工藤俊作さんによるプロデュース公演。今回でついに第10回公演となる。台本は焚火の事務所の三枝希望。演出は極東退屈道場の林慎一郎。この異色のコンビがこの作品を興味深いものとする。
ここに描かれる重くて暗い世界は三枝さんならではのもので、こういうタイプの芝居が近年どんどん減ってきて、明るくてわかりやすく単純な芝居が増えている。だが、世界は必ずしもそんなに明快なものではない。
ひとりの鬱屈した青年の内面をとことんまでみつめ続けることで、見えてくるもの、それとギリギリまで向き合っていくこと。芝居が芝居として力を持つ瞬間と出会う快感がここにはある。三枝さんの内に沈んでいこうとする感覚を演出の林さんが掬い上げていこうとする。この重くて暗い世界の中にしっかり光をあてていこうとするのだ。そのへんが三枝さんと林さんの違いで、今回演出に林さんが参加して、作品は救いのあるものになった気がする。
たったひとり彼を最後まで見棄てなかった少年の首を絞めてしまう青年の話に救いを求めるなんて本来なら不可能なことだろう。しかし、この芝居を見終えた後の印象は意外なほど暗くはなかった。とても不思議なことだが。それはなぜなのか、と考えていくと、殺す側と殺される側の両者の間にギリギリのところで共感のようなものがあり、それがこの殺伐としたドラマの最底辺を支える。もちろんこの殺人を肯定しようだなんていうつもりは毛頭ない。小学生たちから宇宙人と呼ばれ、彼らを秘密基地に呼び入れて、子供たちの仲間となる青年なんて考えただけで気味が悪い。しかし、子供たちと彼の間に生じた共感はただの利害関係なんかではない。
生きていくうえで大切な何かがそこにはある。今の子供たちはこういう共同体幻想はもう持たないだろう。そういう意味でも、この芝居が若い世代にどう受け止められるのかが、とても気になった。何かにすがりつきたいという想いが彼らに伝わるのだろうか。20年前の子供たちはもうここにはいない。しかし、あの時の想いは今も消えることなく、ここに漂っている。
7人の小学生たちを久保田浩たち7人のうさんくさい中年の男たちが演じる。その中にぽつんと山口晶子演じる少年アオバが混ざる。当然彼(女)だけがこの空間で異彩を放つ。殺される少年であることを最初から鮮明に感じさせることとなる。結果的には宇宙人(工藤俊作)とアオバとの共犯関係が浮かび上がる。
人間を無機的な存在として捉えて客観的にドラマを見せる林さんの作品作りと、人間を(あたりまえだが)有機的な存在として捉え、だが、衝動的でわけのわからないものとして描く三枝さんとのアプローチの違いが、この作品を闇の中から光の元へと掬い上げることとなったのだ。突き放すことと、抱え込むこと。両者のアプローチの違いは明確だ。
今回、林さんは三枝さんの台本を通してこの題材へ歩み寄りをみせる。本来の彼からこういうアプローチはしない。主人公の工藤さんはあくまでも三枝さん側の人だが、彼もまた自分の演じる青年をニュートラルな存在として、捉えようとするため作品はバランスを崩すことなく成立することが可能となった。演出の林さんの立場を代弁する山口さんの存在も大きい。本来なら対局にあるものが融合していくところにこの作品の意義がある。
ここに描かれる重くて暗い世界は三枝さんならではのもので、こういうタイプの芝居が近年どんどん減ってきて、明るくてわかりやすく単純な芝居が増えている。だが、世界は必ずしもそんなに明快なものではない。
ひとりの鬱屈した青年の内面をとことんまでみつめ続けることで、見えてくるもの、それとギリギリまで向き合っていくこと。芝居が芝居として力を持つ瞬間と出会う快感がここにはある。三枝さんの内に沈んでいこうとする感覚を演出の林さんが掬い上げていこうとする。この重くて暗い世界の中にしっかり光をあてていこうとするのだ。そのへんが三枝さんと林さんの違いで、今回演出に林さんが参加して、作品は救いのあるものになった気がする。
たったひとり彼を最後まで見棄てなかった少年の首を絞めてしまう青年の話に救いを求めるなんて本来なら不可能なことだろう。しかし、この芝居を見終えた後の印象は意外なほど暗くはなかった。とても不思議なことだが。それはなぜなのか、と考えていくと、殺す側と殺される側の両者の間にギリギリのところで共感のようなものがあり、それがこの殺伐としたドラマの最底辺を支える。もちろんこの殺人を肯定しようだなんていうつもりは毛頭ない。小学生たちから宇宙人と呼ばれ、彼らを秘密基地に呼び入れて、子供たちの仲間となる青年なんて考えただけで気味が悪い。しかし、子供たちと彼の間に生じた共感はただの利害関係なんかではない。
生きていくうえで大切な何かがそこにはある。今の子供たちはこういう共同体幻想はもう持たないだろう。そういう意味でも、この芝居が若い世代にどう受け止められるのかが、とても気になった。何かにすがりつきたいという想いが彼らに伝わるのだろうか。20年前の子供たちはもうここにはいない。しかし、あの時の想いは今も消えることなく、ここに漂っている。
7人の小学生たちを久保田浩たち7人のうさんくさい中年の男たちが演じる。その中にぽつんと山口晶子演じる少年アオバが混ざる。当然彼(女)だけがこの空間で異彩を放つ。殺される少年であることを最初から鮮明に感じさせることとなる。結果的には宇宙人(工藤俊作)とアオバとの共犯関係が浮かび上がる。
人間を無機的な存在として捉えて客観的にドラマを見せる林さんの作品作りと、人間を(あたりまえだが)有機的な存在として捉え、だが、衝動的でわけのわからないものとして描く三枝さんとのアプローチの違いが、この作品を闇の中から光の元へと掬い上げることとなったのだ。突き放すことと、抱え込むこと。両者のアプローチの違いは明確だ。
今回、林さんは三枝さんの台本を通してこの題材へ歩み寄りをみせる。本来の彼からこういうアプローチはしない。主人公の工藤さんはあくまでも三枝さん側の人だが、彼もまた自分の演じる青年をニュートラルな存在として、捉えようとするため作品はバランスを崩すことなく成立することが可能となった。演出の林さんの立場を代弁する山口さんの存在も大きい。本来なら対局にあるものが融合していくところにこの作品の意義がある。