何かが起きそうで、結局何も起きないまま、というこのなんともいいようもないもどかしさが、最初はとても気味が悪かった。なんでもない話だし、特別何かが起きるとは思わないが、それにしても当たり障りない話が続き、居心地悪い。だが、だんだんそれが何とも言いようのない快感に変わってくる。同じ場所、同じ人たち、同じ日。でも、時間は確実に過ぎていく。次の1年、またさらに次の1年と、時は経つ。そんな中で彼らを巡る状況もほんの少し変わっている。確かに微妙に変わっているが、その変わり方と変わらなさが紙一重のものとして映る。そのことが、この数年間の時の流れの中で明確に感じられた時、生きていくことのどうしようもなさと、残酷さが露呈する。
プロデュース企画である前作『エダニク』の脚本でシュールと背中合わせの現実を見事に切り取った横山拓也さんが自分の劇団に戻って放つ最新作は『エダニク』の延長線上にあるコメディーである。(一応これを分類上コメディーとしておく。それはアプローチの問題でしかないし、厳密にはそんなふうに簡単には割り切れないのだが)ありきたりな日常の中にも、同じようにグロテスクなものがある。どこにでのある普通の人々の営みをとても静かなタッチで描きながら、そんな瞬間をかいま見せてくれる。くりかえしが人生というひとつのリズムを刻む。その狭間に見え隠れするものを描く。
そんな大袈裟なことではない、と言ってもいい。ここになんとなく集うことになる人たちのそれぞれの結果としては1年の中に埋もれてしまうことになる特別な1日が、いくつか積み重なっていくことで見えてくるもの、それこそが今、横山さんが見せたかったものであろう。定点観測で、彼らを追うと言っても、特別なことは何もない。セットを変えない芝居ってほとんどが定点観測となるし。だが、同じ地点から見る3年間の同じ日の3つのドラマは時間の移ろいがとても不自然で、この夜、この場所で、偶然にもあまりに都合よく同じ人たちが集まりすぎるし、同じ日がいつの間にか次の年の同じ日になっていたりして、3年の境界線は故意に曖昧なものとされている。そうすることで、現実のはずなのに、夢の中の出来事のような違和感を抱かせる。作為的な混乱を誘うようなこのドラマの作り方は一見下手なだけのように見せておいて、時空のゆがみを作品のスパイスにして、単なるホームドラマのように見せかけて、非日常の隕石が落ちてきた夜が、日常の中に埋もれていく様を通して、ありふれた人の営みをこんなにも愛しいものとして描き取ることに成功した。
プロデュース企画である前作『エダニク』の脚本でシュールと背中合わせの現実を見事に切り取った横山拓也さんが自分の劇団に戻って放つ最新作は『エダニク』の延長線上にあるコメディーである。(一応これを分類上コメディーとしておく。それはアプローチの問題でしかないし、厳密にはそんなふうに簡単には割り切れないのだが)ありきたりな日常の中にも、同じようにグロテスクなものがある。どこにでのある普通の人々の営みをとても静かなタッチで描きながら、そんな瞬間をかいま見せてくれる。くりかえしが人生というひとつのリズムを刻む。その狭間に見え隠れするものを描く。
そんな大袈裟なことではない、と言ってもいい。ここになんとなく集うことになる人たちのそれぞれの結果としては1年の中に埋もれてしまうことになる特別な1日が、いくつか積み重なっていくことで見えてくるもの、それこそが今、横山さんが見せたかったものであろう。定点観測で、彼らを追うと言っても、特別なことは何もない。セットを変えない芝居ってほとんどが定点観測となるし。だが、同じ地点から見る3年間の同じ日の3つのドラマは時間の移ろいがとても不自然で、この夜、この場所で、偶然にもあまりに都合よく同じ人たちが集まりすぎるし、同じ日がいつの間にか次の年の同じ日になっていたりして、3年の境界線は故意に曖昧なものとされている。そうすることで、現実のはずなのに、夢の中の出来事のような違和感を抱かせる。作為的な混乱を誘うようなこのドラマの作り方は一見下手なだけのように見せておいて、時空のゆがみを作品のスパイスにして、単なるホームドラマのように見せかけて、非日常の隕石が落ちてきた夜が、日常の中に埋もれていく様を通して、ありふれた人の営みをこんなにも愛しいものとして描き取ることに成功した。