rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

内気な少年が一人そっと口ずさむ、エリオット・スミス”XO”

2011-06-27 21:57:45 | 音楽たちーいろいろ
雨がそぼ降る肌寒い日には、エリオット・スミスの歌声がしっくりと来る。
洗濯物がぶら下がっている、穴倉か秘密基地のようなアトリエで、ボリュームを押さえて聴いてみた。
繊細で傷つきやすい少年が、傍らでそっと歌を口ずさむかのようだ。
歌には、ときどき干草から立ち昇る太陽の香りと暖かく乾いた光が顔を覗かせる。
でも、基調は、そぼ降る雨や木立に立ち込める霧なのだ。

彼の歌は、きつく辛いものではない。
しかし、時として聴くとやりきれない気持ちに誘い込まれてしまうこともある。
”XO”、半年前には、とても聴いていられなかった。
思い切って、一昨日からまた聴き始めた。
今回は、大丈夫。
少年は、隣に並んで歌を口ずさんでいるから。
あの、洗濯物が、鍾乳石かメタセコイアの枝が垂れ下がってる森のようなアトリエで。

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犬養道子「こころの座標軸」、”善い種子”は神からの公平なプレゼント

2011-06-27 00:50:46 | 本たち
前に、小川国夫の「弱い神」について書いた。
でもなんとなく後味の悪さと引っ掛かりが、抜けない棘のように心に刺さって、始終ちくちくいらいらと付きまとっている。
きっと、小川国夫の信じた神を、ある一辺で切り取り、決め付けてしまったせいなのだ。
そして、人間を救いのない悪しき者と、絶望しているせいなのだ。

犬養道子の「こころの座標軸」には、罪深き人間と愛すべき人間の両方をもってしても、なお希望を捨てない姿勢を貫こうという決心が書かれていた。
彼女は、それこそ歴史の渦の間近にいて、つぶさに人の愚行を見てきた。
長じてからは、世界各地で繰り広げられる紛争地域に出向き、凄惨な状況を肌で感じてきた。
いくら「神」を信じているとはいっても、この人間の浅ましくも愚かな仕業を見て、人間をまた人間を創造した神を捨てなかったものだと、その信仰心の強さに驚嘆する。
ただの情報だけでも、絶望しきっている自分は、なんと弱いことか!
彼女は、誰の心にも初めから備わっている”良心”を信じているから、これに全ての希望を見出していられる。
それは、「”善い種子”は、神からの公平なプレゼント」というのに、表されている。
その”善い種子”はとても小さくデリケートだが、生命力旺盛で、きちんとした環境で芽吹かせ大切の育てれば、素晴しい世界をつくり、その担い手になるはず。
だから、よい未来を望むならば、いまを生きる者たちが、この小さき種子を育まなければならないと。

キリスト教徒のカトリック信者でもある犬養道子は、教会で祈る。
でも、プロテスタントの教会でも、祈りを捧げる。
イスラム教徒や仏教徒も、尊重する。
目には見えなく、実証できない”神”に、尊い祈りを捧げるものたちを、愛しんでいる。
なぜなら、”神”は”愛”からだ。
善きも悪きも全てひっくるめて、”神”が創造した人間。
神は、大いなる何かなのだ。

古来、バビロニアのハンムラビ法典にある
      ・殺してはいけない
      ・父母をあしざまに扱ってなならない
      ・姦してはならない
      ・盗んではいけない
      ・嘘いつわりを言ってはいけない
      ・他人の持ちものを奪おうとしてはいけない・・・・・・
どこの誰にも共通することを、人類最古で最初の成文法として、石に刻み込ませた。
裏返せば、自分がされたら嫌なことの列記だ。
しかし、この単純素朴なことが、出来ないからこそ、忘れない為にもあえて言葉で刻み込まなくてはならなかった。
不完全な人間だからこそ。

梅棹忠夫の「光明」も、そんな不完全な人間が誰しも持っている小さな”善い種子””良心”の存在に、それを見出し期待したのだろう。

犬養道子も梅棹忠夫も、それから小川国夫も、小さな”善い種子”に神の存在と恩寵を見たのかもしれないと、自分の心に刺さった小さい棘が、絶望している心にささやいているのだろうか。
それが、冷たく冷え切っている心を刺激して、ちくちくいらいらと感じているのだ。