
難読症(デイスレクシアという)のユノ(漢字で書けば「結望」。母親がその名前をつけた。そこには彼女の彼へのたくさんの想いがつまっている)という少年が主人公。小学校の6年になる。彼が5年生の時、両親は山で遭難して死んだ。だから今は年の離れた兄(もう大人だ)とふたり暮らし。そんなユノのところにマリーがやってくるところからお話は始まる。真理子(マリーね)は兄の恋人で、住み場所がなくなったから、同居することになったらしい。ある日、いきなりやってきて同居することになりました、と言う。(朝起きたら、彼女がいた!)
デイスレクシアなんて知らなかった。難読症と言われたら、なんとなくイメージは湧く。だが、本当のところは、わからない。小説を読みながら、少しずつ理解する。ユノを見ていくと、だんだんわかってくる。彼が何を想い、何を感じ、毎日生きているのか。その日々の記録がこの小説だから。
幼い頃の描写が(母親が彼をどう育てたか、)が描かれる。リアルタイムにそんな過去がインサートされていく。両親のこと、当時の兄のこと。学校との戦い。担任は過保護だと母親を糾弾する。ひらがな、ですら読めない彼にふつうの生活を送らせるためには学校の協力も必要なのだが、特定の子供のために、しかも、発達が遅れているだけで、(あるいは、さぼりで、)ほんとうに、難読症なんていう病気なのかもわからない幼児(当時は)を特別扱いするのは、間違った教育ではないか、と言われたり。いろんなことが、適切な分量で描かれていく。そんななかで、今のユノの旅が静かに始まる。
マリーとふたりで、九州の鉄塔を訪ねる。3つの無線塔は戦時中建てられたもの。これはユノにとって初めての旅だ。真理子とふたり車で旅する。しかし、途中で彼はひとりになる。名古屋で偶然出会った少女とことばを交わしたことがきっかけで、一人旅をしようと思う。単身新幹線に乗り、九州まで。
これは彼のひとり旅を通しての自立を描く小説ではない。家の近所から出ることもできなかった彼を旅に連れ出すことで、彼が変わるのではないか、と真理子は思った。しかし、彼を見失い呆然となる。兄もまた、同じだ。ユノのために真理子を近づけた。しかし、それは自分が楽するためでしかなかったのではないか、と思う。難しい弟を恋人に押しつけただけ。
そんなことより、なにより、ユノである。彼はこの旅を望んだのではない。与えられただけだった。真理子が兄に相談して、決めた。しかし、彼はこのチャンスを自分のものにする。どこかに行くため、ではない。今ここで、自分が何をすべきなのかを知るためだ。いや、そうじゃない。最初は、ユノが言い出したんだった。「僕にはいきたいところがあります、」と。それを真理子が受け入れた。お話が錯綜とするから、時間の順序があやふやになる。ただ、はっきりしていることはある。僕はユノから目が離せない。ずっと彼を追いかける。そのことだ。
彼という少年がわからないからだ。それは僕だけではなく、兄である昭彦(ようやく名前を思い出した)も、真理子も同じだ。担任の先生である会田も、同じかもしれない。彼女はユノの母親に反発し、特殊学級の新設に反対した。今も、ユノに対して、好意的ではない。(はたして、そうか? という気もするが。僕はどうしてもユノの母親の立場から読んでしまうから、そうなるだけで、必ずしも、そうじゃないのかもしれない。今僕は、ユノが母親と思って、会田先生に電話してしまったシーンの会話を思い出している。 死んだ母親の番号に電話したら、会田先生が出てきた場面だ。兄はそう登録し直していた。)
いろんなことが、断片的に思い出される。この小説が直線的ではないからだ。ストーリーはジグザグに進む。だが、最後は写真の中にあった3本の無線塔にたどりつく。(というか、途中でその鉄塔が取り壊されるので、その最後の姿を記録するための旅がインサートされる。最初はわからなかったが、それは大人になったユノのお話で、さらには、会田先生との再会や、交流までもが描かれる。)
そこには答えはない。だが、そこに行くことがユノにとってひとつの答えとなる。自分の置かれた状況を不幸だとか、そうじゃないとか、思うわけではない。彼には遠くは見えない。目の前しか。しかし、母親はいう。遠くを見なさい、と。ここから遠く離れた無線塔に向かう旅。そこには何があったのだろうか。そして、これから彼はどこに向かうのだろうか。
僕たちも、みんな、わからないことだらけだ。これは彼だけの問題なんかじゃない。目の前をしっかりみつめて、でも、遠くを見ること、を忘れないこと。この小説はそんな大切なことを教えてくれる。