17年の歳月を経て、ようやくの再演である。今までも何度となくアプローチはなされてきたのだが、初演のビルの屋上での上演を踏襲する、という縛りから実現は困難を極めた。別に劇場で上演してもいいのだけど、くじら企画は初演の「野外、屋上」という特別な空間に拘った。そこは譲れない。だから、今の現状では、もう出来ない。それだけの話だ。
だが、今回「くじら企画」としてではなく、くじらstaff presents!として、再演に踏み切った。照明の林鈴美さんが企画して実現したものらしい。オリジナルキャスト2名を含む計7人の役者たちが集められた。しかし、何よりも気になるのは、演出としてMayの金哲義が招集されたことだ。まるで想像もつかないところから、凄いものが出てきた、って感じで、最初にそのことを知ったときには、感嘆した。「そうくるか!」という驚きだ。やる以上は安易なことはしないというプロデューサーの覚悟のほどがうかがわれる。Mayでは自分の出自に拘る私小説的な作品(それはスケールの大きな大河ドラマにまで昇華させられ、さらには今、その先へと歩みを進めている)を作り続けてきた彼が、大竹野正典作品にどう挑むか。
実は僕はこう思う。どんなアプローチでもいい、と。彼がやることなら絶対に間違いではないし、今までの大竹野作品とはまるで違うモノを見せてくれるはず、そう信じて(というか、確信して、だが)劇場に向かう。まぁ、そんな大袈裟なモノではない。きっと、面白い芝居に出会うことができる。
スタッフの意気込みが感じられる。くじらstaff のみんながこの作品を楽しみにした。だから、全力でサポートした。そんな意気込みが劇場の飾り付けや、空間設計にまで漲る。客席には桟敷も作った。そんな小さなこともうれしい。
さて、ようやく芝居である。
まず、その舞台美術に感心した。屋上で出来ないのなら、屋上をそこに作ろうではないか、という当たり前の想いがそこにはある。オリジナルの空間を模した。高く上げるのではなく、低いところに設定し、高さを強調した。この芝居は、屋上から空気銃で下を歩く人を撃つという遊びから始まる作品だ。その見下ろす感じがちゃんと出ないことには意味がない。フェンスが効果的だ。そして、屋上のさらに上に登ること。さりげない空間だけど、広くないけど、狭くもない。雑居ビルのガランとした空間、雑然とした屋上という雰囲気が再現された。アクティングエリアは充分にあるのもいい。
前半は掛け合いで笑わせる。バカな男たちの、ちんけな計画の、間抜けな失敗。オリジナルのテイストを踏襲する。7人の個性的な役者たちに自由に芝居をさせる。それぞれが上手いからそれだけで、楽しい。演出は何もしなくても構わないくらいだろう。彼らに任せておけばちゃんと芝居を作ってくれる。
では、金哲義は何をしたのか。そうなのだ。今回の芝居の一番のポイントはそこに尽きる。大竹野作品に彼が挑戦する、ではなく、彼がこの素材を通して何をしようとしたのか。僕が見たかったのは、その一点だけ、だ。だから、前半は少しイライラしていた。こういうのが見たいんじゃない、なんて心の中でつぶやいていたくらいだ。とても面白く作られてあるけど、金哲義の職人的ウェルメイドなんか求めない。
だから快哉を叫んだのはその終盤の展開である。彼らが疑心暗鬼になり、その共同体が崩壊していく部分から、再起に至るドラマが、オリジナルの「楽しい」から、その先に向かう部分に興奮した。2000年に上演されたこの作品は幾分ノスタルジックな芝居だった。それはブランク・セブンティーンの憂鬱を秘めていたからだ。その底には、70年安保を引きずるドラマが、今の気分へと引き継がれていく。金哲義は、よど号ハイジャック事件から、グリコ事件へとつながるものを大事にした。彼らをただの愉快犯から、この国を揺さぶるテロリストに仕立てようとしたのだ。市民革命は日本では成功しない。だが、ひとりひとりがこの世界に対して不満を抱き、それぞれのやり方で抵抗を試みたならどうなるのか、そんな問いかけを仕掛ける。謎の男であるカッパ(秋月雁)の正体に迫るラストがまるでオリジナルの大竹野作品とは違う。しかも、彼と警察官であるイナリ(村尾オサム)が手を組むんでこの国の転覆を謀るというとんでもない展開へとつなぐ。彼らを含む「7人」という数字もわかりやすい。彼らは黒澤の『七人の侍』を擬す。秋月雁は志村喬だったのだ。そうわかった瞬間、「金哲義にやられたよ」、と自然と笑みが浮かぶ。これはちゃんと今、見るべき芝居になった。