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見始めてすぐ、気分が悪くなってきた。この芝居の描く世界は僕のふだんの日々と地続きだからだ。学校へ行くことが苦痛になっている僕の今の現実を芝居でまで再現されてはかなわない。吐き気がする。もちろん、それは大袈裟だけど。
それにしても、この芝居が描く学校現場はとてもリアルでしんどい。この芝居に登場する先生達は疲弊している。こんなことが続くと、いつの間にか学校が苦痛になってくることだろう。この芝居が突きつけてくるのはそんな彼らの未来だ。僕が働く今の職場もこの芝居の学校と同じで、とても真面目で子どもたちのことを考え一生懸命な先生たちばかりで、すばらしい。そこに混じって、いいかげんで、適当な仕事をしている自分は浮いている気がする。ただ、それを自分の無力さのなせる技だというつもりはない。今の学校には余裕がなくなってきているのだ。この芝居が描くのもそこだろう。教師たちは疲弊している。子どもを巡る状況もよくない。そんなことはわかっているけど、そのしわ寄せを教師側に持ってくるのは、まずい。
地震があった日の学校が舞台だ。生徒不在の学校という不気味な空間を描き、それも近未来の学校を予見させる.象徴としての「それ」が現実になる恐怖。
休校措置を取ったが、教員たちには登校してくる義務がある。生徒のいない学校でのさまざまな出来事や、やり取りが描かれていく。いつもとちがう一日。だけど、いつもと同じように忙しい。教頭から「今日は早く帰って下さい」と言われていたのに、気づくと勤務時間はとっくに過ぎていつもと同じでもう夜になっている。
支援学校の教員休息室を舞台にした。職員室に敢えてしなかったのは、休息室にいても、常に仕事がつきまとうことを描きたかったのだろう。重いテーマを丁寧に見せることで、作、演出の中村ケンシは教育現場が抱える問題をわかりやすく、リアルに捉えていく。そこから今我々に必要なものは何なのかを突きつける。ただ、見ていてあまりにつらいし、ここからどこへ向かえばいいのかが見えてこない。出口のない芝居になっている。それが現実なのだろうけど、それだけでは物足りない。
この芝居を通して、これから学校がどうなって行くのかを考えたい、それが作者のねらいなのだ。必要なのは、「そこ」が楽しめる場になることだ。教師も生徒も、そこにいれば、幸せで、辛いことも乗り越えられる。そんなユートピアがそこに出来ることが理想だろう。この芝居が惜しいのは、現実の向こうにあるそんなユートピアへの可能性が提示しきれなかったところにある。