大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校ライトノベル・ライトノベルセレクト・『俺の従妹がこんなに可愛いわけがない・4』

2016-11-01 06:31:17 | ライトノベルセレクト
ライトノベルセレクト
『俺の従妹がこんなに可愛いわけがない・4』


 その夜は感動して寝られなかった。

 ちょっと大げさ。でも、三時頃までは頭の中の電気が点いたままだった。
『はるか ワケあり転校生の7ヵ月』を二時間ほどで読んだ。むろん由香里が寝てから。

 坂東はるかという子が、親の離婚で東京から大阪に転校。ひょんなことから演劇部に入り、いろいろ頭を打ちながら成長していく話だけど、これはノンフィクションだった。はるかという子の7か月が、彼女の幻想とともに描かれている。
 まず、すごいと思ったのは、親が離婚して転校までさせられたのに、ちっとも歪んでないこと。
 それどころか、はるかという子は、別れた両親の仲を元に戻そうとして夏休みに一人で南千住の実家まで戻ってみる。ところが父には、もう事実上の別の妻がいた。いったんは崩れそうになるけども、自分の望みに反した現実を受け入れ、バラバラだった両親を始め、いろんな人の心を前に向かせていく。
 それも、はるかがそうしようと思ってではなく、前向きに生きようとすることが、周囲の人間を変えていく。その中心に高校演劇があり、その中の芝居をやることが彼女の支えになる。
 そして、その支えが、いつの間にか本物になり、はるかはプロの女優になる。

 そして、坂東はるかは、その自分自身のノンフィクションの主役。

 これだけでもすごいのに、寝ようと思って布団に潜り込むと、由香里の枕許の台本に気が付いた。
 由香里は、AKRのメンバーで、映画どころかドラマにも出たことがない。出番もけして多くはない。でも、台本は何度も読み返した形跡があり、自分の出番以外も書き込みで一杯だった。
 リビングに持っていって改めて見ると、懐かしい由香里の涙のシミが、あちこちに着いていた。由香里は、小さな頃からよく泣く子で、俺……あたしは、面白半分で、半分作り話の怪談なんかしてやった。あたしが飽きると、自分で本を読んでは泣いていた。
 台本のシミは、そういうのではない涙のシミも混じっていた。

 可愛い寝顔の由香里が、とても偉く見えた……。

 あたしは、もう「俺」を止めようと思った。由香里が撮影に出かけたあと、あたしは着崩した制服をキチンとしてみた。本の中にあった「役者はナリからやのう」 コワモテのカオルから普通の薫に戻ろうと思った。

 いつもより二本早い電車に乗った。

 で、学校の校門に入る頃には、いつものカオルにもどってしまった。クラスに安西美優という気の弱い子がいる。美優は、朝早くやってくる。柄の悪い生徒達といっしょにならないために。
 廊下を歩く気配で分かるんだろう、あたしが教室に入るとギクっとして身を縮めた。
「お早う」喉まで出かけた言葉が引っ込んでしまった……。

「一ノ瀬由香里って、カオルの従妹なんだってな!?」

 あたしが、一番シカトしてる翔太がデリカシーのない声で話しかけてきた。
「ただ、従妹ってだけだ」
「夜なんか、いっしょに風呂入って、オネンネしてんだろ。カオルがなにもしねえってことねえよな?」

 ……!!!

 気が付くと、翔太が鼻血を出して吹っ飛んでいた。
「もう俺に口聞くな、ぶっ殺すぞ!」

 あ~あ、やっちまった。

 金輪際、それで縁を切ったつもりでいたけど、放課後とんでもない巻き添えをくってしまった。

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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・80『キャリー』

2016-11-01 06:13:13 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・80
『キャリー』


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内にながしているものですが、もったいないので転載したものです。


スティーブン・キングの処女作のリメイクです。

 前作はブライアン・デ・パルマ監督 シシー・スペイセク主演でした。物語の底には、キャリーが母によって押し込まれる階段下の小部屋=祈祷室=安全な場所(母にとって)=子宮。豚と血とカーニバルのシンボライズが流れているが、これは止めておきます。ちょっと嫌悪感剥き出しの解説になってしまいますから。

 S・キング原作の映画化作品は既に40本を越えています、その中で 今 何故キャリーなのか?
 製作者サイドはキャリーに込められたテーマの普遍性を語っており、前作から37年後 現在のキャリーを作りたかったと述べています。結果、ハッキリ言って焦点のぼやけた映画になっていました。

 シシー・スペイセクのキャリーはブス(女性方 ごめんなさい)で引っ込み思案の典型的な苛められっ子。その周囲に有るのは陰湿な悪意のみ。逃げ込むべき我が家は狂的宗教原理主義者の母が支配している。
 キャリーには自分の殻を打ち破る意志も力も無い。そのギリギリまで押し込められた状況の中、プロムナイトで受けた仕打ちによって 彼女は異形の怪物へと生まれ変わる、その破壊は相手かまわず、無慈悲に襲いかかる。

 対して本作は、S.N.S.でイジメが横行する現在の話である、クロエ・グレース・モレッツのキャリーは母の支配から抜けようと反抗する今の時代のハイティーンである。
 どうやら、この設定からボタンが掛け違っている。クロエが悪い訳ではない。彼女は実に見事に脚本と演出の要求を満たしている。未だ16歳だなどと信じがたい演技力です。母を演じたジュリアン・ムーアも演技派の実力を遺憾なく発揮している。
 となると、製作者の表現方法に誤りが有ったと言うことになります。前作に有った、アメリカのスモールタウンのいやらしさ・閉鎖性。渦を巻くような悪意。血まみれの残虐と転倒したカタルシス……これらが後退しています。前作が、アメリカンゴシック(18世紀末)の流れを引くスプラッタホラーであったなら、本作は思春期ホラーとでも言えそうです。 幾分おどおどしながらも普通の高校生であろうと努力するキャリーには、ちゃんと見ていて評価・理解する視線が周りに有る。
 だから、惨劇の場においても自分にとっての敵・味方を識別する。制御不能の怪物ではない。 青春の悲劇ストーリーにしたいがために、肝心のキャリーの悲しみ・怒りの深淵を埋めてしまっている。 この物語の最重要シーンはプロムナイトに有るのではなく、家に戻ったキャリーと母の対峙にあります。その前段でキャリーが異形の怪物に成りきっていなければ、ラストの悲しみが観客の胸に届きません。監督は「ボーイズ・ドント・クライ」のキンバリー・ピアース、女性監督ならではの目線を至るところに感じますが、ホラーの作法より 自らのこだわりを優先しすぎたのだと思われます。このテーマで撮るならキャリーのリメイクではなく、オリジナルにするべきでしたね。

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