rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

メキシコの色彩の呪術師、ルフィーノ・タマヨ

2012-02-21 00:11:54 | アート

子供の遊び

ルフィーノ・タマヨは、20世紀のメキシコを代表するの画家の一人。

メキシコの強い光の中で輝く色彩を、彼の絵はとどめる。
生命感が漲るその傍らに、濃く暗い乾いた死が張り付く。
一見可愛らしく見える絵に隠れる不気味さ。
グロテスクな中にも垣間見えるユーモア。
相反するものが同居している、不思議な画面。
彼に流れるメキシコ先住民族の血が、呪術の力を持っているのか。
絵を観たその瞬間に、彼のまじないにかかってしまうようだ。
彼の使うローズピンクは、特に強い力があるように思える。
忘れられないのだ。
この色が、ときどきフラッシュバックする。
いてもたってもいられず、タマヨの画集を手に取りページをめくる。
きっと、初めて彼の絵を観たとき既に、呪術をかけられていたのだろう。
これからも、彼の呪術が解かれることはない。
あるパルスが脳内をめぐるたびに、自動的に画集を開くのだ。
きっと。


男とその影


大銀河

シャッター街、日本中にゴーストタウン予備軍発生中か?

2012-02-19 23:28:33 | つぶやき&ぼやき
かつては県下第二位として栄えた街の繁華街を、通った。
駅前再開発と称して建てられた、大型ショッピングビルが、寂しく聳え立っていた。
その周りに、かつて商店街として活気があった店舗は、日曜の午後だというのに半分以上営業していないのだろう、シャッターが下ろされている。
片側一車線あれば広いような、そんな道が、くねくねと縦横無尽に走る。
地方都市の成人一人に一台自動車を保有する自動車社会では、広い道と広い駐車場が好まれる。
自動車で目的地に乗り付けて、しかも、なるべく歩かないように入り口近くに駐車して、用を果たしたいと思う風潮。
だから、目的地駐車場がないか不足していると、不便だといって、そこへは足が向かなくなるのだ。
こうして、いわゆる旧市街は、寂れていく。
自分が若い頃住んでいた街も、往時の賑わいは全くない。
今日通り過ぎた街も、同じ道を辿っているのだろうと思い眺めていた。
郊外型大型店は、ご存知の通り大変便利である。
店の構成は、大抵どこも共通しているらしく、何十キロ離れている店舗に行っても、戸惑うことなく買い物できるから、安心感がある。
しかし、面白みは全くない。
自分がへそ曲がり変人系だからそう思うのか、物を探して歩くワクワク感が得られない。
知らない路地を進んでいく冒険心を、満たしてはくれない。
快適な買い物をするにはこうあるべきとあらかじめ用意されたコースを、おとなしく従い歩くのは、真っ平ごめん蒙る。
商店主の個性と意気込みがある、そのような街で買い物をしたい。

また、人口減少が当たり前のように予測できたはずなのに、次々と街を拡大拡散するのは、ただの消費行動。
老朽化して耐久性に問題がなければ、その建物を利用して次に生かす。
どうにもならないものは取り壊しても、なるべく無闇に建てるのではなく、50年100年の先を見据えた都市計画に従い、街を再生させていくべきだろう。
シャッターを下ろしたままの旧市街は、次第にゴーストタウン化。
同心円状に広がり、または飛び地のように出来た町は、今から50年と経たないうちに、古くなり利用価値がなくなったとか、そこに住み着いた世代がいなくなり、空き家が点々と増えるだろう。
次から次に建物を立て、打ち捨てて他へまた建てて移っていく。
取り壊し、整地する費用を惜しむ、無責任な人たちによって、ゴーストタウンは製造されるのだ。
時々ある廃墟は、物寂しく美しかったりもするが、廃墟だらけでは何の良さもない。

わざわざ切り開いた場所にある新興住宅地をみると、その何十年後に憂いを覚える。
そうしたところに住居を構えるのには、同情できる理由はある。
土地の値段が、まず高すぎる。
一戸建てをもつのが、理想とされている。
賃貸住宅の家賃が高いから、住宅ローンと天秤かけたくなる。
などなど・・・
社会制度、経済システム、人生の理想形、様々な要因が絡み合っているので、どこかを変えれば収まるものではないけれど。

人の一生で、暮らす場所や住む家は、かなり流動的。
特に都市部に住む場合は、人生のステージに合わせた住環境に変えやすい社会にすると、既存の街が上手く活用できるのではないかと考える。

シャッター街を見て、無性に悲しくなってしまった一日であった。

過ぎた時代を隣人としてともに生きる街、イタリア:サルデーニャ島 カリアリ

2012-02-18 00:37:03 | 街たち
「世界ふれあい街歩き」イタリアのサルデーニャ島 にある古い港街カリアリ。
ローマからフェリーで14時間のところにあり、3000年以上昔、ローマ人が来る前より、独自の文化を花開かせてきた街だ。
長い歴史を持つ街らしく、建物の様式も多様で、壁の色をジョンブリヤン、サーモンピンク、ライトレッドなどに塗り分け、古くいかめしい扉との対比が楽しい。

遺跡も、あちこちにたくさん残っている。
古代ローマの地下採石場は、音響がよく、コンサートを催して古代に思いを馳せ、一世紀から二世紀にかけて建造された古代ローマの円形闘技場は、夏に劇場として利用できる。
ヌラーゲ・ス・ヌラージは、カリアリ近郊にある4000年以上前の遺跡。
サルディーニャ島に7000以上もあるといわれているヌラーゲ、要塞とも住居ともその用途はわかっていないらしい。

遺跡のほかにも、今なお根付く文化がある。
ラウネッダスは、サルディーニャ特有の葦で奏者が自ら作る伝統楽器の葦笛。
3本同時に演奏するので、音が途切れない、鼻から息を吸い口から吐く循環呼吸は、古代エジプト伝来の演奏法。
3本のうちの長い一本はベース音、他の二本でメロディーを奏でるのだ。
この島の人にとってラウネッダスの音色は、心の音楽。
サルディーニャ人を強く意識し、誇りに思うのだという。
バレストラは、中世の武器で、大きなボウガンのようなもの。
カリアリは、イタリア全国大会で2位になるほどの強豪チーム。
弓を引くよりも巻き上げる駆動部分には、1500キログラムもの力が掛かり、太い鉄の矢を物凄い勢いで飛ばせる。
矢が的に突き刺さるときは、ドッスッという重い音が響き、その威力を見せ付けれくれる。

街の中には、アンティーク家具の修理屋が、店を構えている。
店というよりも、工房、作業場といったほうが近いかもしれない。
主の年配の男性は、1700年代のサルディーニャ製の椅子が、ここで一番古いものだと自慢する。
元の色に塗りなおし、蘇らせる予定だという。
その作業場に、見事な彫りのベッドのヘッドボードを指して、バラと貝殻が彫刻してあるが、これを作りこむのに6ヶ月は掛かるだろうと、物への愛着と作り手への敬意を語っていた。
カリアリには、使い捨てではない、昔のものを直しては使うものを大切にする習慣があると、誇らしげに話す姿は、自分達の文化への自負心がにじみ出ていた。

中世の衣装を纏った人が、歩いていると、時代をタイムスリップしたかのよう。
その彼らの行く先は、中世レストラン。
中世の格好をして中世の料理で、自分達のルーツを忘れないように、みなで楽しく飲み食いし、歌う。
「黒ワインの歌」は、カンピタ地方のワインの歌で、美味しいワインに感謝する歌なのだそうだ。
サルディーニャ人は、大のワイン好き。
ワインの一大産地でもある。
この島に古くからあるブドウを使ってのワインもあるそうだ。
港近い倉庫では、ワインの量り売りをしている。
1リットル0.85ユーロから、度数の高さとブドウの品種で値段が決まるらしい。
客が持ち寄った容器に、ガソリンの給油のようにワインを注ぐ豪快な売り方は、いかにワインが多く消費されているかを物語っている。

サン・ベネデット市場は、鮮魚ではイタリア随一の売り場面積を誇る。
日本でも馴染みがあるカラスミは、ここの特産品。
すりおろしたカラスミを、茹でたパスタにたっぷりとふりかけからませて食べる。
塩気がマイルドなので、たくさんかけても大丈夫なのだそうだ。
あと、値は高めだが、ウナギも食べる。
ウナギのパナーダは、家庭料理。
ぶつ切りウナギ、ジャガイモ、ニンニク、パセリ、ドライトマトをパイ生地で包んで焼き上げる。
ウナギの味がパイ生地にしみこんで、とても美味しいのだが、ボリューム満点なので、1個食べれば満足だ。
ほかに、ホシザメも食べる。
皮をむいたホシザメを茹で、胡桃のペーストと一緒にオリーブオイルで炒め、12時間マリネしてから食べるらしい。
これは、想像できない味。

映像で見る限りでは、旧市街とはいえ、再開発などで街が、きれいに取り繕われてはいないようだ。
イタリア本島から離れているから?
それとも、イタリアは、ヨーロッパバブルの仲間入りをしなかったのか。
時々人は、自分の利点を忘れることがある。
確かに、そこに暮らす人たちは、便利な最新式の住環境に憧れる。
とくに、時間に終われて多忙を極めるならば、なおのこと。
それでも、使えるものならばそのままに、または修理や改修をして使い続けられたなら、そのほうがいい。
文化と、それをなした先人の労に報いる為にも。
不自由さをあえてし、しのぶことで培われる心のゆとり。
その様な、真の豊かさをカリアリの人は持っているのだろう。
過去を過去として葬らないで、今を共に歩んでいく。
積み重なる地層は、下の層が上を支えているのだ。
切り離すことはできない。
ましてや、なかったことにして忘れてしまうなどとは。
自分達のルーツを忘れてはいけないのだ。
今夜もまた、カリアリは、その様なことを教えてくれたのであった。

雪景色 2012/2/17

2012-02-17 15:32:31 | ねこ








昨夜9時ごろから、本格的に降り出した雪は、ときどき小休止をはさみながら明け方まで降り続いた。
朝の7時前、厚い雲が空を覆っていて、まだどんよりと薄暗い。
子供は、雪が大好きだ。
小さい人は、食事と身支度を済ませ、外へ飛び出していった。
まだ、人の足跡がついていない雪は、ベルベットのように美しい。
カメラ片手に、小さい人の後を追う。
中くらいの人の声が、その後からさらに追いかけてくる。
”足跡をそこらじゅうにつけるんじゃないぞー”
誰もが、積もったままの雪を愛している。
コンクリートの玄関先は、少し凍りついていて、危なっかしい。
そろりそろりと歩く先に、ねこの姿。
冷たい雪は、嫌いだろうに。
きっと、みんなの弾んだ声を聞きつけて、様子を見に出てきたのだ。
こちらを見て、くるりと向きを変えた。
そして、ねこは、一歩一歩ゆっくりと、雪の上を歩いていく。
雪ではしゃぐ人のことを、半ば呆れながら。

10時ごろから射しだした太陽に光で、雪はどんどん溶け出した。
今では、北側の屋根の雪も、ほとんど消えてしまった。
いくら寒くても、春の雪なのだ。
残念に思うのは、子供たち。
雪で、一喜一憂する姿、いつまで続くのやら。

ねこは、乾いた居心地のよいところで甘い眠りを貪っていることだろう。
雪なんか、真っ平ごめんとばかりに。

おりがみ

2012-02-17 00:13:03 | 趣味たち
中くらいの人が、最近折り紙に凝っている。
連鶴を折ったり、込み入った折の猫に挑戦したりしている。
中くらいの人は、周期的に折り紙に夢中になる。
将棋やチェスのボードゲーム、小学生の中学年あたりまでは、カーペンターブロックでドラゴンなどを作ったりもしていた。
以外に手先は、器用なほうらしい。

自分も、折り紙に熱中していたときがあった。
病気で入院生活をしていたときに、看護学生の方に教えてもらったパンダと開閉できる番傘は、いったいどれくらい作って人にプレゼントしていただろう。
それから、多面体。
これは、今でも作り、そこここに飾って眺めるくらい好き。

また、折り紙には、コレクションする楽しみがある。
千代紙、両面折り紙、スケルトン素材の折り紙、鏡面加工の折り紙、たくさんの種類がある。
中くらいの人も似たのか、いろいろな折り紙を集めては、ランク付けをして楽しんでいる。
もちろん、気に入った折り紙は使うことなく、ただ眺めるもの。
そういえば、自分が子供の頃集めていた折り紙は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
引越しをしたり、前へ進む為に大切にしていた物たちとあえて決別したときに、誰かに譲ったのかもしれない。
いや、思い出した、番傘や多面体を作って、友達に贈ったのだ。

そして、全く思いだせないものがある。
パンダの作り方。
何十体となく作ったはずなのに、記憶から引き出せない。
子供たちに作ってあげたいのに。
たくさんの折り紙の本にあたって調べてみても、あのパンダの作り方は載っていない。
時と記憶の海に、深く沈んでしまった。
諦めなければ、いつか思い出せるかもしれないし、作り方の本に出合えるかもしれない。
折り紙は、いつでもいつまでも待っていてくれる、控えめな隣人だから、慌てずに。