rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

”チロ”ふたたび

2011-06-06 23:21:27 | 生き物たち
今日も、湿度は低めだったけれど、晴れて暑い7月中旬の陽気だった。
夕方、物を取りに庭に出た時のこと。
旧母屋の玄関前に、なにやら妙な物影があるのを、目の端に入ってきた。
注視して見た。
「うひゃー!ヘビだぁ!」
なんと、ホースよりも太く、体長2メートル以上はあろうかというアオダイショウが、のたりといるではないか。
「もしや、チロ!?」
そう思いながらも、よたよたと家人のいる台所へと戻った。
「大きなヘビが、古い家の玄関前に出たー」
それを聞いた子供たちは、一目散にヘビの元へ。
釣られて家人もヘビを拝みに出て行った。
子供たちは、じっくりと観察してもどってきた。
「とてもかわいかったよ、目が真っ黒でビーズのようにピカピカ光っていたよ!」
そう、チロの目はかわいい。
以前にも書いたが、ベランダでチロと遭遇し、命名した時に、まじまじと見てしまったあの円らで黒く艶やかな目だ。
あれから5年が経ち、チロも立派に成長したみたいだ。
チロは、我が家の守り主として、今日も見回ってくれていたところだったのかもしれない。
写真を撮る気持ちにはなれないのは、やっぱりチロがヘビだから。
それでも、「名前」をつけると、どことなく親近感が湧くから不思議だ。
やはり、「呪」(まじない)の一種なのだろうか。

梅棹忠夫「幻の書」、ETV特集

2011-06-06 00:44:43 | 随想たち
Eテレ「続・放射線汚染地図」のながれで、「暗黒のかなたの光明~文明学者 梅棹忠夫がみた未来~」を見た。
生態・民族・文明学者の梅棹忠夫が、未刊に終わった「人類の未来」の資料を基に構成された番組。
作家・博物学者の荒俣宏が、宗教学者・山折哲雄とともに、梅棹忠夫の人類悲観論から「光明」に至るまでの思想の流れを読み解く。

人は、ある事象において関連のありそうなものを引き寄せて物事を考える傾向がある。
このたびの大震災とそれに伴う原発事故が、もちろんその事象である。
たしかに、梅棹忠夫の危惧と大きく重なり合うことも事実。
それは、梅棹忠夫が、世界各地の歴史・習慣・宗教・社会形態など実際に足を運び観察して得られた成果の集積から、導き出された予見である。
人間の思考や行動パターンは、ほぼ万国共通とのこと。
人間を人間たらしめている特長に、「欲望」=「知的欲求」があり、これが人を破滅へと押しやる。
その表れの科学は、人間の「業」であって、欲望には歯止めがかからないから、人の力を超えて暴走をはじめ、結果として人が科学=文明に翻弄され破滅するというのだ。
歴史は繰り返し、今では本当に人智にあまる代物を生み出してもなお、楽観的に文明を謳歌している、もう瀬戸際の状況に。
地球サイズで見たならば、まだ極東の一部なのだろうが、始めの雛形に過ぎない。
ともかく、梅棹忠夫は人の業を客観視して、暗澹たる気持ちになったのだ。
それでも、「人類の未来」の構想メモの最後に、「光明」と書き添えたのはどういう考えからなのかと、番組の後半をあてて、山折哲雄たちは考察する。

山折哲雄は、宗教学者らしく西欧のユダヤ・キリスト教思想とアジアの仏教・法華経の譬諭品(ひゆぼん)・三車火宅の思想の対比から、「光明」の出現を予想する。
選民思想・生き残り思想の究極のモデル「ノアの箱舟」思考では、今までの文明を築き上げた西欧思想によって歪んだ限界がある。
文明・科学・技術は、もうおとなしい羊ではない状況になり、いまや荒ぶる牙を持った自然と同じく人を無残にも傷つける。
だから、手なずけるではなくて、共に共生の道を歩む思想のアジアンティックな叡智が生んだ、譬諭品・三車火宅の精神に則り、自然・文明と共に生きていくてだてを模索しなくてはならないと。
他者によって導かれるのではない、個人にねむる理性・良心を揺り起こし、人間の業を律していくべきだと、それが「光明」となりえるだろうというのだ。

はたして、梅棹忠夫はそう思ったであろうか?
そんな難しいことを、人は出来るのだろうか?
ただ、希望は捨てたくなかったのではないだろうか?
もし死後の世界があるとするならば、今頃苦笑しているかもしれない。
「オレは、本気で”光明”があるなんて思っちゃいないよ。だけど、可能性がゼロとも思いたくなかったんだ。」と。