これも再演である。最近再演を見ることがやけに多くないか、と自問する。というか、多い。別に好き好んで、ではない。僕が見ているそれぞれのカンパニーが、そうするからだ。新作が書けないから、なんていうのではない。(はずだ)それどころか、再演を通して進化している。そうじゃなければ、再演をする意味はない。笠井友仁さんの『桜姫』は、再演ではなく、新作と謳う。前回は鶴屋南北の『桜姫東文章』であり、今回は、その世界を大阪に置き換えて、『長柄橋の人柱伝説』を掛け合わせたから、と。チラシやパンフには書かれてある。タイトルも『櫻姫』から『桜姫』へと変更された。
だが、変化はそれだけではないことは、明確だ。驚くのはこの作品がお話の骨格をなぞりながらも、そこにポイントを置いていないことだ。ストーリーを楽しむ作品にはならない。そこに戸惑う。もちろん、僕たちは最初からお話を知っているから、そんなことは気にならないけど、初めてこの世界に触れた人は、どう思っただろうか。僕なんかよりも、もっと戸惑ったか、それとも、新鮮なお話として、このドラマを芝居から受け止められたか。もしかしたら、おいてけぼりにされた人もいたのではないか、といらぬ心配すらしてしまう。というか、他ならぬ僕はちょっとおいてけぼりにされた気分だったのだ。あるひとつの物語世界が異化していく。その変貌の過程を笠井さんは楽々とこなす。
僕はこの作品を見ながら、なんだか、不安にさせられた。でも、どうにか、最後までゆっくりと楽しめたけど。笠井さんの自信に引っ張られて、最後まで、ついていく。ここで大事なことはストーリーではない。では、何か。制作意図はパンフに詳しい。チラシにもよく似たことが書かれてあったはずだ。
あえて「大阪」を舞台にした。この土地の成り立ちとシンクロさせて、この物語を作り上げる。しかし、そのことで、ことさら何かを仕掛けるわけではない。それどころか、オリジナルのお話をどんどん薄めていく。『桜姫』のお話ってなんだったのだろうか、と、思わず、思い返してしまうほどだ。それくらいに物語の輪郭を失わせてしまう。こんなふうにするくらいなら、別にこれが桜姫である必要なんかないじゃないか、とクレームをつけたくなるくらいだ。
スタイリッシュな舞台で、シンプルで無駄を排した空間。お話の骨格だけが残る。いや、それすら曖昧にするくらいだ。東から西へと幾つもの川が流れる大阪という地。その流れを堰き止める人柱伝説。中州で幻のような時を過ごす。
すべては夢なのではないか。愛しい女を守るため、彼女と添い遂げるため。しかし、それが今では、愛も冷めて、女をモノとして扱う。お金でやり取りする。簡単に売り払う。それって、何だ?
流れゆく時の中で、人が何を思い、どこに向かうのか。生きていくことの意味はどこにあるのか。いろんなことを考えさせてくれる。これはそんな作品だ。前作『アラビアの夜』もそうだった。ひとつのテキストを使い、思いもしないものを提示してくる。それが笠井さんのやり方だ。しかも、それはサラリとしてしまう。僕たちはただ驚くしかない。上演時間は1時間30分ほど。初演は3時間の大作だった。