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今まで以上に作、演出の中山治雄さんは、自分の表現を徹底させていく。役者たちにはわざと平板な芝居を強いる。それは感情的にならない、というわけではない。ミステリ仕立てのお話の中、役者たちは置かれた状況の中、感情をむき出しにする場面も多々ある。だが、そんな場面も含めて、芝居をフラットなままに流すのだ。
だいたい今回のような象徴的なドラマは助けとなるものが、ほとんどないから自分の身体だけで状況や感情、さらには物語自体まで紡いでいかなくてはならない。(舞台背後に設置された「(時の)歯車と(天国への)階段」というあからさまな舞台美術は、当然役者の助けにはならない。)なのに、メリハリを欠いた平板さを強要されてしまうから役者たちは戸惑う。しかも、ベテランで演技の引き出しがたくさんあるような役者ならいざ知らず、どちらかというとまだ経験の浅い人たちにそれをさせるのだから彼らは困ったのではないか。ほとんど彼らは棒立ち、棒読みで、この空間の中に放り出されることになる。これは観客にとってもかなり厳しいことだ。
どことも知れない場所にある医療施設に、ある時から収容され、リハビリに励む人たち。彼らはグループに分かれて、他の集団とは隔離されているようだ。自らの内にある隠された感情を周囲のメンバーに伝えることで治療がなされてゆき、いつの日にかここから退院できる、らしい。そんな彼らの繰り返される毎日が静かに淡々としたタッチで綴られていく。ミステリ風のストーリーなのに、謎の解明に向かってドラマが展開していくわけではない。ただ、漠然と繰り返される時間が緩やかに描かれるだけだ。
中山さんは丁寧にここでの日々を見せることのみに集中する。だから、ラストでの謎解き部分も単なるオマケでしかない。繰り返される僕たちの生きていくなんでもない毎日の積み重ねと同じように、ここでの時間も流れていく。別に面白いことは何もないかもしれないが、仲間と語り合い、単調な仕事をくりかえし、そんな中で小さな喜びと悲しみ、怒りを胸に抱き、生きている。ここは僕たちの生きるこの人生とよく似ている。そこにこの芝居のねらいがある。
ラストで、ここが死者たちが収容される場所であり、彼らはここで、生まれ変わるためのトレーニングをしていたことがわかる。この事実を突きつけられた時に、彼らがそれをどう受け止めるのか、というドラマは用意されてない。中山さんはそこにはあまり興味がないからだ。そんなところがとても彼らしい。このありきたりなお話がよくあるファンタジーと一線を画すのはそれゆえだ。
これは、この世に未練を残し死んで行ったものたちが、記憶を失い、それでもなんとなく続く毎日を生きていく姿を通して、<人の営み>というものにメスを入れた作品なのである。
だいたい今回のような象徴的なドラマは助けとなるものが、ほとんどないから自分の身体だけで状況や感情、さらには物語自体まで紡いでいかなくてはならない。(舞台背後に設置された「(時の)歯車と(天国への)階段」というあからさまな舞台美術は、当然役者の助けにはならない。)なのに、メリハリを欠いた平板さを強要されてしまうから役者たちは戸惑う。しかも、ベテランで演技の引き出しがたくさんあるような役者ならいざ知らず、どちらかというとまだ経験の浅い人たちにそれをさせるのだから彼らは困ったのではないか。ほとんど彼らは棒立ち、棒読みで、この空間の中に放り出されることになる。これは観客にとってもかなり厳しいことだ。
どことも知れない場所にある医療施設に、ある時から収容され、リハビリに励む人たち。彼らはグループに分かれて、他の集団とは隔離されているようだ。自らの内にある隠された感情を周囲のメンバーに伝えることで治療がなされてゆき、いつの日にかここから退院できる、らしい。そんな彼らの繰り返される毎日が静かに淡々としたタッチで綴られていく。ミステリ風のストーリーなのに、謎の解明に向かってドラマが展開していくわけではない。ただ、漠然と繰り返される時間が緩やかに描かれるだけだ。
中山さんは丁寧にここでの日々を見せることのみに集中する。だから、ラストでの謎解き部分も単なるオマケでしかない。繰り返される僕たちの生きていくなんでもない毎日の積み重ねと同じように、ここでの時間も流れていく。別に面白いことは何もないかもしれないが、仲間と語り合い、単調な仕事をくりかえし、そんな中で小さな喜びと悲しみ、怒りを胸に抱き、生きている。ここは僕たちの生きるこの人生とよく似ている。そこにこの芝居のねらいがある。
ラストで、ここが死者たちが収容される場所であり、彼らはここで、生まれ変わるためのトレーニングをしていたことがわかる。この事実を突きつけられた時に、彼らがそれをどう受け止めるのか、というドラマは用意されてない。中山さんはそこにはあまり興味がないからだ。そんなところがとても彼らしい。このありきたりなお話がよくあるファンタジーと一線を画すのはそれゆえだ。
これは、この世に未練を残し死んで行ったものたちが、記憶を失い、それでもなんとなく続く毎日を生きていく姿を通して、<人の営み>というものにメスを入れた作品なのである。