「世界ふれあい街歩き」今回をもって総合での放送終了となった。
残念極まりないのだが、放送局の意向に文句を言っても始まらないのだろう。
気を取り直して、中国の江蘇省揚州は、隋の時代から交易で栄えてきた運河の街。
唐の時代には国際貿易港として、清の時代には塩の貿易で栄華を誇った。
また、日本に馴染み深い、鑑真の生まれ故郷でもある。
旧市街の東関街は、暗灰色の石造りの街並みに、赤い提灯が軒先に点々とぶら下がる美しい景観。
ここは、「巷城」(ちまたじょう)といわれている。
「巷城」は、小道の多い町の意味。
人がやっとすれ違えるほどの道幅なので、ここ専用にとてもコンパクトな消防車が誂えられた。
ところによって、この”巷”、「一人巷」(ひとりちまた)という激細の道がある。
清の時代に、人口が300万人に激増して、住居を拡充したためらしい。
ここで、建物の角を削り取っている箇所がみられる。
それは、角で人や自転車などがぶつかったり、曲がりやすいようにとの知恵と思いやり。
そして、巷は、道としての機能ばかりではない。
生活の場でもある。
路上には、洗濯物が天蓋のようにはためく。
食堂は、巷の広いところを商いのスペースとして使い、なにかの店主は、路上で商品の受け渡しをし、あるいは商品の展示場兼作業場として使っている。
この巷の一角のところどころにある共同井戸は、水道が引かれている家庭でも、頻繁に使われている。
水温が一定の井戸は、冬温かく、夏冷たいので、重宝なのだという。
洗濯する人、野菜を洗う人、井戸口にぴったり合うマイバケツを持参して、思い思いに利用する。
社交場としても、巷は大切な場を提供し、親子の躾の場でもある。
嫁入り前の娘に家事を教えている母親は、「娘は肌着と同じ」といっていた。
どうやら、特に母親にとって一番身近な存在という意味らしい。
この街では、巷に人生が集約されているように感じられた。
ところで、巷で商う麺屋の店主だったか、「食は揚州にあり」などとそらぶいていた。
特に、塩の交易で揚州が隆盛を極めた頃、皇帝に献上する為に作られた宮廷料理の代表でもある「満漢全席」のもとが起こったくらいだから、そう自負したくなる気持ちもあるだろう。
だからなのか、揚州大学には料理学部がある。
中国料理ばかりではなく、西洋料理に製菓、技術・歴史・栄養学も学べる。
ここで中華料理の基礎とも言える、「揚州チャーハン」、3つのポイントがある。
①材料 卵・ハム・ネギ・川エビ
②切る 均等に火が入るように、同じ大きさに切る
③炒める 卵を半熟程度に火を通したらご飯を入れ、飯粒に卵が絡むように炒める
この大学、調理ロボットの開発もしているらしいが、今のところ実用化に時間が掛かりそうと見た。
”巷”が入り組み込み入ったこの街の狭い住居には、浴室設備が整っていない。
そこで、銭湯がある。
100年前から営業する銭湯の老舗はボイラーを備え、商人などの裕福な人の場所だった。
3種類の浴槽があり、一番目は、すのこのようなベッドの上に寝転び高温の蒸気で体を蒸す。
二番目は足を丁寧に洗う場所。
三番目に湯船に浸かり、他の入浴者と情報交換などをする社交場の役目も果たす。
ほかに、あかすりのようなマッサージのサービスも受けられるそうだ。
鑑真が住職をしていたという「大明寺」は、1500年の歴史をもつ”律宗”の寺。
鑑真の貴重な教えの大半は、日本にあるので、その教えを学ぶ為に日本語の習得に励んでいる。
なんとテキストが、「となりのトトロ」として使われていたのには、驚かされた。
揚州、内陸の港町。
ゆったりとした河や運河の流れが人の気質をおおらかにし、張り巡らされた巷が人情を細やかにした。
誰もが皆、この街を愛している。
しかし、経済発展の荒波が確実にこの街にも押し寄せている。
陽が落ちて、街も赤い提灯に明かりが灯ると、古からの揚州が浮かび上がり蘇る。
それは、彼岸の街のようにも見えた。
どうか、揚州の人々が、巷への愛と街への誇りを失わないように祈ろう。
たとえ、杞憂といわれようとも、経済の大波に飲み込まれないところはないこの現実の世界だから。
残念極まりないのだが、放送局の意向に文句を言っても始まらないのだろう。
気を取り直して、中国の江蘇省揚州は、隋の時代から交易で栄えてきた運河の街。
唐の時代には国際貿易港として、清の時代には塩の貿易で栄華を誇った。
また、日本に馴染み深い、鑑真の生まれ故郷でもある。
旧市街の東関街は、暗灰色の石造りの街並みに、赤い提灯が軒先に点々とぶら下がる美しい景観。
ここは、「巷城」(ちまたじょう)といわれている。
「巷城」は、小道の多い町の意味。
人がやっとすれ違えるほどの道幅なので、ここ専用にとてもコンパクトな消防車が誂えられた。
ところによって、この”巷”、「一人巷」(ひとりちまた)という激細の道がある。
清の時代に、人口が300万人に激増して、住居を拡充したためらしい。
ここで、建物の角を削り取っている箇所がみられる。
それは、角で人や自転車などがぶつかったり、曲がりやすいようにとの知恵と思いやり。
そして、巷は、道としての機能ばかりではない。
生活の場でもある。
路上には、洗濯物が天蓋のようにはためく。
食堂は、巷の広いところを商いのスペースとして使い、なにかの店主は、路上で商品の受け渡しをし、あるいは商品の展示場兼作業場として使っている。
この巷の一角のところどころにある共同井戸は、水道が引かれている家庭でも、頻繁に使われている。
水温が一定の井戸は、冬温かく、夏冷たいので、重宝なのだという。
洗濯する人、野菜を洗う人、井戸口にぴったり合うマイバケツを持参して、思い思いに利用する。
社交場としても、巷は大切な場を提供し、親子の躾の場でもある。
嫁入り前の娘に家事を教えている母親は、「娘は肌着と同じ」といっていた。
どうやら、特に母親にとって一番身近な存在という意味らしい。
この街では、巷に人生が集約されているように感じられた。
ところで、巷で商う麺屋の店主だったか、「食は揚州にあり」などとそらぶいていた。
特に、塩の交易で揚州が隆盛を極めた頃、皇帝に献上する為に作られた宮廷料理の代表でもある「満漢全席」のもとが起こったくらいだから、そう自負したくなる気持ちもあるだろう。
だからなのか、揚州大学には料理学部がある。
中国料理ばかりではなく、西洋料理に製菓、技術・歴史・栄養学も学べる。
ここで中華料理の基礎とも言える、「揚州チャーハン」、3つのポイントがある。
①材料 卵・ハム・ネギ・川エビ
②切る 均等に火が入るように、同じ大きさに切る
③炒める 卵を半熟程度に火を通したらご飯を入れ、飯粒に卵が絡むように炒める
この大学、調理ロボットの開発もしているらしいが、今のところ実用化に時間が掛かりそうと見た。
”巷”が入り組み込み入ったこの街の狭い住居には、浴室設備が整っていない。
そこで、銭湯がある。
100年前から営業する銭湯の老舗はボイラーを備え、商人などの裕福な人の場所だった。
3種類の浴槽があり、一番目は、すのこのようなベッドの上に寝転び高温の蒸気で体を蒸す。
二番目は足を丁寧に洗う場所。
三番目に湯船に浸かり、他の入浴者と情報交換などをする社交場の役目も果たす。
ほかに、あかすりのようなマッサージのサービスも受けられるそうだ。
鑑真が住職をしていたという「大明寺」は、1500年の歴史をもつ”律宗”の寺。
鑑真の貴重な教えの大半は、日本にあるので、その教えを学ぶ為に日本語の習得に励んでいる。
なんとテキストが、「となりのトトロ」として使われていたのには、驚かされた。
揚州、内陸の港町。
ゆったりとした河や運河の流れが人の気質をおおらかにし、張り巡らされた巷が人情を細やかにした。
誰もが皆、この街を愛している。
しかし、経済発展の荒波が確実にこの街にも押し寄せている。
陽が落ちて、街も赤い提灯に明かりが灯ると、古からの揚州が浮かび上がり蘇る。
それは、彼岸の街のようにも見えた。
どうか、揚州の人々が、巷への愛と街への誇りを失わないように祈ろう。
たとえ、杞憂といわれようとも、経済の大波に飲み込まれないところはないこの現実の世界だから。