2時間42分の大作である。最近はこのくらいの長さの映画が少なくなった気がする。たぶん興行の関係からだろう。全力投球の超大作自体も少ない。これは作家が渾身の力を込めて挑む作品だ。
だが、スコセッシはまるで気にしないで、そういう汗くさい映画をここに作り上げた。凄まじい映画だ。なのに、それは長さを感じさせない。静かな映画だ。
描かれるのは地獄のような光景である。そこからはスコセッシの執念が伝わってくる。彼はこれを28年の歳月をかけて完成にこぎつけた(らしい)。このとんでもなく困難な映画を諦めることなく、作り上げてしまったのだ。すごい、としか言いようがない。遠藤周作の原作をもとにしたアメリカ映画である。さらには宗教映画であるだけではなく、これは17世紀の日本を舞台にした壮大な冒険物語なのである。
2人の宣教師がマカオ経由で、(マカオだけでも十分に彼らにとっては恐ろしい未開の世界だったはず)長崎の海岸へ、たどり着く。まず、とある小さな村にやってくる。彼らにとって、この隠れキリシタンの村自体が異形の世界で、ただただ恐怖しかない。そこで出会った日本人たちに導かれ、彼らの魂を救うため、ふたりの旅が始まる。
布教と同時に行方不明になっている彼らの師を探す。現地の人々(隠れキリシタンである村人)の異様な姿はロドリゴたちには想像を絶するものとして映る。禁制のキリスト教を信じ、凄まじい弾圧の中、イエスを信じる村人たちの姿は異常としか、言いようがない。そして、無学のはずの彼らがあんなにもしっかりと英語をしゃべる。宣教師とのコミュニケーションをとるため彼らは完璧に英語をマスターしたのだ。という、映画としての前提となるフィクションすら力業で納得させる映画なのだ。(日本人である僕には、それって、ちょっとリアルじゃないけど。)スコセッシの突きつけるこのいびつな、ともいえるリアルズムに圧倒される。この映画が描く日本は決して単純なワンダーランドではない。スコセッシに見えた17世紀の日本ではあるだけでなく、これはもっと広い視点での全く想像もつかない他者との出会いの物語りなのだ。
この原作小説は高校生の時に読んだ。心を揺さぶられた。篠田正浩監督による映画も見た。あれからもう40年近くの時が過ぎている。教師になってから、授業で取り上げたこともある。(昔の教科書に載っていたこともあるのだ。神の沈黙を描くクライマックス部分だ。)いろんな意味で思い出深い作品なのだが、今はそんな感傷にふけっている場合ではない。今見てきたこの映画の感動を伝えたい。
この映画を見ながら、何かが違う、と思った。ハリウッドの大作映画のような壮大なスペクタクルにもなっている。しかし、これはスコセッシの作家映画だ。娯楽活劇ではない。だが、違和感はどんどん大きくなる。クライマックスであるフェレイラ神父との再会シーンに至ってその齟齬はきわまる。神の沈黙とどう向き合うのか。
思い出したのは、そこではない。今回の映画は全編がクライマックスの連続である。見ながら、コッポラの『地獄の黙示録』を初めて見た時を思い出していた。この映画はあの時の衝撃に似ている。あれがある意味で戦争映画ではなかったように、これもある意味では宗教映画ではない。戦争(ベトナム戦争)や宗教(キリスト教)という枠組みを大きくはみ出してしまっている。もっと根源的な「何か」へと踏み込んで、人間の内面に深く迫っていく。
この映画で人々は簡単に踏み絵に足をかける。彼らはイエスの像を踏むという行為に重きを置かない。神はそんなところには宿らないということを知っているからだ。もちろんそこに躊躇が全くないわけではない。踏めない信徒もいる。誰もが苦しみながら足を乗せる。しかし、原作や篠田版の71年作品の中にあったような苦渋のギリギリの決断としては描かれない。
神と人との結びつきをキリスト教や仏教という次元を超えたものとして描こうとするのだ。だからこれが『地獄の黙示録』同様、魂の旅を描いた映画となる。ベトナムと日本。1970年と17世紀。時代や文化の違いの向こうにあるものを描く。欧米人と東洋との出会いという枠も確かにあるけど、これは自分たちの価値観では理解できないとてつもない恐怖と悪夢を描く叙事詩だ。彼ら、(それは闇に取り込まれたカーツとフェレイラだけではなく、彼らを探しに来たウィラードとロドリゴも、である)はそこに取り込まれていく。
カーツが「ホラー」とささやいたように、フェレイラは、サイエンスで、それを示す。賛否両論があるだろう。そんなこと承知の上でマーチン・スコセッシ監督はこの衝撃の1作を我々の前につきつけたのだ。刮目せよ。
だが、スコセッシはまるで気にしないで、そういう汗くさい映画をここに作り上げた。凄まじい映画だ。なのに、それは長さを感じさせない。静かな映画だ。
描かれるのは地獄のような光景である。そこからはスコセッシの執念が伝わってくる。彼はこれを28年の歳月をかけて完成にこぎつけた(らしい)。このとんでもなく困難な映画を諦めることなく、作り上げてしまったのだ。すごい、としか言いようがない。遠藤周作の原作をもとにしたアメリカ映画である。さらには宗教映画であるだけではなく、これは17世紀の日本を舞台にした壮大な冒険物語なのである。
2人の宣教師がマカオ経由で、(マカオだけでも十分に彼らにとっては恐ろしい未開の世界だったはず)長崎の海岸へ、たどり着く。まず、とある小さな村にやってくる。彼らにとって、この隠れキリシタンの村自体が異形の世界で、ただただ恐怖しかない。そこで出会った日本人たちに導かれ、彼らの魂を救うため、ふたりの旅が始まる。
布教と同時に行方不明になっている彼らの師を探す。現地の人々(隠れキリシタンである村人)の異様な姿はロドリゴたちには想像を絶するものとして映る。禁制のキリスト教を信じ、凄まじい弾圧の中、イエスを信じる村人たちの姿は異常としか、言いようがない。そして、無学のはずの彼らがあんなにもしっかりと英語をしゃべる。宣教師とのコミュニケーションをとるため彼らは完璧に英語をマスターしたのだ。という、映画としての前提となるフィクションすら力業で納得させる映画なのだ。(日本人である僕には、それって、ちょっとリアルじゃないけど。)スコセッシの突きつけるこのいびつな、ともいえるリアルズムに圧倒される。この映画が描く日本は決して単純なワンダーランドではない。スコセッシに見えた17世紀の日本ではあるだけでなく、これはもっと広い視点での全く想像もつかない他者との出会いの物語りなのだ。
この原作小説は高校生の時に読んだ。心を揺さぶられた。篠田正浩監督による映画も見た。あれからもう40年近くの時が過ぎている。教師になってから、授業で取り上げたこともある。(昔の教科書に載っていたこともあるのだ。神の沈黙を描くクライマックス部分だ。)いろんな意味で思い出深い作品なのだが、今はそんな感傷にふけっている場合ではない。今見てきたこの映画の感動を伝えたい。
この映画を見ながら、何かが違う、と思った。ハリウッドの大作映画のような壮大なスペクタクルにもなっている。しかし、これはスコセッシの作家映画だ。娯楽活劇ではない。だが、違和感はどんどん大きくなる。クライマックスであるフェレイラ神父との再会シーンに至ってその齟齬はきわまる。神の沈黙とどう向き合うのか。
思い出したのは、そこではない。今回の映画は全編がクライマックスの連続である。見ながら、コッポラの『地獄の黙示録』を初めて見た時を思い出していた。この映画はあの時の衝撃に似ている。あれがある意味で戦争映画ではなかったように、これもある意味では宗教映画ではない。戦争(ベトナム戦争)や宗教(キリスト教)という枠組みを大きくはみ出してしまっている。もっと根源的な「何か」へと踏み込んで、人間の内面に深く迫っていく。
この映画で人々は簡単に踏み絵に足をかける。彼らはイエスの像を踏むという行為に重きを置かない。神はそんなところには宿らないということを知っているからだ。もちろんそこに躊躇が全くないわけではない。踏めない信徒もいる。誰もが苦しみながら足を乗せる。しかし、原作や篠田版の71年作品の中にあったような苦渋のギリギリの決断としては描かれない。
神と人との結びつきをキリスト教や仏教という次元を超えたものとして描こうとするのだ。だからこれが『地獄の黙示録』同様、魂の旅を描いた映画となる。ベトナムと日本。1970年と17世紀。時代や文化の違いの向こうにあるものを描く。欧米人と東洋との出会いという枠も確かにあるけど、これは自分たちの価値観では理解できないとてつもない恐怖と悪夢を描く叙事詩だ。彼ら、(それは闇に取り込まれたカーツとフェレイラだけではなく、彼らを探しに来たウィラードとロドリゴも、である)はそこに取り込まれていく。
カーツが「ホラー」とささやいたように、フェレイラは、サイエンスで、それを示す。賛否両論があるだろう。そんなこと承知の上でマーチン・スコセッシ監督はこの衝撃の1作を我々の前につきつけたのだ。刮目せよ。