小学生の高学年のころに、ある方から本を何冊か頂いた。
その年齢には、まだ早い、志賀直哉・夏目漱石の本を数冊。
文庫本なのに、格調高い装丁で、何しろ、ケースがついている、子供ながらに背筋がぴんと伸びる思いをしたものだ。
薄いオリーブグリーンに、エジプトの象形文字と古代ギリシャのメダルをあしらったデザイン。
中の紙は、真っ白でつるつるとした上等なもので、細かな文字が整然と並んで印刷してある。
旺文社文庫、昭和40年代の前半の出版物だ。
本に対して畏敬の念を抱いていた、最後の時代の本だろう。
本を自分の蔵書として装丁しなおす文化の無い日本では、出版されたものをそのまま持ち続ける。
だから、本の装丁には作家や出版社が趣向を凝らしたものだ。
さすがに、革張りを見かけたことはないが、布張りの表紙を持つ単行本は存在する。
もっとも、最近見かけたことはないのだが。
どうも、作家になって出版するのが昔に比べて容易になったのか、出版技術が進んで大量生産できるせいなのか、本の作りが簡単になってきたように思われる。
見た目の軽さが災いしてか、本の持つ威厳が失われて、本を読む人の心持も品位がなくなってきている気がする。
かの旺文社文庫は、本を読む自分の自尊心をくすぐってくれた。
単純なもので、同じ文庫本でも、現在にも見られるようなぺらりとした表紙カバーのついた本とでは、格の違いが明らかで、少し自分が上等なものになった気分を味わった。
そんな上っ面な気持ちでも、本を読む原動力になったのだから、あながちきちんとした装丁を成された本の魔力、軽んじるべきではないだろう。
もっとも、デジタルな世界の今においては、布張りの本を所有し読むよりは、モバイルを持ってフェイスブックでの交流をしたり、スマートにデジタル書籍をたしなむほうが、クレヴァーとされるのかもしれない。
しかし、真の優美さとは、利便性を追っていては得られない。
あらゆるものへの敬意をもち、自分に誇りを持ってこそ、知性と品位を併せ持った人となりえるのだと思う。
子供だった頃の自分に旺文社文庫を譲ってくれたあの方に、感謝の念を忘れたことはない。
かれこれ20年近く前に山形へ転居されたと聞いた。
今もご健在であることを祈る。
その年齢には、まだ早い、志賀直哉・夏目漱石の本を数冊。
文庫本なのに、格調高い装丁で、何しろ、ケースがついている、子供ながらに背筋がぴんと伸びる思いをしたものだ。
薄いオリーブグリーンに、エジプトの象形文字と古代ギリシャのメダルをあしらったデザイン。
中の紙は、真っ白でつるつるとした上等なもので、細かな文字が整然と並んで印刷してある。
旺文社文庫、昭和40年代の前半の出版物だ。
本に対して畏敬の念を抱いていた、最後の時代の本だろう。
本を自分の蔵書として装丁しなおす文化の無い日本では、出版されたものをそのまま持ち続ける。
だから、本の装丁には作家や出版社が趣向を凝らしたものだ。
さすがに、革張りを見かけたことはないが、布張りの表紙を持つ単行本は存在する。
もっとも、最近見かけたことはないのだが。
どうも、作家になって出版するのが昔に比べて容易になったのか、出版技術が進んで大量生産できるせいなのか、本の作りが簡単になってきたように思われる。
見た目の軽さが災いしてか、本の持つ威厳が失われて、本を読む人の心持も品位がなくなってきている気がする。
かの旺文社文庫は、本を読む自分の自尊心をくすぐってくれた。
単純なもので、同じ文庫本でも、現在にも見られるようなぺらりとした表紙カバーのついた本とでは、格の違いが明らかで、少し自分が上等なものになった気分を味わった。
そんな上っ面な気持ちでも、本を読む原動力になったのだから、あながちきちんとした装丁を成された本の魔力、軽んじるべきではないだろう。
もっとも、デジタルな世界の今においては、布張りの本を所有し読むよりは、モバイルを持ってフェイスブックでの交流をしたり、スマートにデジタル書籍をたしなむほうが、クレヴァーとされるのかもしれない。
しかし、真の優美さとは、利便性を追っていては得られない。
あらゆるものへの敬意をもち、自分に誇りを持ってこそ、知性と品位を併せ持った人となりえるのだと思う。
子供だった頃の自分に旺文社文庫を譲ってくれたあの方に、感謝の念を忘れたことはない。
かれこれ20年近く前に山形へ転居されたと聞いた。
今もご健在であることを祈る。