rock_et_nothing

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サン・テグジュペリ”人間の土地”

2011-11-28 16:39:17 | 本たち
サン・テグジュペリ”人間の土地”との付き合いは、かれこれ四半世紀以上にもなる。
気が向くと手にとって幾度となくこの本に親しんだ、いわば親友のような存在。
そして今また、ゆっくりと読み返してみた。

人が人生を生きていく中で、自分の存在意義を明確に持ち永らえることは、意外と難しい。
いや、存在意義を見出すことすら困難なのだ。
ましてや、今日のように、グローバリズムが世界を席巻し、高い商品価値のある人間以外、ただ生きていくことすらできにくくなってきている世の中においては。
自国に居てさえ、商品価値が低いとされる人間は、日々の糧を得る仕事に付くのも難儀なのだ。
人の存在意義とは、自分の存在が他者に認められ、世界の一部として機能する実感を持ったときに感じられるのだと思う。
たとえそれが、ジャガイモの一塊を育て上げ収穫するにも、ネジの一本を刻むにしても、新たな治療法を発見するにしても、その自分の成した事が世界の一部になる実感を得られれば、絶対的価値は同一であろう。
人は、各々に割り振られたことに従事し、責任感を持って成し遂げていくのは、崇高で賞賛に値すべきではないだろうか。
しかし、誰しもいわゆる天職に与るとは限らなく、その幸運は極めて稀だ。
それでも、何かしらの役割を受け持って、それをまっとうしていけるならば、自分の存在意義を認められるだろう。
それが、得られない場合、またはたやすく剥奪されてしまう場合、掛け値なしの存在理由がなくなりはしないか。

もっとも、そのような状況は、今に限ったことではなく、いつどこの国にも存在してきた。
人は、なかなか変われるものではないのだ。

この”人間の土地”の最後に、こうある。
「ぼくがいま悩んでいるのは、施米も治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。
   精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。   」
人が、その存在意義を見出すためにも、世界を構成する小さなセルとしてだけでなく、心を持った知性としてあるべきなのだ。
世は移ろい、科学技術は躍進しても、人のあるべき理想にはどうしても近づけない。
そして、”虐殺されたモーツァルト”は、永遠と生み続けられている。

悲観ばかりしていても始まらない。
可哀想なモーツァルトを少しでも救えることはないのか、まずは自分の子から隣人から、心を砕いてみよう。
今日も、未来の人たちが、我が家にやってくるのだから。