りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

四半世紀。

2013-12-29 | Weblog
テレビもすっかり年末モードで。

昼から放送されていた「平成四半世紀」という報道番組を断片的に見ていた。

よく言われることだけど、言葉のマジックなのか、同じ年月を“25年”と表現するのと
“四半世紀”と表現するのでは重みが全く異なって感じる。
番組では、政治、社会、文化、スポーツ・・・etc. 様々な分野の“四半世紀”について検証していたのだけど、
奇妙なことに、取り上げられているどんな出来事であっても、全てがついこの前の事のように
感じている自分がいた。

それにしても、激変の25年だ。
それが番組を視た率直な感想。

ついこの前のように感じても、自分自身もさほど変化していないと思っていても、
気がつけば変わってしまっている。

そうそう、今上述した“気がつけば”という言葉が全てに当てはまるような気がする。

政権も国際情勢も気象も若者の遊びも携帯電話も、そして自分自身も、この25年間、
何も変わっていないように思っていても、“気がつけば”グラデーションのように原型を留めないほど変わって
しまっているのだ。
たとえ光陰矢の如しであっても、やっぱり25年という年月は、それなりの意味や重さを
持っているのだろう。

そんな番組を視るのを途中でやめて、午後2時過ぎから墓参りへ行って来た。

先日の日記にも書いたが、今回は子ども達だけでなく、ワタシの両親も一緒に。
父方、母方の先祖墓以外にも、今まであまり参ることがなかった遠い親戚の墓にも墓参した。

25年前、ワタシは20歳だった。

当時、ワタシはコンビニの深夜のアルバイトに精を出していた。
年末年始も帰省せず、実家から遠く離れたコンビニの狭いカウンターの中で過ごしていた。
故郷に帰って両親に自分の元気な顔を見せることよりも、懐かしい幼なじみと再会すること
よりも、年末年始だけ1.5倍になる時給を最優先させていたのだ。
そんな当時のワタシの脳内に“年末の墓参り”という発想なんて、どんなに最新のCTスキャンを
使用したところで、きっとどこにも見つからなかったに違いない。

そんなワタシだったのに、今年は“みんなで墓参りしよう”と両親や子ども達に自ら提案し、
そして実際に墓参りを終えたら、なんとなくホッと落ちついた気持ちになっている。

やっぱり、四半世紀が過ぎているのだ。
コメント
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