25年前の今日。
生まれて18年間暮らした家を出て、ボクは独り暮らしをはじめた。
父が運転する軽トラックに荷物をいっぱい積み込んで、一路、新しい生活が待っている
広島へ向かった。
あの時は、もう二度とこの街で暮らすことはないだろうと思っていたのに、その後、
数えきれない偶然と必然と運命と宿命と思いつきが絡み合って、今では生まれ育った
この街にしっかり根を降ろしてしまった。
3月も、最終週。
季節がら、今月に入ってボクの周囲でもいろんな変化が起こっている。
仕事では取引先やクライアントの人事異動、退職、私生活でも知人が仕事や会社を
辞めて新しい一歩を踏み出したり、友人や親戚の子どもが、家から独り立ちしたり。
毎年のことなので慣れているつもりなのだが、それでもいつも少し感傷的になって
しまう。
ボクは転勤族ではないし、子どももまだ小さいので、上述したような変化は
今のところない。
だからどちらかというと、故郷に帰ってきてからというもの、この時期になると
見送る立場になることの方が圧倒的に多い。
ボクも普通の人間なので、離れゆく人を見送る時、一抹の寂しさを感じるのだが、
それと同時に、なぜか奇妙な羨ましさも心の片隅に生まれる。
それがいったいどういう感情なのか自分でもよく分からなかったのだが、もしかしたら
それは、どんな理由であれ変化してゆく人と、その場に立ち止まったままでいる自分を
無意識のうちに比べているが故に生まれた感情なのかもしれない。
「終わりは、はじまり」という言葉がある。
佐野元春の「グッドバイからはじめよう」という歌の歌詞だ。
この歌に出会ったのは、ちょうど今から30年前の今ごろだった。
別れの歌だということは頭では理解していたが、当時は中学生の子どもだったから、
この歌の歌詞を心で共感するにはまだまだ未熟すぎた。
それから数年が過ぎて、高校卒業の時。
卒業式の後に受け取った卒業アルバムの片隅に、この歌の歌詞が掲載されてあった。
教師がこの歌を知っている可能性は限りなく低くかったから、きっと卒業アルバムの
制作委員会に属していた同級生の誰かが、歌詞を引用したのだろう。
それから数日後、ボクは生家を出て、独り暮らしをはじめた。
今思えば、この歌詞の本当の意味が分かりはじめたのは、この頃だったような気がする。
あれから、数えきれないほどの人と出会いと別れを繰り返してきた。
別れゆく時、若い頃なら自分の知り得るありとあらゆる言葉を尽くして惜別したものだけど、
最近では、もうそんなことはしない。
たとえばメールならば、感謝の気持ちを手短かに書いて、その最後に「終わりは、はじまり」と
書くだけ。
ちょっと、キザかもしれない。
でも、この言葉ほど離れゆく人に対する最大限のエールはないような気がしている。
嫌いな人に涙をこらえて別れの言葉を口にする人は、おそらく世界中に一人もいないだろう。
そういう感情を抑えて見送る人は、できるならばずっと自分の近くにいて欲しい人のはずだ。
そういう人には、ちょっと気恥ずかしくても、そんな言葉で見送ってあげた方がいいと思う。
何よりも、人生はこの言葉のとおりだと、自分自身が信じているのだから。
佐野元春「グッドバイからはじめよう」
生まれて18年間暮らした家を出て、ボクは独り暮らしをはじめた。
父が運転する軽トラックに荷物をいっぱい積み込んで、一路、新しい生活が待っている
広島へ向かった。
あの時は、もう二度とこの街で暮らすことはないだろうと思っていたのに、その後、
数えきれない偶然と必然と運命と宿命と思いつきが絡み合って、今では生まれ育った
この街にしっかり根を降ろしてしまった。
3月も、最終週。
季節がら、今月に入ってボクの周囲でもいろんな変化が起こっている。
仕事では取引先やクライアントの人事異動、退職、私生活でも知人が仕事や会社を
辞めて新しい一歩を踏み出したり、友人や親戚の子どもが、家から独り立ちしたり。
毎年のことなので慣れているつもりなのだが、それでもいつも少し感傷的になって
しまう。
ボクは転勤族ではないし、子どももまだ小さいので、上述したような変化は
今のところない。
だからどちらかというと、故郷に帰ってきてからというもの、この時期になると
見送る立場になることの方が圧倒的に多い。
ボクも普通の人間なので、離れゆく人を見送る時、一抹の寂しさを感じるのだが、
それと同時に、なぜか奇妙な羨ましさも心の片隅に生まれる。
それがいったいどういう感情なのか自分でもよく分からなかったのだが、もしかしたら
それは、どんな理由であれ変化してゆく人と、その場に立ち止まったままでいる自分を
無意識のうちに比べているが故に生まれた感情なのかもしれない。
「終わりは、はじまり」という言葉がある。
佐野元春の「グッドバイからはじめよう」という歌の歌詞だ。
この歌に出会ったのは、ちょうど今から30年前の今ごろだった。
別れの歌だということは頭では理解していたが、当時は中学生の子どもだったから、
この歌の歌詞を心で共感するにはまだまだ未熟すぎた。
それから数年が過ぎて、高校卒業の時。
卒業式の後に受け取った卒業アルバムの片隅に、この歌の歌詞が掲載されてあった。
教師がこの歌を知っている可能性は限りなく低くかったから、きっと卒業アルバムの
制作委員会に属していた同級生の誰かが、歌詞を引用したのだろう。
それから数日後、ボクは生家を出て、独り暮らしをはじめた。
今思えば、この歌詞の本当の意味が分かりはじめたのは、この頃だったような気がする。
あれから、数えきれないほどの人と出会いと別れを繰り返してきた。
別れゆく時、若い頃なら自分の知り得るありとあらゆる言葉を尽くして惜別したものだけど、
最近では、もうそんなことはしない。
たとえばメールならば、感謝の気持ちを手短かに書いて、その最後に「終わりは、はじまり」と
書くだけ。
ちょっと、キザかもしれない。
でも、この言葉ほど離れゆく人に対する最大限のエールはないような気がしている。
嫌いな人に涙をこらえて別れの言葉を口にする人は、おそらく世界中に一人もいないだろう。
そういう感情を抑えて見送る人は、できるならばずっと自分の近くにいて欲しい人のはずだ。
そういう人には、ちょっと気恥ずかしくても、そんな言葉で見送ってあげた方がいいと思う。
何よりも、人生はこの言葉のとおりだと、自分自身が信じているのだから。
佐野元春「グッドバイからはじめよう」