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映画・演劇のレビュー

桃園会『電波猿の夜』

2008-12-28 08:30:30 | 演劇
 働いていたハンバーガー店が潰れてしまい仕事を失った私(紀伊川淳)。舞台は大阪の南部にある安アパート。7畳半、一間の部屋。二段ベットを置いた部屋で男がふたりで暮らしている。同僚の疋田さん(亀川寿行)の趣味はプランターを置くこと。部屋の中はまるでジャングルのようになっている。部屋には二匹のやもりがいる。

 ある日、日本を離れ遠い南の国(インドネシア)で暮らしているらしい兄から手紙が届く。お金の無心のハガキだ。私はいつの間にか、兄が暮らすデンパザールの安アパートにいる。だが、その部屋には兄は不在だ。兄の奥さんと名乗る現地の女が現れ、彼を兄と見間違える。

 大阪のみすぼらしいアパートとインドネシアの同じような安アパートが交錯する。2つの遠く離れた別々の場所が、意識の混濁の中、このひとつの空間を行き来する。彼はここに居ながら気付くと遠い南の国にいる。そこに居るはずの兄と入れ替わりそこでの時間を過ごす。単純に妄想の中で南の国の夢を見る、と考えたほうが分かり易い。だが、そんな簡単なことではない。

 現実の空間であるこの部屋に居ても彼は妄想の所産であるいもりの女たちが見えるし、彼女たちとも話する。モミジさんと名前さえつけている。プランターを部屋中に入れた空間は日本ではなく、南の国に見える。現実と妄想の垣根は既に外されている。彼は2つの場所に居るのではなく、もうどこにもいない、というほうが正しい。空間のみならず、時間も交錯していく。ここは疋田さんと暮らす部屋だが、彼はいたりいなかったりする。彼の恋人さん(はたもとようこ)と一緒に、いなくなった疋田さんのことを考える。引田さんと兄のイメージが重なる。

 さらにはわけのわからない観葉植物の鑑定士とか、大家さん、そしてミナミさんという友人など、様々な人たちがここにやってくる。それは南の国の部屋でも同じだ。だが、現実にはここには誰もいない、のだろう。

 深津さんお得意のドラマ展開である。『黒子な私』の頃から2つの空間が意識の中で交錯するという作りはよくやってきたし、『のたりのたり』はベットの上から降りない芝居だった。かっての彼の作品からイメージを継承しながらも、決定的に違うのはテイストの軽さだ。それは佃典彦さんの台本によって演出させた前作『お顔』のイメージに近い。あの作品は他者の書き下ろしの台本による初めての本公演だったのだが、いつも難解と言われた桃園会の作品としては画期的な明快さに貫かれたものだった。今回いつもの深津作品なのだが、分かりやすいという印象を与えるのは前作にのイメージを踏襲した作り方がなされたからだろう。登場人物がすべてペアになっているのも前作に似ている。

 主人公である私は内向していくのではなく、目の前に起こる冗談のような現実を距離を置いてまるで人事のように見ている。彼の意識は鬱屈していくのではなく、客観的に冷静な目で見つめられている。この芝居に対する主人公の距離の取り方は前作のスタンスと同じだ。この深津作品は、自分と自分の作品に対する第3者の視点を確立することで、桃園会作品としてはとても見やすいものになった。それは深津さん自身の心境の変化なのか、それとも彼が意図的にスタイルを変えただけなのか、まだこの作品1本からでは判断は出来ないが、とても興味深い。

 ただ、はっきりしていることは、深津さんの中で起きているこの変化は芝居の方向性を大きく変えていく予感を内包しているという事実だ。今後これがどんな変容を遂げていくのか。とても楽しみだ。

 オーデションで選んだ5人が作品の中に入ることで彼らの持つ異物感が作品に大きな影響を与えていることが、この作品の微妙な色合いに深く影響していることも忘れてはならない。特にオーデション組だけで演じさせた合いびき肉の精霊たちのシーンは従来の桃園会カラーからひどく逸脱した印象が突出して見える。他の3人は劇団員とペアを組ませた中、この2人だけは意図的にそうしない。

 そして二段ベッドの上から絶対に降りてこないこの2人が、私の心をかき回し破壊していく。心地よく自閉した暗い空間にできた明るい突破口のようなものをこの2人が担う。ここで自閉したまま朽ちていこうとする私を、遠くに連れていってくれるのは、兄からの手紙ではなく、実はこの子たちだったのだ。

 

 

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