重松清の小説の映画化なのだが、とてもじゃないが、これはいつもの重松小説のテイストではない。ここにはまず荒井晴彦の脚本があり、彼の嫌らしいタッチに世界は染め上げられてある。優しくて元気になれる重松文学のストーリーは骨格として残ったが、それは荒井脚本によってまるで別次元に連れて行かれる。そしてさらにはそれが三島有起子監督の力でさらに別次元の時空へと投げ出される。結果、このルックからは想像もつかない映画になった。
家族のお話である。いつものように。見終えたなら(小説だから読み終えたなら、だけど)元気になれるのが重松作品のはずなのだ。でも、その取りあえずのハッピーエンドを信じ切れないほど複雑な心情にさせられる映画だ。作品は最初から最後まで主人公である父親(浅野忠信)の心情から離れない。
これは彼の1人称映画だ。浅野忠信が今までにない彼を見せる。耐えて耐えて耐え抜く。(本人としては、であるが)でも、彼が演じているからきっとどこかで爆発する、と不安に晒されることになる。この主人公はとても真面目でいい人なのだ。それだけに、それを彼が演じると怖い。嘘くさくなるのならまだ安心なのだ。でも、彼が演じると、とても上手いからリアルで、だからいつその決壊が崩れるか、気が気ではない。
その男は大手会社の係長で、エリートだ。真面目で仕事が終わると妻子の待つ郊外の住宅地にある家に直行する。しかも、お土産をちゃんと買って帰る。ふたりの子どもがいる。小6と、来年から1年生になる娘。妻が妊娠した。3人目が生まれることになる。だが、そのへんから少しずつおかしくなる。長女が反発する。会社の配置換え(管理職のリストラ)で倉庫番に飛ばされる。
再婚同士だった。ふたりの子どもは妻の連れ子で、自分とは血のつながりはない。血のつながった娘は前妻が引き取った。再婚から4年。今度こそ、幸せな家庭を作ろうと決心していたはず、だった。
これは勝手な男の話、でもある。自分だけが頑張っていると、思っている。そんなわけはない。みんなそれぞれ自分なりには頑張っているけど、上手くいかないのが現実なのだ。それをわかろうともしない。いや、わかっているから耐えている。そんな自分だけを偉いと思う。結局は思い遣ることは出来てない。エゴがぶつかり合うのではない。思い遣る心が、すれ違う。ちゃんと向き合えない。そんな家族の姿が、ドキュメンタリータッチで描かれる。16ミリフィルムで撮影したザラザラした質感の画像が、シネスコで描かれる。
みんなぎりぎりのところで気持ちを抑える。だから浅野も自分の感情を爆発させない。唯一前妻である寺島しのぶが彼に思いの丈をぶつけるのだが、いろんなことでパニックにある彼女を思い遣り、浅野はそこでも感情を出さない。なのに、「あなたは自分のことばかり。相手の気持ちを思いやれない」と言われる。
田中麗奈演じる妻が素晴らしい。今ある幸せなはずの家庭をなんとかして守ろうとしている。表面上は、受け身のずるい女なのかもしれない。だが、子どもたちのことを考え、夫のことも考え、生まれてくる子どものことも考えながら、バランスを保とうとする。こういうずるさはずるいとは言わない。彼女は逃げない。ここにしか自分の居場所はないし、ここが彼女の大事な場所なのだ。「もう別れよう。無理だ」という夫の言葉を簡単にスルーして、なかったことに出来る。そんなありきたりなつまらない台詞を聞く耳は持たないからだ。
映画は説明を一切しない。ただ目の前に事実をどんどん提示していく。その先に、答えを見いださない。でも、どんどん動いていく。なんとかしなくては、仕方ない。現実はそこにあり、逃げられない。家族はもう一度、再生するのか。わからない。赤ちゃんは無事に生まれてくる。だが、それが大団円ではない。子どもが生まれたことも、ただの事実に過ぎないのだ。それが答えではない。たとえそれが映画の終わりに提示されたとしても、現実はその先にある。そして、この映画の浅野は最後まで壊れない。