今回のアジアフォーカスで見た10本の中で一番おもしろかった映画はこの作品だ。いずれも甲乙付け難い作品ばかりだから、それは自分の好みでしかないけど、この痛ましいお話の少女に心ひかれた。
彼女の痛みなんか、甘えでしかないかもしれない。だが、10代の少女が自分と母親の確執の先に見ず知らずの父親の幻影をつまらない中年教師に見出し、すべてを失うドラマは、独りよがりすれすれのところで、成り立つ。もう少し大人になれば自分がいかに愚かであろうか、わかるのだろうが、あの年頃の少女にはわからない。だが、わからないなりに、一生懸命自分の身に降りかかったことと向き合うことになる。そんな誠実さが痛ましいのだ。
「レイプ」された被害者であるのに、はたしてあれはレイプだったのか、と悩むことになる。あなたはとんでもなく被害者でしかない、と誰もが認める。しかし、彼女はそうは思いたくない。恋愛感情があったから、というようなきれいごとではない。もし、そうなら尚更そんな彼女を暴力によって犯した彼は断罪されるべきだ。しかも、このくだらないドンファンは自分の身を守ることに腐心する。妻に(優秀な弁護士)助けてもらい、自分には罪はない、とのたまう。とんでもなく、くだらない悪人である。なのに、そんな男を被害者である彼女は結果的に弁護する。すべて自分の罪だ、と思う。ほんとうの気持ちがわからないからだ。
母から逃げたかった。でも、本当は母にかまってもらいたかった。相反する感情が錯綜する。教授のレイプの後、何度も彼の求めに応じたのは自分だ。その時、怖かったから、とかいう言い訳はしない。わからなかった。どうしたらいいのか。
誰も知らないところで、初めての旅を始めたかった。本当の人生をスタートさせたかった。だから、台北を離れて、遠い台中にやってきた。冒頭、台湾の端から端へと、電車の旅が描かれる。映画は台中への単線の線路を俯瞰で捉える。細くて、1本の線路を一直線に南下していく。彼女の未来はここから始まる。
海の横を走る単線の電車に揺られ、台中大学を目指す。ちょうど、この夏、ここを同じ電車に揺られて旅した。花蓮から台中経由で、高雄まで。台中を通った時にはもう夜になっていたから、こんな風景だったのか、となんだか懐かしい。見たはずだけど、見ていない風景なのだ。彼女の夏と僕の夏が交錯する。(そんなわけないけど)東回りのローカルカラーと新幹線が走る西回りの違いは、台北と台中の違いにも似ている。冒頭のほんのちょっとした描写で、この映画の方向性が定まる。この映画の舞台は、この何もない台中でなくてはならなかったのだろう。
誰にも知られず、新しい人生が始まる。なのに、その最初の時点で、彼女は傷つく。明るい笑顔は一瞬で暗く陰鬱な顔になる。母の呪縛を離れて新しい一歩を踏み出したのに。もう取り返しがつかない。彼女に心ひかれる少年(同じ大学の同級生だ)とのピュアな恋。本当ならふたりは少しずつ距離を詰めていきながら大事なものを育てていくはずだった。なのに、そんなことができなくなる。すべてが変わる。心の弱い大人の悪質な犯罪が彼女を壊してしまう。信頼していた教授によるレイプによって失われてしまう。
映画は明らかな善悪すら曖昧にしてしまう。はたしてそんな単純なものなのか、と。彼女は自分を守り、安全圏に置こうとはしない。被害者の立ち位置を棄てることも厭わない。心を閉ざして、誰にも助けを求めない。自分の弱さを克服するどころか、それによりかかってしまう教授を糾弾しない。肯定すらする。もどかしい。だが、彼女はそうすることで、自分の本当の心と向き合う。彼女は自分は彼のことが好きだったかも、と言う。どんなに酷いことをされ、一方的に悪者にされても、彼を憎むわけではない。自分を責める。
本当のことはどうなのか、なんて、大切じゃない。教授の死によって、終わるわけでもない。映画は彼女の心の痛みをどこまでも追い詰めていく。痛ましさに抱かれて。原題の『冬蝉』という印象的なタイトルが、この映画のすべてを象徴する。