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静岡のお茶と清水港の歴史 その九 (旧東海道江尻宿付近その二 オマケはEF210レールチキ)

2021-06-11 12:37:09 | 静岡の歴史、お茶、廃線

こんにちは  2021年6月11日の金曜日です。

表紙は5月  清水を走るEF210レールチキ。

JR清水駅南西の波止場踏切、「波止場」は後日登場予定。

「七夕まつり」には多くの人出でにぎわうのですが・・   奥が旧東海道。

青印が踏切付近。

(フェルケール博物館展示)  200年以上前、中上が江尻宿  その奥が江尻城址でしょうか、稚児橋も描かれています。

左下の巴川沿い、42軒の廻船問屋は安倍川-富士川間の廻船運送業務を独占した(幕府からの見返りもあったが)

問屋たちは株仲間を結成し、米や茶(お茶もまた後日でてくる)などを取り扱ったほか、

六軒一組で「年番(年行事)」を務めました。

(フェルケール博物館展示)  左上が稚児橋。

江戸時代の清水湊は大坂と江戸を結ぶ太平洋航路のほぼ中央部にあたる重要な中継地であり

駿府城下町の湊として物資の集散地であった。宝永4年(1707)には甲斐・信濃国の年貢米が

富士川を下り清水に集まるようになると「廻米置場」が巴川岸に置かれ、清水湊は一層重要になっていった。

港橋バス停近くにある「甲州廻米置場跡」

2005年 「地図・空中写真閲覧サービス」より

清水湊で取り扱った荷物は、年貢として集められた米や、茶、たばこ、材木、塩など

主に江戸へ向けて出荷されました。  特に甲斐(山梨)から富士川を下って運ばれてくる年貢米は

「甲州廻米」と呼ばれ、清水湊が物流において重要な拠点となっていました。

1962年 「地図・空中写真閲覧サービス」より

旧東海道  江尻をでて興津の先には屈指の難所「さった峠」があり海運が重要なのでした。

つづく。   ステキな週末を。

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