昨日2度目の『レミング』鑑賞。この文は初日(2月23日)に10分遅刻して見た時のものなので、幾分今の感想とは違う。芝居は2回見るとかなり違った見え方がすることがある。特にストーリーを中心に構成しないものはその傾向が強い。今回の作品は繰り返しの鑑賞に充分耐える傑作である。以下、初日の興奮が書かれた文章を掲載する。
昨年の佐藤香聲による初演を見た時の印象とは、まるで違う作品になっていることにまず驚いた。主人公を栃村結貴子さんから、遠坂百合子さんに変更したことと、栃村さんが母親役にまわったことで、この役が膨らんでしまった。さらには、宮川サキさんが監督の位置に付くことで、芝居全体の輪郭が明確になった。
お話の入り口にある夫婦の話からスタートして、この3人が作り上げる世界に見事に引き込まれていく。キャスティングの妙を堪能することになる。彼女たちの絶妙のボジショニングによって芝居はとてもわかりやすい骨格を持つことになる。
取りとめもない作品世界を溢れるように見せているのに、作品全体がとてもメリハリのあるものになる。しかも、佐藤さんによる完全セリフ劇という側面ばかりが印象に残った前回と違い、今回はまるで銀幕遊学レプリカントの佐気品かと見まがうばかりの思い切ったパフォーマンスにもなっている。
それは栃村さん演じる母親にポイントを置いて全体を再構成したことにもよる。これはこのお話自体を解体してしまうくらいに大胆な構成に見える。人形を使った描写も見事としか言いようがない。母親の二面性を見せるというだけではなく、本当と嘘の境界をやすやすと乗り越えるこの芝居全体すらそこの象徴する。
壁がなくなったことから始まる狂気と恐怖の物語の、ストーリーを追うことよりも、この空間を見つめること伝わってくるものを受け止めるだけでいい。これは舞台上でめまぐるしく展開していく万華鏡のような美しさを見つめてただ圧倒されればいいのだ。パフォーマンスとして、ステージ上で繰り広げられるこの世のものとも思えない世界をただ見つめていればいい。
しかし、そんな中で、気付くと、壁がなくなった部屋からスタートしたこの物語は、見えない壁に取り囲まれていく恐怖を描く芝居へと確実に変化していることになる。
終盤、上手に栃村さん、下手に遠坂さんを配したスペクタクルシーンは圧倒的である。寺山修司を座付き作家にしてしまい、佐藤さんの『レミング』はさらなる進化を遂げていく。
昨年の佐藤香聲による初演を見た時の印象とは、まるで違う作品になっていることにまず驚いた。主人公を栃村結貴子さんから、遠坂百合子さんに変更したことと、栃村さんが母親役にまわったことで、この役が膨らんでしまった。さらには、宮川サキさんが監督の位置に付くことで、芝居全体の輪郭が明確になった。
お話の入り口にある夫婦の話からスタートして、この3人が作り上げる世界に見事に引き込まれていく。キャスティングの妙を堪能することになる。彼女たちの絶妙のボジショニングによって芝居はとてもわかりやすい骨格を持つことになる。
取りとめもない作品世界を溢れるように見せているのに、作品全体がとてもメリハリのあるものになる。しかも、佐藤さんによる完全セリフ劇という側面ばかりが印象に残った前回と違い、今回はまるで銀幕遊学レプリカントの佐気品かと見まがうばかりの思い切ったパフォーマンスにもなっている。
それは栃村さん演じる母親にポイントを置いて全体を再構成したことにもよる。これはこのお話自体を解体してしまうくらいに大胆な構成に見える。人形を使った描写も見事としか言いようがない。母親の二面性を見せるというだけではなく、本当と嘘の境界をやすやすと乗り越えるこの芝居全体すらそこの象徴する。
壁がなくなったことから始まる狂気と恐怖の物語の、ストーリーを追うことよりも、この空間を見つめること伝わってくるものを受け止めるだけでいい。これは舞台上でめまぐるしく展開していく万華鏡のような美しさを見つめてただ圧倒されればいいのだ。パフォーマンスとして、ステージ上で繰り広げられるこの世のものとも思えない世界をただ見つめていればいい。
しかし、そんな中で、気付くと、壁がなくなった部屋からスタートしたこの物語は、見えない壁に取り囲まれていく恐怖を描く芝居へと確実に変化していることになる。
終盤、上手に栃村さん、下手に遠坂さんを配したスペクタクルシーンは圧倒的である。寺山修司を座付き作家にしてしまい、佐藤さんの『レミング』はさらなる進化を遂げていく。