この大胆なタイトル(性欲、ではない。誤解してこれにエロを期待することはないと思うけど)以上に大胆な内容を伴う長編小説を2時間余に抑えて映画化した。岸善幸監督は、この難しい題材と正面から向き合う。それにしてもここまで抑えた映画になっているとは思いもしなかった。商業映画の限界に挑んでいる。
終わった後、まだクレジットが流れているのに「わからん」と声を上げて怒っている老人が映画館にいたけど、仕方ないと思う。あなたにはわからない映画です。
頭の硬い人を怒らせるくらいに、映画は主人公である彼らマイノリティに寄り添っている。だが、そこで彼らの弁護をするのではない。共感しているのでもない。ただしっかりそれを見つめているだけ。水フェチなんていう普通なら理解できない性状を取り上げ(ここで「普通なら」と書く段階でもうガッカリされるだろう)それを冷静に描く。感情移入を強いることはない。あくまでも客観描写に徹する。
視点は複雑で複数ある。両親を事故で失ってひとりになった男(磯村勇斗)。老いた両親と同居している女(新垣結衣)。この孤独なふたりの話から始まる。感情移入はさせない。彼らの気持ちはわからないまま話は進む。中学時代、同級生だった彼らが、同窓会(同級生の結婚式)で再会する。
もうひとつの視点は引きこもりの息子を抱える検察官(稲垣吾郎)。彼は息子がYouTuberを始めることで再起するのを受け入れられない。危険だというが、関わり合いたくないからだ。たったひとりの大事な息子のことなのに。
このふたつのドラマがやがてひとつの事件を通して合流する。マイノリティは理解されないまま世間から排除されていく。彼らはひっそりと隠れて普通の人を装って生きている。なぜ隠さなくてはならないのかは明らかだ。言われなき差別に晒されたくないからである。誰が差別して排除するのかも明らかだ。理解して欲しいと訴えかけるのではない。
映画にあるまじきあのラストは衝撃的である。あんな拒絶をこの映画が描いたことに驚きを禁じ得ない。突き放された気分になるけど、そこからいろんなことは始まるはずだ。