最近なんだかこのタイプの小説に嵌っている。とは言え、それは、まぁ、先日も書いたけど『この女』とこれが僕の中ではつながっているというただそれだけの理由からなのだが。
誰かを捜す。失われた大切なもの。その過程で彼女の秘密が明らかになっていく。ある女の生きてきた軌跡をたどる旅を通して、自分自身が回復していく。同じように壊れてしまいそうになっていた男が、彼女と出会うことで、回復していく。でも、その事実とともに、彼女失う。そんな話だ。
彼女の行方を追いかけるために、彼女の過去を知る。そこには、預かり知れないさまざまなドラマがある。第1部は彼女と関わりを持った5人の男女の話を聞き出す話。芋ズル式に出て来る。そんな人々の話を通して知らなかった彼女の姿が明瞭になっていく。後半の第2部は、彼と彼女の話。自分の過去も交えながら2人の出会いから、彼女の失踪、さらにはその後までもが、描かれることになる。最後はもちろん再会である。
これはある意味予定調和の幸福なドラマなのだが、この壮大なお話を通して、ただ「ある女」の存在ではなく、壮大な運命の叙事詩が綴られることになる。これはリアルなお話ではなく、まるで現代の神話のようなお話だ。兄と妹、父と子どもたち。運命の連鎖。断たれる絆。忘れられない想い。こんなそんなは、実は今読んでいる有吉玉青の『美しき1日の終わり』の姉と弟の話にもつながっているような気がする。ひとつのお話のヴァリエーションみたいで、どうしてこういう連鎖が生じるのか、不思議な気分だ。
血の繋がりよりも強い運命の連鎖みたいなものが、そこには描かれる。瑠璃と、志朗の出逢いからのドラマは、その背景としてあるそれぞれのドラマの中に埋もれてしまう。瑠璃の子どもである物言わぬ少年のぶを介して2人は出会う。のぶは死んでしまった瑠璃の恋人、ノブ(展生)の生まれ変わりのような存在だ。瑠璃、展生、そして展生の妹である香夏。3人のドラマから始まる。
ストーリーを書くのはつまらないから、やめるけど、この運命の大河ドラマが、描こうとするものを、ちゃんと受け止めたい。人間はつくづく不思議な生き物だ、と思う。失われてしまった自分自身の片割れを捜すことで、失われた自分自身と再会することになる。これは再生のドラマでもある。
誰かを捜す。失われた大切なもの。その過程で彼女の秘密が明らかになっていく。ある女の生きてきた軌跡をたどる旅を通して、自分自身が回復していく。同じように壊れてしまいそうになっていた男が、彼女と出会うことで、回復していく。でも、その事実とともに、彼女失う。そんな話だ。
彼女の行方を追いかけるために、彼女の過去を知る。そこには、預かり知れないさまざまなドラマがある。第1部は彼女と関わりを持った5人の男女の話を聞き出す話。芋ズル式に出て来る。そんな人々の話を通して知らなかった彼女の姿が明瞭になっていく。後半の第2部は、彼と彼女の話。自分の過去も交えながら2人の出会いから、彼女の失踪、さらにはその後までもが、描かれることになる。最後はもちろん再会である。
これはある意味予定調和の幸福なドラマなのだが、この壮大なお話を通して、ただ「ある女」の存在ではなく、壮大な運命の叙事詩が綴られることになる。これはリアルなお話ではなく、まるで現代の神話のようなお話だ。兄と妹、父と子どもたち。運命の連鎖。断たれる絆。忘れられない想い。こんなそんなは、実は今読んでいる有吉玉青の『美しき1日の終わり』の姉と弟の話にもつながっているような気がする。ひとつのお話のヴァリエーションみたいで、どうしてこういう連鎖が生じるのか、不思議な気分だ。
血の繋がりよりも強い運命の連鎖みたいなものが、そこには描かれる。瑠璃と、志朗の出逢いからのドラマは、その背景としてあるそれぞれのドラマの中に埋もれてしまう。瑠璃の子どもである物言わぬ少年のぶを介して2人は出会う。のぶは死んでしまった瑠璃の恋人、ノブ(展生)の生まれ変わりのような存在だ。瑠璃、展生、そして展生の妹である香夏。3人のドラマから始まる。
ストーリーを書くのはつまらないから、やめるけど、この運命の大河ドラマが、描こうとするものを、ちゃんと受け止めたい。人間はつくづく不思議な生き物だ、と思う。失われてしまった自分自身の片割れを捜すことで、失われた自分自身と再会することになる。これは再生のドラマでもある。