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映画・演劇のレビュー

満月動物園『ツキノヒカリ』

2015-12-20 22:43:40 | 演劇

1年かけて上演してきた「死神シリーズ」の最終編だ。昨年12月、シリーズ第1作となる『ツキカゲノモリ』の再演から初めて3カ月単位で5本を連続上演するというとんでもない企画。しかも、最後の本作のみ新作で、これまで作り続けてきた4部作を振り返りつつ、最後に決着をつける。そして、本作がその最新作にして最終編となる。

この1年改めてこのシリーズを見てきて、この連作を通して戒田さんが目指したものが明確になるのだな、と思い知らされる。1本ずつでは見えなかったものが、はっきりしていく気がした。それぞれは独立した作品だが、いずれも同じパターン(もう頑ななまでに)で貫かれる。初演を見たとき、最初は連作とは意識しなかったから、また同じ芝居してる、とか、これなんだか以前見た気がする、とか、なんとも失礼なことを思ったほどだ。(それくらいにこれまでの戒田さんの作品はいつも既視感があったのだが)これだけストーリー性がある作品で、そこまで思うのはあんまりだ、と当時も思った。

でも、そこにこそ、彼がこの作品にかけた意図がある。死神と観覧車事故で大切なものを失った人間のドラマ。それだけを共通項として(と、いうか、それだけでもあまりに共有するものが大きすぎるけど)4つの視点から描かれた4本のお話は、同じことを繰り返す。それこそが使命だ、といわんばかりの行為だ。これとよく似たものを僕たちはよく知っている。言わずと知れた山田洋次監督、渥美清主演のなんと48作も続いた『男はつらいよ』だ。毎回マドンナが登場して、寅さんが恋をして失恋する。同じように、毎回ゲストの男性が登場して、死神とかかわり退場していく。お約束が大事なのではない。ルールの中で、どれだけ自由にいろいろなことが描けれるのか、そこが創作意図だ。戒田さんは、このお約束の中で、さまざまな実験を繰り返した。きっととても楽しかったはずだし、書くこと自体も楽しめたはずだ。

だからこそ、最後はもっと自由に楽しんで欲しかった。なのに、残念ながら失敗している。それはよくやることなのだが、「まとめ」に入ってしまったからだ。シリーズ最終作はいつもこれをして自滅する。映画もTVも、小説も、いつも同じだ。どうしてこうなるのかは、もう言わずと知れたことだろう。

今回のゲストは戎屋海老。なんとも渋い選択ではないか。彼がなんと観覧車の管理責任者を演じる。同時に、妻子をあの事故で亡くした被害者でもある。お話は最後になぜ、あの事故が起きたのか、事故当日の詳細な報告も含めて描かれていく。しかし、それはあまり必要ではない。必要なことは、海老さん演じる男の痛みだ。そして、それは過去4作の男たちと通じる。なのに、今回彼を主人公には設定できなかった。欲張ってしまったのだ。

もうひとり第1作で主役を演じたお話のスタート点となる片岡百萬両を再登場させてしまった。彼が悪いのではない。その結果、焦点がぼやけてしまう。海老さんは群衆に紛れてしまう。しかも、お話は今までのなぞ解きに終始する。というか、謎なんかもう十分説明されている。再確認なんかいらないはずなのに、1,2作目で描いた片岡演じた恋人を死なせた男の想いや、2作目で同じように恋人を死なせて西原希蓉美の想いが、海老さんにぶつけられる。でも、それはもう終わっている。

本作が描くことではないのだ。なのに、繰り返す。戒田さんは、物語の先を見せたかったはずだ。ふつうなら、終わってしまったお話の先にも人生はある。だが、「お話」はそこを観客に委ねる。なのに、おせっかいにも、それを自分でしてしまう。

この作品は描く必要のない後日談に終始した。そこが、失敗の理由だ。だが、新しいお話を提示できなかったのではない。敢えてしなかったのだ。そうすることで、彼らの中に残る死者に対する大切な想いを成仏させてみたいと願ったのかもしれない。そんな優しさが今回は徒になった。残念だけど、それが彼のこの作品への決着であるのなら、僕はそれはそれでいいとも思うのだが。

ここで言う「失敗」というのは「ダメ」ということではない。敢えて失敗に終ろうとも、自分が望んだことを試みることこそが大事なことだと信じる。これを踏まえて、さらに先へと進んで欲しい。


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