秘録エロイムエッサイム・9
(促成魔女初級講座・座学編・1)
「うかつだったなあ……」
安倍青年の小さな呟きが、大きく聞こえるほど静かな山荘の中であった。
安倍が覆いかぶさって、真由がしがみついて、閃光が走ったかと思うと、ここにいた。
八畳ほどの和室で、縁側に続いた庭にはハチが、何事もなかったように日向ぼっこをしている。その周りは深山幽谷と言っていいほどの山の中である。
「あれは、なんだったんですか?」
「多分、中国の妖怪たち……」
「中国の?」
「うん、単に探りを入れに来ているだけかと思っていたけど。あいつらは実戦部隊だった」
「……あれも、あたしのせいなんですか?」
「真由くんが、南シナ海で中国の巡視船……無意識だけど沈めちゃっただろ。そこから手繰ったんだろうね。渋谷で網を張って、京都に来た時には、人知れず三条あたりに集結していた。ボクも気が付かなかった。油断だね」
「あ、助けていただいてありがとうございました」
真由はペコリと頭を下げた。渋谷からこっちのことが、少しずつ整理されて、落ち着いてきた。
「あの……安倍さんていったい?」
「総理大臣の親類」
「え?」
「じゃなくて、第八十八代陰陽師頭(おんみょうじのかみ)阿部清明。ま、日本の魔法使いの元締めみたいなもん」
「ああ、野村萬斎さんが、むかし映画でやった」
「だいたい、あんな感じ。陰ながら日本と都を守るのが、うちの家系の仕事。うちのことはおいおい知ればいい。それより君だ。いきなり第一級の敵とみられたみたいだね」
「なんで、あたしが敵なんですか?」
「きみは、ヨーロッパの魔法の正式な継承者だ。まだチュートリアルの段階だけど、磨けば、すごい魔法使いになる。そうならないうちに、君を潰しにかかったんだ。ボクといっしょだったことも災いしたね。日本の陰陽道とヨーロッパの魔法が協定を結んだように思われた」
庭の鹿威し(ししおどし)が、まるで時間にアクセントをつけるように、コーンと鳴った。
「七十年前の戦争で、京都と奈良にはほとんど爆撃の被害がなかったこと、知ってるね?」
「はい、学校で習いました。日本の敗北が決定的になったんで、文化財の多い奈良と京都は爆撃の対象から外したって」
「あれは、ボクのひい爺さんの仕事だったんだ。ああ、言わなくても分かるよ。日本の首都は東京だ。なぜ東京を守らなかったか……東京は正式には首都じゃない。ケチくさいけど法律のどこにも書いていない。天皇陛下が即位されるのも、東京じゃなくて京都の御所だ。京都の年寄りは、天皇陛下が京都に来られることを『お戻りになった』と、今でもいう」
「でも、東京は大空襲で、原爆以上の犠牲者をだしてます。守れなかったんですか?」
「沙耶くんにも聞いたと思うけど、魔法と言うのは、ここに落ちる爆弾をそっちに持っていくだけのものだ。京都と奈良の分が、東京に落ちてしまった」
「そうなんですか……」
「皇居を守るのが精一杯だった」
いきなり庭に面した縁側に人の気配を感じた。生成りの木綿の着流しに渋柿色の袖なしを着た老人が、ハチを相手に遊んでいた。
「あ、武蔵さん。お久しぶりです」
清明が頭を下げた。
「近くを通ったもんでな……山里におると、人恋しくなるものでな。ごめんくだされ」
「あ、どうぞお上がりください。松虫さん、お茶の用意をしてくれませんか」
いつのまにか、座敷の傍らに和服の女性が座っていて、小さく頷くと、本格的な茶の湯の用意を始めた。
「おぬしの式神は、付かず離れず、まことに様子が良いのう。こちらの娘子が真由どのじゃな」
鳶色の三白眼が、かすかに和んだ。この顔……宮本武蔵だ! 真由は正直に驚いた。
(促成魔女初級講座・座学編・1)
「うかつだったなあ……」
安倍青年の小さな呟きが、大きく聞こえるほど静かな山荘の中であった。
安倍が覆いかぶさって、真由がしがみついて、閃光が走ったかと思うと、ここにいた。
八畳ほどの和室で、縁側に続いた庭にはハチが、何事もなかったように日向ぼっこをしている。その周りは深山幽谷と言っていいほどの山の中である。
「あれは、なんだったんですか?」
「多分、中国の妖怪たち……」
「中国の?」
「うん、単に探りを入れに来ているだけかと思っていたけど。あいつらは実戦部隊だった」
「……あれも、あたしのせいなんですか?」
「真由くんが、南シナ海で中国の巡視船……無意識だけど沈めちゃっただろ。そこから手繰ったんだろうね。渋谷で網を張って、京都に来た時には、人知れず三条あたりに集結していた。ボクも気が付かなかった。油断だね」
「あ、助けていただいてありがとうございました」
真由はペコリと頭を下げた。渋谷からこっちのことが、少しずつ整理されて、落ち着いてきた。
「あの……安倍さんていったい?」
「総理大臣の親類」
「え?」
「じゃなくて、第八十八代陰陽師頭(おんみょうじのかみ)阿部清明。ま、日本の魔法使いの元締めみたいなもん」
「ああ、野村萬斎さんが、むかし映画でやった」
「だいたい、あんな感じ。陰ながら日本と都を守るのが、うちの家系の仕事。うちのことはおいおい知ればいい。それより君だ。いきなり第一級の敵とみられたみたいだね」
「なんで、あたしが敵なんですか?」
「きみは、ヨーロッパの魔法の正式な継承者だ。まだチュートリアルの段階だけど、磨けば、すごい魔法使いになる。そうならないうちに、君を潰しにかかったんだ。ボクといっしょだったことも災いしたね。日本の陰陽道とヨーロッパの魔法が協定を結んだように思われた」
庭の鹿威し(ししおどし)が、まるで時間にアクセントをつけるように、コーンと鳴った。
「七十年前の戦争で、京都と奈良にはほとんど爆撃の被害がなかったこと、知ってるね?」
「はい、学校で習いました。日本の敗北が決定的になったんで、文化財の多い奈良と京都は爆撃の対象から外したって」
「あれは、ボクのひい爺さんの仕事だったんだ。ああ、言わなくても分かるよ。日本の首都は東京だ。なぜ東京を守らなかったか……東京は正式には首都じゃない。ケチくさいけど法律のどこにも書いていない。天皇陛下が即位されるのも、東京じゃなくて京都の御所だ。京都の年寄りは、天皇陛下が京都に来られることを『お戻りになった』と、今でもいう」
「でも、東京は大空襲で、原爆以上の犠牲者をだしてます。守れなかったんですか?」
「沙耶くんにも聞いたと思うけど、魔法と言うのは、ここに落ちる爆弾をそっちに持っていくだけのものだ。京都と奈良の分が、東京に落ちてしまった」
「そうなんですか……」
「皇居を守るのが精一杯だった」
いきなり庭に面した縁側に人の気配を感じた。生成りの木綿の着流しに渋柿色の袖なしを着た老人が、ハチを相手に遊んでいた。
「あ、武蔵さん。お久しぶりです」
清明が頭を下げた。
「近くを通ったもんでな……山里におると、人恋しくなるものでな。ごめんくだされ」
「あ、どうぞお上がりください。松虫さん、お茶の用意をしてくれませんか」
いつのまにか、座敷の傍らに和服の女性が座っていて、小さく頷くと、本格的な茶の湯の用意を始めた。
「おぬしの式神は、付かず離れず、まことに様子が良いのう。こちらの娘子が真由どのじゃな」
鳶色の三白眼が、かすかに和んだ。この顔……宮本武蔵だ! 真由は正直に驚いた。