昨夜、やっとこの作品を見てきた。これでようやく3本とも見たことになる。今回も企画制作の佐藤さんの思い通りの作品が3本出来上がった。そんな中で、寺山ではなく「テラヤマ」作品を作るというそんな使命を一番見事に達成したのは、この末満作品ではないか。
ピースビットの末満さんは、最初から最後まで、一気に突っ走っていく。自分の方法論で、この戯曲を構築して見せる。天晴れである。この作品は寺山のエッセンスがいっぱいに詰まったものだが、出来上がった作品はあまり寺山らしさがない。
末満さんは自分の感性だけを拠りどころにして自由奔放にこの作品を作り上げた。誤解も承知で自分の世界観に引き寄せて演出していく。その姿勢はとても潔くて、気持ちがいい。既存のイメージに囚われることなく、ポップな世界として再構築した。彼は今回の仕事を引き受けるまで、寺山修司についてほとんど知らなかったらしい。台本のかっこいいセリフをきちんとみせきるための演出に徹したらしい。そのアプローチも面白い。感覚的に寺山をとらえようとするなんて、とても新鮮だ。
なんだかよくわからないけど、この生と死の世界にある混沌としたものを一息に見せたならどうなるのか、よくわからないけど、自分がこの作品に心惹かれるものがあり、それが何なのかを見極めるために、芝居を作る。そんなアプローチに見える。
けっこう乱暴な作り方だけれど、それは彼にしか出来ない方法論だと思う。確かな技術に裏打ちされ、でも、それに頼るだけの安全圏の芝居作りではない。
葬儀屋を舞台に、主人の娘、歌留多の結婚を巡るお話。登場人物は皆死んでいるなかで、彼女だけが、まだ、生きている。父は彼女を死んだ男と結婚させようとするが、彼女はあまり素行のよくない生きている男に恋をする。この3人を巡る話が核になるが、その部分だけにこだわることなく、芝居はめまぐるしい展開を見せる。さまざまな人物の話を縦横無尽に描くのだ。小道具をいっぱい使い、段取り、きっかけもたくさんある大変な芝居だが、あっという間の70分である。
ピースビットの末満さんは、最初から最後まで、一気に突っ走っていく。自分の方法論で、この戯曲を構築して見せる。天晴れである。この作品は寺山のエッセンスがいっぱいに詰まったものだが、出来上がった作品はあまり寺山らしさがない。
末満さんは自分の感性だけを拠りどころにして自由奔放にこの作品を作り上げた。誤解も承知で自分の世界観に引き寄せて演出していく。その姿勢はとても潔くて、気持ちがいい。既存のイメージに囚われることなく、ポップな世界として再構築した。彼は今回の仕事を引き受けるまで、寺山修司についてほとんど知らなかったらしい。台本のかっこいいセリフをきちんとみせきるための演出に徹したらしい。そのアプローチも面白い。感覚的に寺山をとらえようとするなんて、とても新鮮だ。
なんだかよくわからないけど、この生と死の世界にある混沌としたものを一息に見せたならどうなるのか、よくわからないけど、自分がこの作品に心惹かれるものがあり、それが何なのかを見極めるために、芝居を作る。そんなアプローチに見える。
けっこう乱暴な作り方だけれど、それは彼にしか出来ない方法論だと思う。確かな技術に裏打ちされ、でも、それに頼るだけの安全圏の芝居作りではない。
葬儀屋を舞台に、主人の娘、歌留多の結婚を巡るお話。登場人物は皆死んでいるなかで、彼女だけが、まだ、生きている。父は彼女を死んだ男と結婚させようとするが、彼女はあまり素行のよくない生きている男に恋をする。この3人を巡る話が核になるが、その部分だけにこだわることなく、芝居はめまぐるしい展開を見せる。さまざまな人物の話を縦横無尽に描くのだ。小道具をいっぱい使い、段取り、きっかけもたくさんある大変な芝居だが、あっという間の70分である。