りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

ゆく命と、くる命。

2013-12-09 | Weblog
先週の土曜日。

友人のご尊父が亡くなられたので、お通夜に行って来た。
その友人とは小学校の時の同級生で、ずいぶん音信不通だったのだけど、
数年前に再会して、それ以来、また昔のように付き合いがはじまった。

同世代の両親の葬式・・・ここ数年で、もう数えきれないほど参列した。

今では、両親のどちらかは鬼籍に入り、片親になっている友人の方が圧倒的に
多いような気がする。
それを考えれば、病弱といえども両親ともに健在なワタシは、本当の悲しみや
寂しさを、まだまだ体験していないのではないか?と思ってしまう時がある。

友人は、親の後を継いで、会社を経営していた。
つまり亡くなったご尊父は、会社組織でいえば、先代の社長になる。

この土日で葬儀も終わり、ひと段落はついたかもしれないけど、おそらく
公私にわたる様々な処理や手続きで、今もまだ気の抜けない時間を過ごして
いることと思う。
どうか、一人ですべてを背負い込まないように。。。。

その友人のご尊父のお通夜に行く前に、一緒に参列する共通の友人の家に顔を出した。
今春、その友人の娘が子どもを産んだのだ。
比較的近所なのだけど、なかなか時間と都合が合わず、土曜日にやっと会いに
行けたわけだ。

ワタシは今年、44歳。
その友人は、2月生まれなので、43歳。
もう一度書くが、その友人は、43歳。
つまり友人は、43歳の身空で“祖父”になったわけだ。

初対面の友人の“孫”は、理屈ぬきで可愛かった。
本当に連れて帰りたくなった(笑)

まだ“ちゃんこ”しかできない友孫(以降、この表現で統一)とにらめっこしたり
抱いたりしていると、どうしても我が子の小さい頃を思い出す。
ワタシの子どもが友孫と同じような頃は、10年単位の過去だから、もう立派な
想い出になっている。
成長著しい今の娘や息子と過ごすのも、もちろん楽しいのだけど、こんなまるで
ペット(失礼)のような生まれたての命と接していた頃も、今とは違う種類の
楽しさがあったような気がする。

どんな想い出もそうなのだが、厄介なのは、そういうことに気づくのは、すべてが
過ぎ去って完全な過去になった時なのだ。

まだ22歳の友人の娘(友孫の母)に“子育て、大変か?”と尋ねた。
娘は、“たいへん”と即答した。
でもその表情に、後悔や必要以上の疲労は浮かんでいなかった。

ゆく命と、くる命。

先週の土曜日は、その両方に触れることができた日だった。

コメント (2)
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