こんなん、ありえへんやん、と突っ込みどころ満載の映画なのだが、この圧倒的な静謐に突っ込みは不可能。あれよ、あれよと言う間に、どんどんお話に引き込まれていく。でも、いくら考えても、というか、考えないけど、ありえない。
本人たちもきっとそう思っている。悼む人である本人(高良健吾)が、ありえません、と言ってるし。こんな行為に何の意味もない。というか、意味ではない。ただ、彼が「悼ませてください」というのだ。そして祈りを捧げる。滑稽で愚かでバカバカしいと否定することなら誰にでも出来る。だが、問題はそんなことではない。あまりに不思議すぎて、ありえないし、だから、椎名詰平演じるルポライターは、彼を理解できない。だから、石田ゆり子演じる殺人を犯した女は、彼と行動を共にする。映画はただ、彼の行為を追っていくばかりだ。リアリティも説得力もないが、彼は静かに悼み続ける。
「悼む」とは、死んだ人に手を合わせて、その死んだ場所を訪れて、彼らが生きたことを自分の心に留めるという行為だ。変な宗教のようだが、そうではない。ただ純粋にその行いだけのために彼は旅を続ける。
こんな話を映画にする、という行為からしてありえない。当然観客は劇場にはいない。がらがらだ。でも、全国東映系での拡大ロードショーである。誰も見に来ないとわかっていて、でも、これだけのチェーンで展開する。自殺行為に思える。でも、平気だ。この映画の主人公同様。東映は凄すぎる。堤幸彦監督はいつもバカな映画を平気で撮るけど、真面目な映画もときどき作る。(『明日の記憶』はその成功例だ)でも、こんなにも強烈なことは、やったことはない。この映画は無謀だ。興行として成功するはずもない。その気もない。これはなんなんだ? 主人公と同じように、これはその存在自身が不思議な映画なのだ。
ただ、見ながらスクリーンに釘付けにさせる。有無を言わさない。役者たちの魂に演技に心撃たれる。何かが降りてきたようだ。やはり、これは宗教に似ている。だから、こんなにも心揺さぶられたにもかかわらず、素直に感動した、と言えない。そんなものを超越している。わけがわからない。
2時間18分の長尺だ。最初から最後まで同じトーンで貫かれている。一切ぶれることもない。確信を持って祈り続ける。
本人たちもきっとそう思っている。悼む人である本人(高良健吾)が、ありえません、と言ってるし。こんな行為に何の意味もない。というか、意味ではない。ただ、彼が「悼ませてください」というのだ。そして祈りを捧げる。滑稽で愚かでバカバカしいと否定することなら誰にでも出来る。だが、問題はそんなことではない。あまりに不思議すぎて、ありえないし、だから、椎名詰平演じるルポライターは、彼を理解できない。だから、石田ゆり子演じる殺人を犯した女は、彼と行動を共にする。映画はただ、彼の行為を追っていくばかりだ。リアリティも説得力もないが、彼は静かに悼み続ける。
「悼む」とは、死んだ人に手を合わせて、その死んだ場所を訪れて、彼らが生きたことを自分の心に留めるという行為だ。変な宗教のようだが、そうではない。ただ純粋にその行いだけのために彼は旅を続ける。
こんな話を映画にする、という行為からしてありえない。当然観客は劇場にはいない。がらがらだ。でも、全国東映系での拡大ロードショーである。誰も見に来ないとわかっていて、でも、これだけのチェーンで展開する。自殺行為に思える。でも、平気だ。この映画の主人公同様。東映は凄すぎる。堤幸彦監督はいつもバカな映画を平気で撮るけど、真面目な映画もときどき作る。(『明日の記憶』はその成功例だ)でも、こんなにも強烈なことは、やったことはない。この映画は無謀だ。興行として成功するはずもない。その気もない。これはなんなんだ? 主人公と同じように、これはその存在自身が不思議な映画なのだ。
ただ、見ながらスクリーンに釘付けにさせる。有無を言わさない。役者たちの魂に演技に心撃たれる。何かが降りてきたようだ。やはり、これは宗教に似ている。だから、こんなにも心揺さぶられたにもかかわらず、素直に感動した、と言えない。そんなものを超越している。わけがわからない。
2時間18分の長尺だ。最初から最後まで同じトーンで貫かれている。一切ぶれることもない。確信を持って祈り続ける。