー」の終幕におけるハンスザックスの演説を取り上げたが、まさしくドイツ政府は芸術やその活動をあまりにも軽んじている。表れ方は全く正反対なのだが、ヴィーンの拝金趣味と同じぐらいに、金で片付くものとしか考えていない。

ロックダウン四日目で明らかになった。大都市市街地は行ってみないと分からないが、少なくともここワイン街道のような郊外のベットタウンではそれ以前よりも交通量も人込みも明らかに増えた。それで何が起こるかと言えば学校などを通じての感染が郊外で満遍なく広がることだろう。明らかにドイツ連邦は感染拡大策に失敗した。死亡者さえ増えなければ構わないが、国民の八割に感染するまでにそれ程年月は掛からないと思う。



参照:
響くやり場のない怒り 2020-11-05 | 音
知らされていない情報 2020-11-04 | テクニック
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響くやり場のない怒り

2020-11-05 | 
今晩はアルテオパーでブラームスだった。最初はオリジナルプログラムで、アメリカに飛ぶ前にフランクフルトで送り出す公演だった。ベルリナーフィルハーモニカーのラトル時のプログラミング部長がアルテオパーの現支配人なので、今後ともそういう機会が多いと思う。

プログラムはヴェーベルンのパッサカリア、メンデルスゾーンの交響曲一番、そしてブラームスの四番だった。ザルツブルク音楽祭のあまりティケットも安く買わなかった。9月までオリジナルプログラムの可能性を期待していたからだ。

そして、11月になっても通常配置で演奏できるかどうかが怪しかった。結果はベルリンではツアー第二プロのようにその準備は着々と出来ていた。改変プログラムになって買える一番良い席を購入した。全ては期待の反映でしかなった。

今方々で話題になっているロックダウン前のそのプログラムのアンコールとして「演奏」されたキリル・ペトレンコ指揮ジョンケージ作曲4'33''の演奏風景を観た。三楽章に別れている。ペトレンコは其々の楽章に性格付けをしていたようだ。その意味は彼の表情と身振りだけでしか計り知れない。
John Cage: 4'33'' / Berliner Philharmoniker · Kirill Petrenko


初演のピアニストの無音パフォーマンスから30秒と一番短いとされている第一楽章では、うつむき加減に両手を肘の高さに抱擁するかのように掌を前に出して、左に頭を傾け暫くして前を向いて少し右を向いて再び最初の方に首を傾けたまま悲嘆に暮れて終わる。

五月一日のヨーロッパコンサートではバーバーのアダージョで上を向いた祈るようなしぐさが話題になった。コロナ禍の怒りの神に請うようなバロック絵画の悔悟の表情とされた。今回のこれも明らかに嘆きであり、同時に受け入れる達観とした表情を見せた。逆らえない運命を受け入れるかのような抱擁の姿勢だった。

そして第二楽章の2分23秒の最も長い楽章では、前に手を翳し、今度は右方向へと首を傾けながらヴァイオリンから現在は通常配置の右のコントラバスまでを心を合わせるかのように一望した。まるで月末までの間のお別れと同時に安然秩序を希望するかのような眼差しであった。そして右を向きながら再び手を肘の高さに保持した。

最後の三楽章は1分40秒で、ペトレンコは打って変わって怒りの表情を見せた。先ずは左の方を向いて右上の開いた指から左の親指だけが開く手が何かを受けるかのようにその左手が力で震える。そして目をかっと見開き右へと視点を移していく。その眼差しは向けようのない怒りに溢れ、更に左へ戻ろうと視線を上げながら何かを探す。そして左へと向けても何も見つからない、そして途方に暮れながら、左端から更に右へと戻る。そして何もないことを確認して手を下げる。

このように怒りに満ちてそして途方に暮れた表情を嘗て見せたことが無い。ペトレンコは昔仏頂面で指揮する事も試みたようだが、最終的には出来る限り芸術的な内容を伝えるべく表情を付けることを目指した。今回の指揮には、楽曲本来の聴衆を含むその環境よりも、まさしく私たちが置かれている環境を認知して更に記録することにその指揮の全てが注がれたのだろう。

フォアアールベルクにメイルで回答した。12月への試みには触れずに、上手くいく延期日程を愉しみにしていると書いておいた。皆期待している気持ちは変わらない。しかし現実は厳しい。

皆が同じように困っている。どうしてこうなってしまうのだろうという悲嘆でしかない。それも皆が術もなく受け入れるしかない運命である。ペトレンコが特別宗教的な人物とは思わないが、ああした才人には珍しく、とても忍耐強く更にそこから何かを構築していく智慧がある。そして暖かな眼差しも忘れない。恐らくそれは彼自身がその自身の立場を誰よりも理解している人物だからだろう。だからこそそのやり場のない怒りは強烈に響いた。

Meistersinger 3. Aufzug 5. Szene 3

Verachtet mir die Meister nicht
und ehrt mir ihre Kunst!
Was ihnen hoch zum Lobe spricht,
fiel reichlich Euch zur Gunst!
Nicht Euren Ahnen, noch so wert,
nicht Eurem Wappen, Speer noch Schwert,
daß Ihr ein Dichter seid,
ein Meister Euch gefreit,
dem dankt Ihr heut’ Eu’r höchstes Glück.
Drum, denkt mit Dank Ihr d’ran zurück,
wie kann die Kunst wohl unwert sein,
die solche Preise schließet ein?
Daß uns’re Meister sie gepflegt,
grad’ recht nach ihrer Art,
nach ihrem Sinne treu gehegt,
das hat sie echt bewahrt.
Blieb sie nicht adlig wie zur Zeit,
wo Höf’ und Fürsten sie geweiht,
im Drang der schlimmen Jahr’
blieb sie doch deutsch und wahr;
und wär’ sie anders nicht geglückt,
als wie, wo alles drängt und drückt,
Ihr seht, wie hoch sie blieb in Ehr’!
Was wollt Ihr von den Meistern mehr?
Habt acht! Uns dräuen üble Streich’!
Zerfällt erst deutsches Volk und Reich,
in falscher welscher Majestät
kein Fürst bald mehr sein Volk versteht;
und welschen Dunst mit welschem Tand
sie pflanzen uns in deutsches Land.
Was deutsch und echt, wüßt’ keiner mehr,
lebt’s nicht in deutscher Meister Ehr’.
Drum sag’ ich Euch:
ehrt Eure deutschen Meister,
dann bannt Ihr gute Geister!
Und gebt Ihr ihrem Wirken Gunst,
zerging’ in Dunst
das Heil’ge Röm’sche Reich,
uns bliebe gleich
die heil’ge deutsche Kunst!


参照:
ロックダウン前最後の演奏 2020-11-01 | 音
モニターの前の評論家 2020-05-04 | 文化一般
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知らされていない情報

2020-11-04 | テクニック
車のバッテリーは其の侭だ。何時どうなるか心配で容易に車では出られない。週明けに車屋にもって行こうかとも思った、又は自身で取り換えて仕舞おうかとも思った。しかし始動したので余分に10キロほど走らせた。気になっていたバイパスの工事も無く、どうも旧街道にも自動車が溢れているのが分かった。それも貨物も含めてで、どうもロックアウトになってから社会が動き出した感じが強い。やはり自宅に戻った人たちがじっとしていられずに動き回るようだ。

まだバッテリー交換へと動けないのはエアコンのディスプレーで電圧チェックが出来る事を覚えて、そこで目星がつけれると思ったからだ。来週には液も検査させるつもりなのだがそこまで立ち往生せずに乗り切れるかどうか。先ずは、電圧は引き続き13.5から13.7Vまでを保っている。少しでも落ちたら諦めるしかないと思っている。

そのディスプレーで分かるセンサーの情報は幾つもある。調べてみると、次の通りだ。

1.内温度(道理で動かすと温度が急上昇する)
2.外気温、メインディスプレーが薄くなって見えなくなっているのでこれは助かる
3.ヒーター左のコアの温度
4.ヒーター右
5.ラジエターセンサー
6.水冷センサー
7.クーラー圧
8.クーラー温度

10.ブロアー制御電圧
11.排出センサー
12.陽光センサー

20.空冷ファン制御mA
21.エンジンスピード
22.車両スピード
23.ターミナル58 電圧率
24.電圧

23.はまだ確認していない。100%の00であるべきのようだ。

このようなセンサーの情報は今に廃車にしようかという時になって初めて知った。

ミュンヘンからの朗読と歌は悪くはなかった。流していただけなので話しは追っていなかったが。バッハラーは流石に俳優で、ヴィースバーデンのラウフェンベルク支配人のそれとは大違いだった。この演出家も俳優出身なのだろうが何か格が違うという感じだった。

ヴィーンのテロの情報で夜更けまで追っていた。兎に角情報も錯綜していたが、SNSで明らかな映像が最初の突撃の15分ほどで掲載されて、オフィシャルなニュースよりも状況が分かり易い。フェークを見抜けるかどうかは個人の能力に掛かる。何よりも重要なのは現地の人の安全に繋がるニュースだろう。コンツェルトハウスでの折からのコンサートの状況も客席にいる人よりも先にネットの放送で明らかになっていた。パーカッショニストのグルビンガーが聴衆が危険な街に出て行かないように気を利かせてアンコールをしたと、本人と電話で繋がったと情報が流された。共演していたザルツブルクのモーツァルテウムの管楽器奏者とアンコールをしたという。舞台袖での情報から演じていたのか、聴衆にはアンコールが終るまでは知らされていなかったようだ。



参照:
とても疲れた一日 2020-10-31 | 生活
延期になったバイロイトの声 2020-05-19 | 音
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深刻に受けとめられる

2020-11-03 | 文化一般
本日からロックダウンが開始された。午前中は何となくそのような雰囲気があったが、午後になって天気が良くなって今までにない程の交通量を感じた。バイパスを期間中という事で工事封鎖しているのかもしれない。兎に角騒がしくなっている。

土曜日に入っていた郵便などを見ると来年以降の予約なども始まっていて、それも復活祭過ぎでも減員してある。とても厳しい現実で、増やすことは可能だろうが、どうなるか分からない。

そしてハムブルクの興行屋からもメールが入って、12月からどうなるかという事で、聴衆の署名を集めている。その内容を読むと国統一での五割から七割の聴衆の入場を求めている。それだけで署名するには当たらない。要するに興行が何とかなる入場者数を求めているに過ぎない。そんなものには署名は出来ない。なぜならばそれによって感染の危険性が高まり、同時に再開を危うくさせるからである。

年内はどんな大会場でも100人から250人までの入場が精々である。寧ろそれでも多い。なぜならば春とは感染の広がり方が桁が異なり、人数が集まれば必ず感染者のみならず陽性者がそこに含まれるようになるからだ。現実味の無い経済的な要求に聴衆を巻き込むべきではない。協力をお願いするのに聴衆の主導のような形式をとるな。

フォアアールベルクの交響楽団から連絡が入った。先ずはダブルブッキングした取り消しの了解と払い戻しの口座番号の要求だ。そして、11月のペトレンコ指揮マーラー九番の実施が不可能になったことから、新たな延期日程を調整中で、月内に連絡するとあった。とても厳しいと思う。安全な日程に延期されるならば其の侭期待したいと思う。

先に行われる予定のミュンヘンでの2月の定期演奏会はもう無理だと思う。それどころか5月のライプチッヒでのマーラーフェストも危ない。更に先を見ると2021年11月に日本旅行が可能かどうか。ならなければその頃に時間が空くだろう。

年明けの1月、2月のミュンヘンを入れての数回の演奏会がどうなるかで復活祭も決まって来る。復活祭を組み直すというのはまさしくそこである。11月末までに結果が出る。しかし11月中の判断材料は今よりも悪いものしかないだろう。余計に興行屋が考えるようなことが如何に的を外れているか。

占星術で新たな方向が見えると歌手のマルリス・ペーターセンが語ったが、はっきりしたのは従来の興行形式は愈々お払い箱になるという事だろう。大管弦楽団の稼働率も悪くなり、その給与体系などにも六割の時短に続いて影響が出てくるのは必至だ。若しくは淘汰が進む。

多くのことは元に戻るだろうが、元に戻らない多くのこともある。明らかに構造が変わってくると思う。しかし何か明るいものがまだ見えてこない。ベルリナーフィルハーモニカーを代表して、クヌート・ヴェーバーとシュテファン・ドールは、「連邦政府、連邦首相は、当初この禍に於いて状況の深刻さを正しく示した。我々ベルリナーフィルハーモニカーの音楽家は、今回の新たな我々の事業や全ての文化施設の閉鎖には理解を示さない。特にフリーランサーの文化創造者は既に大きな損失を受けなければいかず、我々皆今後数年新たな閉鎖の影響を受け続ける。文化界は、この状況を深刻に受けとめ、そして今深刻に受けとめられるように願う。」。



参照:
因果応報のロックダウン 2020-09-25 | 雑感
僅か22ユーロのおもい 2020-10-06 | 雑感
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聖像破壊者と伝統回帰者

2020-11-02 | 文化一般
バーデンバーデンからマガジンが届いた。投函した時には既にロックダウンが決まっていた筈だ。準備をしていたので其の侭出したのだろう。あまりにも辛い内容だが記録に残るマガジンである。

土曜日に生中継されたもプログラムがもう一度バーデンバーデンで演奏されて、続いてハムブルクのエルフィで、そして二回ベルリンで演奏される予定になっていた。今回の演奏を聴いて、特にショスタコーヴィッチの交響曲九番は完璧なものが録音される予定だった可能性が強く、シュトラウスもまだよくなるだろうと感じた ― もしかするとその期間中に制作録音されるかもしれない。

マガジンにはそのプログラムのアウトラインの前に、ペトレンコ指揮の第九「合唱付き」演奏についても書かれている。書き手はドイチュラントフンククルテューアにいたオラフ・ヴィルヘルマーという音楽ジャーナリストである。

先ずはその歴史的な流れからも、サイモン・ラトルがベートーヴェンを手始めとしなかったことに対して、キリル・ペトレンコを対照させて、前者を聖像破壊、後者を伝統回帰者となどとは言えないとしている。それはフルトヴェングラーに対してカラヤン、カラヤンに対してアバド、アバドに対してのラトルという構造でその都度対極へ振れているからというテーゼによる。

そして、ペトレンコの第九のテムポが取り分け早く、その意味などを考察している。その演奏で、何か新たな第九を示そうとしたわけでもない。それならば歴史的な舞台での圧迫されたものから生じたのか。

1942年の演奏会のプログラムには空襲警報下での様子が示されていて、存在を危うくするような状況が記されているとある。要するに特別な環境における演奏活動が、今年のコロナ禍におけるそれへと繋げられている。

なるほどバーデンバーデンでは、僅か五百人ほどの聴衆が大祝祭会場に集いマスクをしてという状況が展開するところであった。

そして、当該の二曲のベルリナーフィルハーモニカーでの1947年の初演は、「メタモルフォーゼン」がフルトヴェングラーの指揮によって、ショスタコーヴィッチはチェリビダッケの指揮によって演奏されたらしい。

今回のプログラムで最大70人程まで舞台に乗れるように間隔も縮まった。恐らく保険上も認められたのだろう。指揮者のキリル・ペトレンコは客席に関しては少なくても全く問題が無いと語っていて、舞台上での間隔を重要視していた。管弦楽団の要望でもある。それがほぼ解決されたことは、再開の時に最も重要視される点で客席は500人でも一向に構わない。常識的にその程度から再開されるであろう。12月は100人も難しいかもしれないので、来年以降となるだろう。どんなに少なくても無人でやるのとは異なる。

今回のロックダウンへの抗議の声明をペトレンコも出した。

「ここに来ての新たな演奏会の中断は、間違った施策に思える。当然のことながら、ウイルスが広がらないように私たち皆が一役を担うのは当然のことと思う。その為にこの数カ月間多くの積み重ねを為して来ていて、更に進めていく準備が出来ていた。所謂ロックダウンをして、それがフリーランスの仲間たちにノックダウンとならないように殊に注意しなければいけません。」 ― ベルリナーフィルハーモニカー首席指揮者キリル・ペトレンコ



参照:
ロックダウン前最後の演奏 2020-11-01 | 音
疑わしいロックダウン 2020-10-29 | 歴史・時事
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