『秒速5センチメートル』の新海誠監督作品。彼の作品だというだけで期待出来る。それくらいに『秒速5センチメートル』は凄かったということだ。今回は多分に宮崎アニメを意識したらしいが、彼にはわが道を行ってもらいたい。これは『天空の城 ラピュタ』へのオマージュらしい。確かに意図するところはわかるのだが、やはりまるで別物だ。宮崎アニメの最高傑作のひとつでもある『ラピュタ』への新海監督からの挑戦状と考えた方が面白い。もちろん勝ち負けでなら残念だが、充分に負けている。相手が悪すぎた。でも、新海監督らしさは随所に見られる。これはこれで悪くはない映画だ。
とくに前半の日常描写がいい。そこが彼の持ち味で、それがファンタジーになると、あまり上手く機能しない。今回も、地下世界に行ってからが本当なら腕の見せ所になるはずなのに、それほどには弾まない。驚きがない。というか、彼の作品に驚きはいらないのだ。独自の世界観を展開するとか、あまり関係ない。そんなことより、自然の美しさを、さりげない描写で提示するとか、そういうのが、彼らしいのだ。だから、『秒速5センチメートル』があんなにも感動的だったのだ。あそこには、特別なものは何もない。ありふれた風景があんなに僕たちを感動させる。今回も田舎の風景のさりげなさが胸に沁みてくる。学校や村の風景、山の自然。なんでもないそれらが、なんだかとても素敵なものに映る。主人公の少女は、とてもいい子で、でも、今の自分に満たされていない。遠くの声を聞くために、ひとり山の上に登り、何かを求めている。それがある日明確な形を持って現れる。偶然出会った青年に命を助けられ、彼に心魅かれる。だが、彼が死んでしまったという事実を知らされる。
地底にある世界に行き、死者をよみがえらせること。それは彼女の望みではない。死んでしまった彼と、もう一度逢いたい、気持はある。だが、よみがえらせたいわけではない。そう望むのは、同行することになる彼女の学校の先生だ。2人は地下世界への旅に出る。彼らはそこでさまざまな苦難に遭い、ようやく目的を果たすことになるのだが、それは少女の死と引き換えだ。先生は自らの片目を失い、さらには少女の体を魔物に預けることとなる。そこまでして、死者をよみがえらせることに何の意味があるのか?死んだ先生の妻は、少女の体を借りて、帰ってくる。でも、それは少女の死を意味する。もちろん先生もそんなことを望んだわけではない。
そして、彼らの旅はそこで終わりを告げる。本当に必要なものは、結果ではない。そんなふうにしてたどった道程の中にある。おきまりのラストだ。でも、ほっとする。どこにいったか、ではなく、何をしたのか、である。そういう意味では、大切なことはこの日常の中にも十分にあるというふうにも言える。
少女は日常に戻ってくる。以前と何ひとつ変わることはない生活だ。でも、それでいい。あの冒険が教えてくれたものは確かに彼女の心のなかにあるのだから。何か凄いことを成し遂げようとは思わない。これから何があろうとも、それはきっと自分の心の中にあるほんのささいなことと同じことだ。何事にも動じないし、何事をも疎かにしない。大きなことも、ささいなことも、要は自分の受け止め方次第で、イコールにも、逆転すら、ある。大切なことは自分の満足感であり、穏やかな心で、今目の前にあるものと向き合っていく姿勢なのだと思う。そういう意味でも、この映画の地下世界よりも現実世界の風景のほうがずっとキラキラしていることは、実はとても大事なことなのだ。
とくに前半の日常描写がいい。そこが彼の持ち味で、それがファンタジーになると、あまり上手く機能しない。今回も、地下世界に行ってからが本当なら腕の見せ所になるはずなのに、それほどには弾まない。驚きがない。というか、彼の作品に驚きはいらないのだ。独自の世界観を展開するとか、あまり関係ない。そんなことより、自然の美しさを、さりげない描写で提示するとか、そういうのが、彼らしいのだ。だから、『秒速5センチメートル』があんなにも感動的だったのだ。あそこには、特別なものは何もない。ありふれた風景があんなに僕たちを感動させる。今回も田舎の風景のさりげなさが胸に沁みてくる。学校や村の風景、山の自然。なんでもないそれらが、なんだかとても素敵なものに映る。主人公の少女は、とてもいい子で、でも、今の自分に満たされていない。遠くの声を聞くために、ひとり山の上に登り、何かを求めている。それがある日明確な形を持って現れる。偶然出会った青年に命を助けられ、彼に心魅かれる。だが、彼が死んでしまったという事実を知らされる。
地底にある世界に行き、死者をよみがえらせること。それは彼女の望みではない。死んでしまった彼と、もう一度逢いたい、気持はある。だが、よみがえらせたいわけではない。そう望むのは、同行することになる彼女の学校の先生だ。2人は地下世界への旅に出る。彼らはそこでさまざまな苦難に遭い、ようやく目的を果たすことになるのだが、それは少女の死と引き換えだ。先生は自らの片目を失い、さらには少女の体を魔物に預けることとなる。そこまでして、死者をよみがえらせることに何の意味があるのか?死んだ先生の妻は、少女の体を借りて、帰ってくる。でも、それは少女の死を意味する。もちろん先生もそんなことを望んだわけではない。
そして、彼らの旅はそこで終わりを告げる。本当に必要なものは、結果ではない。そんなふうにしてたどった道程の中にある。おきまりのラストだ。でも、ほっとする。どこにいったか、ではなく、何をしたのか、である。そういう意味では、大切なことはこの日常の中にも十分にあるというふうにも言える。
少女は日常に戻ってくる。以前と何ひとつ変わることはない生活だ。でも、それでいい。あの冒険が教えてくれたものは確かに彼女の心のなかにあるのだから。何か凄いことを成し遂げようとは思わない。これから何があろうとも、それはきっと自分の心の中にあるほんのささいなことと同じことだ。何事にも動じないし、何事をも疎かにしない。大きなことも、ささいなことも、要は自分の受け止め方次第で、イコールにも、逆転すら、ある。大切なことは自分の満足感であり、穏やかな心で、今目の前にあるものと向き合っていく姿勢なのだと思う。そういう意味でも、この映画の地下世界よりも現実世界の風景のほうがずっとキラキラしていることは、実はとても大事なことなのだ。