想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

イントウ・ザ・ワイルド 青年は荒野をめざした

2008-09-11 10:05:29 | 
      森の中へ、深く深く分け入って行こう。
      旅の先に探しあてるものは、何か?
      それはまだ見えないが、いつか‥‥



      行くんですかい 親分。
      何も持たずに‥‥、はだかのままで‥‥

      ソローの「森の生活」だけは持っていたそうで‥‥

      ショーン・ペンは好きな俳優の一人であるが、主演とか監督と聞くと
      もう映画を観たような気になって盛り上がる。
      日比谷や恵比寿の映画館は近くて遠いので、もちろんまだ観ていない。

      ジョン・クラカワー著の原作「荒野」は実話を追ったノンフィクションである。
      それを下敷きにしてさらに取材で得た事実を加味して脚本が書かれたという。
      ショーン・ペンらしい話だと思う。

      これらはプロモーション用の雑誌記事などで以前から書かれていて
      周知の話だが、作家沢木耕太郎は朝日新聞の批評欄で「穿った見方」と書いた。
      取材して加えた事実はショーン・ペンの主観ではないかということだ。

      素材が実話であっても映画や小説といった作品の形をとれば監督の主観、
      思想がそこに色濃く映し出されるのは、当然のことである。
      原作に忠実であることに意義があるかなしかは、見る側のあるいは関係者の
      軸足の重心がどこにあるかによる。
      沢木耕太郎がノンフィクション作家であることを、こういう批評で思い起こすのは
      残念である。
      (対象との距離を絶妙に測って書かれた一連の作品から感じられる
       冷静な印象のある沢木氏らしくない一文、たとえばこれは私の主観だ)

      火宅の人、檀一雄を描いた「檀」、それから実父を描いた「無名」など
      深夜特急を読む若者でなくとも市井のオトナにとっても魅力的な作品の多い
      沢木耕太郎なので意外に思え、眼が止まった。

      原作を凌駕しているとの評価の高かった、映画の最後の場面になる
      美しくも厳しい大自然を映し出した映像はやはりすばらしかった、と
      最後に付け加えてもある。末期の眼に映った景色だろう、とも‥。

      まあ観ないうちにはなんとも言えないのに言いたいので、すまんが言うが、
      (評判というのはこうやって外野が騒ぐから盛り上がるんだなあー)
      主観や「主観によるかたより」さえもが、興味深くまた感動的であるのは
      主観の持ち主に魅力がある場合である。
      これこそ感性の世界であって「表出した既成事実調査」とは離れた
      素粒子的問題である。
      そのほうがエキサイトするではないか。

      これは映画館の大画面を前に、何も食べたりせずに観るべきだなと思うが
      日比谷は縄張り外なので、ちょっと地下鉄に乗って~という具合に足が向かない。
      銀座線も千代田線も日比谷線もあるだろうが、なにせわたしは霞ヶ関より
      東になかなか行かないんである。このごろの恵比寿などもっと行かない。
      246から晴海通りは日比谷公園を横目に突っ切って、銀座も通り越し
      大歌舞伎座前で減速。左折すれば高速入口である。
      ここで立ち止まるには、相当の魅力、引力が必要なのだ。

      ということは、結局のところ、DVDを大画面で、
      いや中画面で、たぶん観るのかなあ。
      沢木耕太郎がベタ誉めしていたら、DVDさえ観るのはいつになるか
      わからないので、主観とはかくも勝手なものだと我にして思う。 
          


      いつだって~どこでだって~はだかであるが、本日は首飾りいやチェーン取り忘れ。
      駆け出したのは、腹が減ったから。
      親分は旅には出ない、荒野では迷う性分である。
      これから先もおっかあに引っ付きまくる一生だ、ブラボー。
      これも冒険じゃ!
コメント
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