竹内銃一郎、作、演出という金看板は僕たちの世代にとっては凄い威光だが、この芝居を見に来ている若い学生たちにとっては、「誰?その人?」って感じなのだろうか。劇場の客席を見渡すと、そこには20歳前後の劇団員の知り合いと思しき人たちばかりだ。普通の学生劇団の公演となんら変わりはない。竹内さんの新作が見れるのに、それがここまで日常の中に埋もれているってなんだか凄いことだ。
竹内さんが若い人たちと一緒になり、彼らの目線から芝居作りをするって画期的なことだと思う。ただ、今回の作品を見ていると、やはり役者の稚拙さが本来この戯曲の持つ力を殺いでしまっている、という印象を持たざる得ないのが惜しい。だが、竹内さんはそんなことあまり気にはしていないようだ。最初から完成度を度外視した作劇を試みている。プロの役者を使ったなら自分の意図通りの芝居を作ることなんか簡単な話だろう。だが、今はそういうものを望まない。彼らの拙さを反対に武器にして芝居というものと向き合いたいというのが、竹内さんのスタンスだ。だから、役者が微妙なニュアンスを伝えきれなくても気にしない。それ以上に大切にしていることは、彼らが持つ情熱を大事にすることだ。
主人公の高杉晋を演じた丑田拓麻さんがとてもいい。最初は嘘くさい芝居をするなぁ、と思って見ていたのだが、だんだんその朴訥とした生真面目さがこの芝居のカラーを形作る。下手であることが、本人の純粋さを際立たせ、そこからこの芝居の持ち味が生まれるのだ。
3つの場所、時間が交錯する。街の電気店のリビング。なんでもない風景のはずが、ここでやがてバラバラ殺人事件が起きる。事件の数日後の警察捜査本部。そして、10年前の小学校の教室。3つの場所のドラマが、やがてひとつになる、というよくあるパターンだ。
だが、なんだかぎこちない。まるで学生が書いた脚本のようだ。特に事件となるバラバラ殺人についてはあまり説得力がない。なぜ死ななければならなかったのか。さらにはバラバラにして処分するに至る動機も不充分だ。だから展開が唐突になる。主人公である伯父さんと姪であるすみれとの関係性も描き切れていない。10年間の中で何が変わり、世の中がどうなっていったのか。背景となる部分にもう少し目配りが欲しい。
問題はたくさんあるが、丑田くんの素朴な笑顔を起点にして、彼の優しさを信じることでこの芝居はあやういところで成立する。借金の取り立て屋手塚(大久保岳)が、あまりにお人よしの彼に同情するのもおもしろい。電気屋でのやり取りは面白いのに、それが事件となった時、充分な展開を作りきれていないのが残念だ。
竹内さんが若い人たちと一緒になり、彼らの目線から芝居作りをするって画期的なことだと思う。ただ、今回の作品を見ていると、やはり役者の稚拙さが本来この戯曲の持つ力を殺いでしまっている、という印象を持たざる得ないのが惜しい。だが、竹内さんはそんなことあまり気にはしていないようだ。最初から完成度を度外視した作劇を試みている。プロの役者を使ったなら自分の意図通りの芝居を作ることなんか簡単な話だろう。だが、今はそういうものを望まない。彼らの拙さを反対に武器にして芝居というものと向き合いたいというのが、竹内さんのスタンスだ。だから、役者が微妙なニュアンスを伝えきれなくても気にしない。それ以上に大切にしていることは、彼らが持つ情熱を大事にすることだ。
主人公の高杉晋を演じた丑田拓麻さんがとてもいい。最初は嘘くさい芝居をするなぁ、と思って見ていたのだが、だんだんその朴訥とした生真面目さがこの芝居のカラーを形作る。下手であることが、本人の純粋さを際立たせ、そこからこの芝居の持ち味が生まれるのだ。
3つの場所、時間が交錯する。街の電気店のリビング。なんでもない風景のはずが、ここでやがてバラバラ殺人事件が起きる。事件の数日後の警察捜査本部。そして、10年前の小学校の教室。3つの場所のドラマが、やがてひとつになる、というよくあるパターンだ。
だが、なんだかぎこちない。まるで学生が書いた脚本のようだ。特に事件となるバラバラ殺人についてはあまり説得力がない。なぜ死ななければならなかったのか。さらにはバラバラにして処分するに至る動機も不充分だ。だから展開が唐突になる。主人公である伯父さんと姪であるすみれとの関係性も描き切れていない。10年間の中で何が変わり、世の中がどうなっていったのか。背景となる部分にもう少し目配りが欲しい。
問題はたくさんあるが、丑田くんの素朴な笑顔を起点にして、彼の優しさを信じることでこの芝居はあやういところで成立する。借金の取り立て屋手塚(大久保岳)が、あまりにお人よしの彼に同情するのもおもしろい。電気屋でのやり取りは面白いのに、それが事件となった時、充分な展開を作りきれていないのが残念だ。