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映画・演劇のレビュー

くじら企画『山の声』

2008-12-07 21:31:13 | 演劇
 大竹野正典さんの(というか、昔からの友だちなので『さん』付けは気味が悪い)2年半振りの新作である。ここ数年山登りに嵌ってしまった彼は、芝居より山、という毎日を送っている。だから、こんなにも公演まで、間が開いてしまったのだ。これは満を持しての(『芝居よりも山』である今の彼にとっては、これは「満を持しての」ではないかもしれない。というよりも、これは「僕たち観客にとって」満を持しての、という感じだが)新作なのだ。

 今回の題材は、山に登ることだけのために生きた男の話だ。登山家である加藤文太郎という実在の人物にスポットを当てた。彼の残した『単独行』という遺稿集をもとにして、彼(戎屋海老)が山に何を感じ、何を思ったかが綴られていく。彼と彼の後輩である吉田(村尾オサム)の2人を通して、彼ら2人のベテランがなぜ帰らぬ人になったのか、が描かれる。2人の最期の山行を中心にして、2人の間にある心の葛藤を絡めて描かれていく。

大竹野としては、めずらしくストレートな人間ドラマになっている。実在の人物に取材しても、今までなら自分のほうにぐっとひきよせて、自らの妄想の中に取り込んでいくというスタイルをとってきたのに、今回は正攻法で、出来るだけ彼ら2人の心情に寄り添って、彼らの心の声を丹念に掬い上げていこうとする。

 見ていて、いささか物足りない部分もある。しかし、これは今の彼の気持ちがストレートに反映された作品であろう。加藤文太郎という人物はただ山が好きで山を歩いていたいだけ。今までの事件や犯罪を取り扱った芝居とは趣を変えて当然の素材だ。彼の内面の闇を描くとか、そういうのではない。一人の男の山に登ることにかけた情熱のみにスポットを当てる。それ以外のことには気を逸らさない。いらぬ雑念はなく、ただ山と向き合う彼の心境だけが語られる。

 それは大竹野自身が、今、山を登りながら感じていることでもあろう。芝居は自ずと単調になる。何の仕掛けもなくシンプルなものとなる。2人芝居で、2人は一緒に山に登っているのだが基本的には対話もなく、モノローグばかりが続く。お互いに同じ場所でいるのに、向き合うシーンはほとんどない。彼らは相手ではなく山と向き合い、自分自身と向き合うのだ。なぜ山に登るのか。そこには理由なんかない。ただ、そこに山があり、そこに自分がいる。ただそれだけのことなのだ。そんな真っ白な心境が綴られていく。

 吉田は既に死んでいて、ひとり残された加藤が見た幻想である、というようなドラマとしての外枠なんてものも、ここには必要ない。彼らがここに一緒にいて、2人で登り死んで行ったこと。ただその事実だけが、ふたりの内面の声として描かれていく。愚鈍なまでもの正攻法で描かれる男たちのドラマは、「ただ好きだから」という一念に突き動かされていくその姿だけがそこから伝わってくるのだ。

 6人のパーティーの後を追い、彼らと行動をともにしようとした話が、かなり丁寧に描かれる。そのエピソードを通して、なぜ、単独行なのか、を語っていくのだが、そういう説明の部分がこの芝居の核心ではない。それさえも大きな流れの中の1ページでしかない。どこかにクローズアップした作り方はしない。ラストの死んでいく姿が感動的に描かれるのも、ただ淡々とした事実の描写にしか見えない。この抑制の効いた芝居は、芝居を通して何かを語るのではない。ありのままの姿を素直に描き切ることの強さを見せてくれる。この芝居の感動は、その愚鈍なまでもの力強さに他ならない。

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