
等身大の女の子の日常をスケッチしようとした十時直子さんの新作。2時間の長い作品になってしまったのは、作者の意気込みとして受け止めるしかないが、内容と尺が合わない。あと20分短くしたなら、スリムで気持ちのいい作品になったのに、残念だ。作者のねらいはよくわかるが、空回りしては元も子もない。安易な舞台美術や、人間関係の書き込みの浅さとか、結構欠陥はたくさんあるけど、十時さんが、自分にしか作れないドラマ作りを目指し、正直な今の気持ちを、きちんと描こうとした姿勢には共感できる。
主人公のキャラクター設定が、かなり自己中で、嫌な女にしてあるのが面白い。単純にいいひと、ではなく、どちらかというとイヤミで、好感の持てない女になってしまう、という設定がいい。そんな彼女を自分自身も嫌っているのは当然の事だろう。
なんだか最近元気がない女の子(りんどうかのこ)が主人公。特に何か嫌な事があったというわけでもない。だけど、ただなんとなく憂鬱。今日は誕生日で、夜には仕事帰りに恋人が来てくれることになっているのに、それでも気持ちはブルーだ。そんな気分を変えるためにドーナツを買って家に帰る。
恋人はいる。彼は充分優しい。仕事先の同僚もいい人たちで、彼女に対して好意的だ。上司は少しイヤな奴だが、気にしてない。友だちとルームシェァリングしているが、上手くやっている。なんら問題なんてないはずなのだ。しかし、気分は鬱で、帰りの電車の窓に映る自分の顔を見て呆然とする。とても不機嫌な顔をしている。
なんとなく見た地下鉄の中吊り広告に驚く。その化粧品の広告のモデルの女性が、なんと自分だったのだ!飛び切りの笑顔を向ける女は自分によく似た人、ではなく自分そのものなのである。写真のモデルなんかになった覚えはない。隠し撮りされたとしてもこんなに上手く撮れるわけはない。一体全体何が起きたというのだろう。
このお芝居に於ける事件はこの一点のみだ。それは、かって『OJ』の時、部屋の蛇口からオレンジジュースが出てくる、という一点のみが、不思議で、後はリアリズムで芝居を見せた時と、よく似ている。十時さんはこの異常な設定を基点にして、ドラマを展開させていくというようなありきたりな作り方はしない。この不条理に対する拘りはない。ありきたりのドラマの中に、この驚くべき事態をさらりと滑り込ませる。それはドラマの一要素とするばかりである。
憂鬱そうな顔をしている今の自分と、とびきりの笑顔をみんなにむけているポスターの中の自分、その2つの対比から、ドラマを起こし、途中幾分もたもたした展開が続くが、とりあえず彼女の日常を追いながら、ラストでの、自分のポスターを部屋中に張り詰めていくシーンへと、つないでいく。
ラストは、ナルシストと受け取られかねないかなり微妙な描き方だが、かわいい自分の顔のポスターを張り詰めてうっとりする、なんて訳ではなく、「とても素敵な笑顔に包まれることの幸福」を描いているのだ。だからあのラストはいい。
それが、偶然(こんな偶然はありえないが)自分の笑顔だったのだ。自分の笑顔が街中に溢れみんながそのポスターの素敵な女の子に夢中になる。その女の子が自分である。そんな設定を通して、結果的には、この芝居は「大嫌いな自分との決別」を描くことになる。
芝居はこの場面で終わっている。なのに実は、この芝居はこの後まだまだ続く。ポスターに包まれた彼女の元に恋人がやって来る。さらには、ルームメイトとその恋人までもが帰って来る。もう蛇足でしかない。それだけではない。彼らは、そのポスターにマジックで落書きをしていく。無意味なのでやめたほうがよかった。せっかくの芝居が台無しである。本当は、あのポスターは現実のものでなくてもいい。だが、十時さんは見事に現実の世界に存在させた。しかし、それをあんな風に汚すことはない。話の流れを損なう。残念でならない。
主人公のキャラクター設定が、かなり自己中で、嫌な女にしてあるのが面白い。単純にいいひと、ではなく、どちらかというとイヤミで、好感の持てない女になってしまう、という設定がいい。そんな彼女を自分自身も嫌っているのは当然の事だろう。
なんだか最近元気がない女の子(りんどうかのこ)が主人公。特に何か嫌な事があったというわけでもない。だけど、ただなんとなく憂鬱。今日は誕生日で、夜には仕事帰りに恋人が来てくれることになっているのに、それでも気持ちはブルーだ。そんな気分を変えるためにドーナツを買って家に帰る。
恋人はいる。彼は充分優しい。仕事先の同僚もいい人たちで、彼女に対して好意的だ。上司は少しイヤな奴だが、気にしてない。友だちとルームシェァリングしているが、上手くやっている。なんら問題なんてないはずなのだ。しかし、気分は鬱で、帰りの電車の窓に映る自分の顔を見て呆然とする。とても不機嫌な顔をしている。
なんとなく見た地下鉄の中吊り広告に驚く。その化粧品の広告のモデルの女性が、なんと自分だったのだ!飛び切りの笑顔を向ける女は自分によく似た人、ではなく自分そのものなのである。写真のモデルなんかになった覚えはない。隠し撮りされたとしてもこんなに上手く撮れるわけはない。一体全体何が起きたというのだろう。
このお芝居に於ける事件はこの一点のみだ。それは、かって『OJ』の時、部屋の蛇口からオレンジジュースが出てくる、という一点のみが、不思議で、後はリアリズムで芝居を見せた時と、よく似ている。十時さんはこの異常な設定を基点にして、ドラマを展開させていくというようなありきたりな作り方はしない。この不条理に対する拘りはない。ありきたりのドラマの中に、この驚くべき事態をさらりと滑り込ませる。それはドラマの一要素とするばかりである。
憂鬱そうな顔をしている今の自分と、とびきりの笑顔をみんなにむけているポスターの中の自分、その2つの対比から、ドラマを起こし、途中幾分もたもたした展開が続くが、とりあえず彼女の日常を追いながら、ラストでの、自分のポスターを部屋中に張り詰めていくシーンへと、つないでいく。
ラストは、ナルシストと受け取られかねないかなり微妙な描き方だが、かわいい自分の顔のポスターを張り詰めてうっとりする、なんて訳ではなく、「とても素敵な笑顔に包まれることの幸福」を描いているのだ。だからあのラストはいい。
それが、偶然(こんな偶然はありえないが)自分の笑顔だったのだ。自分の笑顔が街中に溢れみんながそのポスターの素敵な女の子に夢中になる。その女の子が自分である。そんな設定を通して、結果的には、この芝居は「大嫌いな自分との決別」を描くことになる。
芝居はこの場面で終わっている。なのに実は、この芝居はこの後まだまだ続く。ポスターに包まれた彼女の元に恋人がやって来る。さらには、ルームメイトとその恋人までもが帰って来る。もう蛇足でしかない。それだけではない。彼らは、そのポスターにマジックで落書きをしていく。無意味なのでやめたほうがよかった。せっかくの芝居が台無しである。本当は、あのポスターは現実のものでなくてもいい。だが、十時さんは見事に現実の世界に存在させた。しかし、それをあんな風に汚すことはない。話の流れを損なう。残念でならない。