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映画・演劇のレビュー

『窓辺にて』

2022-11-08 19:11:29 | 映画

今泉力哉監督の最新作であり、最高傑作。こんな地味な話なのに2時間23分の長編。だが最初から最後まで全く飽きさせない。それどころか、もうこれで終わりなの、と不満になるほど。さりげなく、あっけなく終わる。まだまだ見続けていたい。彼らのその後の動向をずっと見ていたい。それくらいに魅力的で飽きない映画なのだ。

とってもさりげない見せ方だ。そっけないほどに。でも目が離せない。こんな気持ちってどういうことなのだろうか、とか、不思議で、でも納得する部分もあり。理解できないのではない。理解できるわけでもない。責められる立場の浮気している妻が、彼を追い詰める。あなたの気持ちが許せないと。そして、そう言われて、確かに自分自身もそうだな、と思う。どうして自分は彼女が浮気しているのに、自分は腹が立たないのだろうか、と。理解不能の不可思議な心の動きを、なぜだか、観客である僕らまでもが受け入れてしまい、でもそんな彼に同情するのではなく、どうしてこんなことになるのだろうか、と一緒に考えてしまう。

これはそんな映画なのだ。主人公の稲垣吾郎だけではなく、彼の周囲の人たちみんながそれぞれ抱えるどうしようもない心の不可思議なものを、それが何だかわからないまま、見守り続けることになる。それを安易に「心の闇」なんていう言葉にはできない。それはもっと明るくて空っぽで、よくわからないものだ。

ある女子高生作家の小説を読む。取材で彼女の記者会見に行く。映画はそこから始まる。その後、彼女に誘われるまま、彼女と一緒の時間を過ごす。ふつうそれってヤバくないか。でも、まるで下心なんかないまま、彼女と付き合う。彼女に振り回されているのに、それすら自覚はない。

妻の浮気を知り、でも何も言えないまま、穏やかに時が過ぎていく。知らないふりしているのではなく、気にならない自分が怖いと思っている。どうして心は揺れないのか。妻を愛していないのか。そんなわけはない。好きだから結婚した。心が冷めたわけではない。今でも彼女が大好きだ。なのに、嫉妬しない自分がいる。自分は人間としておかしいのではないか、とも思う。どこか壊れているのかもしれない。だが、それはどこなのか、わからない。離婚を決意するのも、なんとなく流されて、である。強い意志からではない。

さらには友人夫婦の問題に首を突っ込むことになるが、彼らは健全だ。友人は浮気している。彼の妻は彼を許せないけど、彼が好きだから女とは別れて自分のもとに戻って欲しい、と思う。幼い子供もいるし。そして、彼は戻ってくる。そこには修羅場があってもいい。それがふつうだから。そして、そこから傷つきながら進んでいく。でも、彼はそういうふうにはならなかった。だから、離婚する。でも、それでは何の解決にもならないことを自分自身が重々承知している。

昔好きだった女性がいた。でも彼女がいなくなった。心には空洞ができた。それが原因なのか? それならそれでわかりやすい。でも、そうじゃない。彼女のことはもう関係ないとわかっている。それを引きずることなく結婚したはずなのだ。漱石の『明暗』のほうがわかりやすい。

映画が描くのはこの不可解な彼の心情と、フラフラする彼と、彼の周囲にいる人たちとのやり取りだ。今泉監督は、それを距離を置いたままで静かに描いていく。明確な答えなんかどこにもない。いろんなことがよくわからないままだ。なのにそれがこんなにも興味深い。彼はフリーライターとして地味に仕事をしているが、実はたった1冊の作品を発表したままその後書かなくなった小説家だ。書けないのではない。書かない。彼が書いたならきっと凄い作品が書けるはずなのに。1冊で満足してしまったわけではないけど、書きたいことを書いたから、それでいいと思った。でも、編集者の妻はそれを自分のせいだと思う。有名な賞を受賞した女子高生作家と妻の浮気相手である売れっ子若手作家。このふたりの小説家に挟まれて書かない元小説家である彼は日々を浮遊する。

冒頭近くのシーンで「コーヒーの値段に200円ほどを足すとパフェが食べられる」と女子高生作家が言い二人分のパフェを注文する。ラストで再びいたずらでもするようにパフェを注文するシーンが描かれる。案の定そこ映画は終わるのだが、見事なくらい当然、なんの解決にもならない。


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