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この芝居を語るのは難しい。どこからどう説明したらわかりやすいのか、よくわからない。というか、解説が困難な作品なのだ。それはお話が難しいというのではない。きちんと理路整然としてある気もする。だいたい岩崎さんはロジカルな人だから、安易な妄想や幻想なんかで逃げない。それだけに今回の作品は余計に混乱するのだ。正攻法でこれに挑んだ末、その混沌を引き受けることとなった。樋口さんは感性の人だから、気持ちの赴くまま暴走していくこともままある。その観念的な作風はいかようにも解釈が可能だ。だが、彼女もまたそこに逃げないから、本当はとてもロジカルだ。読み込む可能性があまりにたくさんあり、収拾がつかない、というのが本音である。だから、僕も思いつくまま、書こう、と思う。(でも、僕がそうすることは、彼らと違い、この作品から逃げているだけだが。)
佐々木淳子さんの演じる木彫アーティストのテンションの高さが作品の要だ。いきなり彼女が湯船の中からやってきて、そのまま居座り、この家で棲み始めることで、この作品の流れを作る。迷惑そうな工藤さん演じる男は、彼女に巻き込まれていく。この2人が実は主人公である。始まりから1時間(芝居は1時間20分なのに)登場すらしない本当の主人公である青年(堀江勇気)の両親だ。これはいなくなった母親と、死んでしまった父親の葬儀見守る青年の話なのだ。でも、そうは見えないところが問題なのだが。なぜ、そうなったのかは、難しい話だ。
それにしても、いろんな意味でなんかしっくりこない。とてもおもしろい芝居なのだが、わだかまりのようなものが残る。それは演出と台本の間に生じた齟齬かもしれない。樋口ミユさんの描く世界を、演出の岩崎正裕の視点から立ちあげていく過程で両者の差異が作品世界をとても不安定なものとする。それは見る前から危惧していたことだが、この落ち着きのなさは、見ていてとても気味が悪い。存在しない娘の側から作られたドラマをそこに存在する父親の側から見せてしまうからこんなことになるのだ。舞台上手には浴槽があり、そこからさまざまな人たちが出て来る。そこがこのドラマの中心となる。
女の側から見た男、しかも父親の姿というものを、父親世代である岩崎さんが演出し、同世代の工藤俊作さんが演じる。あくまでも見られる存在であったはずのこの主人公が、演出により、彼の視点から描かれることで、主観の混乱が生じる。視点の混乱が作品自体に反映したのだ。岩崎さん本人の生演奏によるギターが援護射撃する。岩崎さんは選曲も含めて音楽という切り口から、この台本の描く不条理に切り込む。しかし、それが更なる混乱を招く。
セーラー服を着た中年男グロテスク(でも、工藤さんはとてもチャーミングなのだが)が、際立たないのは、それをまるでファンタジーのように描いてしまったからだ。だがこれは「不思議の国に迷い込んだかわいいおじさんの旅」ではない。
これは父の死と向き合いきれない息子の物語であるはずなのに、終盤になってようやく登場する息子の存在が、それまでの劇をひっくり返していくだけのインパクトがない。これでは、やはりこれは最後まで父の物語でしかなくなるのだ。だが、それは違う気がする。これは本来「死んでしまった父と向き合う旅」のはずだ。だが、そうはならない。
いるはずのない生まれなかった、存在しない娘を捜すため、父はセーラー服を着用する。だが、彼が捜すのは息子であり、死んでしまったのは中年男の父親ではなく、自分自身だったのだ。だからこれはやはり父を失った息子の話。
いなくなった母親は木の人形を赤ん坊として抱いていた。あの木片は息子である。木の人形アーティストである無関係の女が抱いていたのは彼自身だったのだ。
いるはずのない娘を捜すためセーラー服に身を包んで街頭に立つ父と、木の人形アーティストである無関係の女が並ぶ。ふたりはまるで見知らぬ他人のはずなのだが、2人はまるで父と母のように見える。母親の不在。自分の血を継ぐ存在のいない不安。だが、これは父を失い一人ぼっちになった男が見た夢だ。tお、書きつつも、なんか収まりが悪い。
久々に刺激的な芝居を見た気がする。もっともっと書きたいことはあるけど、どこまでいってもとめどないから、今回はこのへんで終わる。
佐々木淳子さんの演じる木彫アーティストのテンションの高さが作品の要だ。いきなり彼女が湯船の中からやってきて、そのまま居座り、この家で棲み始めることで、この作品の流れを作る。迷惑そうな工藤さん演じる男は、彼女に巻き込まれていく。この2人が実は主人公である。始まりから1時間(芝居は1時間20分なのに)登場すらしない本当の主人公である青年(堀江勇気)の両親だ。これはいなくなった母親と、死んでしまった父親の葬儀見守る青年の話なのだ。でも、そうは見えないところが問題なのだが。なぜ、そうなったのかは、難しい話だ。
それにしても、いろんな意味でなんかしっくりこない。とてもおもしろい芝居なのだが、わだかまりのようなものが残る。それは演出と台本の間に生じた齟齬かもしれない。樋口ミユさんの描く世界を、演出の岩崎正裕の視点から立ちあげていく過程で両者の差異が作品世界をとても不安定なものとする。それは見る前から危惧していたことだが、この落ち着きのなさは、見ていてとても気味が悪い。存在しない娘の側から作られたドラマをそこに存在する父親の側から見せてしまうからこんなことになるのだ。舞台上手には浴槽があり、そこからさまざまな人たちが出て来る。そこがこのドラマの中心となる。
女の側から見た男、しかも父親の姿というものを、父親世代である岩崎さんが演出し、同世代の工藤俊作さんが演じる。あくまでも見られる存在であったはずのこの主人公が、演出により、彼の視点から描かれることで、主観の混乱が生じる。視点の混乱が作品自体に反映したのだ。岩崎さん本人の生演奏によるギターが援護射撃する。岩崎さんは選曲も含めて音楽という切り口から、この台本の描く不条理に切り込む。しかし、それが更なる混乱を招く。
セーラー服を着た中年男グロテスク(でも、工藤さんはとてもチャーミングなのだが)が、際立たないのは、それをまるでファンタジーのように描いてしまったからだ。だがこれは「不思議の国に迷い込んだかわいいおじさんの旅」ではない。
これは父の死と向き合いきれない息子の物語であるはずなのに、終盤になってようやく登場する息子の存在が、それまでの劇をひっくり返していくだけのインパクトがない。これでは、やはりこれは最後まで父の物語でしかなくなるのだ。だが、それは違う気がする。これは本来「死んでしまった父と向き合う旅」のはずだ。だが、そうはならない。
いるはずのない生まれなかった、存在しない娘を捜すため、父はセーラー服を着用する。だが、彼が捜すのは息子であり、死んでしまったのは中年男の父親ではなく、自分自身だったのだ。だからこれはやはり父を失った息子の話。
いなくなった母親は木の人形を赤ん坊として抱いていた。あの木片は息子である。木の人形アーティストである無関係の女が抱いていたのは彼自身だったのだ。
いるはずのない娘を捜すためセーラー服に身を包んで街頭に立つ父と、木の人形アーティストである無関係の女が並ぶ。ふたりはまるで見知らぬ他人のはずなのだが、2人はまるで父と母のように見える。母親の不在。自分の血を継ぐ存在のいない不安。だが、これは父を失い一人ぼっちになった男が見た夢だ。tお、書きつつも、なんか収まりが悪い。
久々に刺激的な芝居を見た気がする。もっともっと書きたいことはあるけど、どこまでいってもとめどないから、今回はこのへんで終わる。