ホテルの一室が舞台となる。彼女はひとりでこの世界にいる。明日は一人芝居の初日。彼女は女優。夜、一人の部屋で、最後の稽古をする。オスカー・ワイルドの『サロメ』を下敷きにしたオリジナル作品のようだ。
明日の本番で、人を殺す。詐欺師の青年だ。彼女は彼の犠牲になっている。共謀するのはこの芝居の台本を書いたライター。女優と作家、相反するふたりを加藤さんは対照的に演じる。それは光と影を思わせる。演じていることと、目の前にある現実の時間。その現実と幻想。演じるという行為自体は、フィクションだが、演じる自分の存在はリアル。リアルな身体を持つ女優というフィクションが、芝居を演じることで、何を体現できるのか。さらには、ふたりの女を1人で演じることで、ひとりの人間の内面と表面をそこに示す。
45分というとても微妙な上演時間がいい。短編でも長編でもない。短編ではピンポイントの「場面」や「エピソード」しか描けないけど、長編になると、そこに「お話」を描いてしまう。そのあわいをこの作品は捉えたい。ダンスに近いくらいの動きを多用した舞台は、演出を担当した佐藤さんお得意のある種のパフォーマンス表現でもある。目の前の現実だけではなく、目には見えない内面をそこに表現する。
加藤明子という女優が体現する作品世界自体が1本の作品となる。台本自体は(脚本はレトルト内閣の三名刺繍)演出のやり方次第では30分くらいのものにすることも可能だ。それを引きのばして45分にした、わけではない。内面を体の動きによって表現し、セリフのはざまにある余白を大事にした。
一応、2人の女が共謀してひとりの男を殺害する、というドラマはある。しかし、それすらも現実なのか幻想なのかは定かではない。その曖昧な部分がこの作品のすべてで、それを役者である加藤明子が担う。エキセントリックで、テンション高い芝居がフィクションの高みへと、観客である我々を導く。この一歩間違えば嘘くさいものにしかならないような世界を、そうはならないギリギリのところで引き留める。匙加減が絶妙でそこを加藤さんは見事に演じきった。
明日の本番で、人を殺す。詐欺師の青年だ。彼女は彼の犠牲になっている。共謀するのはこの芝居の台本を書いたライター。女優と作家、相反するふたりを加藤さんは対照的に演じる。それは光と影を思わせる。演じていることと、目の前にある現実の時間。その現実と幻想。演じるという行為自体は、フィクションだが、演じる自分の存在はリアル。リアルな身体を持つ女優というフィクションが、芝居を演じることで、何を体現できるのか。さらには、ふたりの女を1人で演じることで、ひとりの人間の内面と表面をそこに示す。
45分というとても微妙な上演時間がいい。短編でも長編でもない。短編ではピンポイントの「場面」や「エピソード」しか描けないけど、長編になると、そこに「お話」を描いてしまう。そのあわいをこの作品は捉えたい。ダンスに近いくらいの動きを多用した舞台は、演出を担当した佐藤さんお得意のある種のパフォーマンス表現でもある。目の前の現実だけではなく、目には見えない内面をそこに表現する。
加藤明子という女優が体現する作品世界自体が1本の作品となる。台本自体は(脚本はレトルト内閣の三名刺繍)演出のやり方次第では30分くらいのものにすることも可能だ。それを引きのばして45分にした、わけではない。内面を体の動きによって表現し、セリフのはざまにある余白を大事にした。
一応、2人の女が共謀してひとりの男を殺害する、というドラマはある。しかし、それすらも現実なのか幻想なのかは定かではない。その曖昧な部分がこの作品のすべてで、それを役者である加藤明子が担う。エキセントリックで、テンション高い芝居がフィクションの高みへと、観客である我々を導く。この一歩間違えば嘘くさいものにしかならないような世界を、そうはならないギリギリのところで引き留める。匙加減が絶妙でそこを加藤さんは見事に演じきった。