鳴かぬなら 信長転生記
いやはや恐れ入ったものだ。
タクラマカン砂漠を大海に例えるならば、この莫高窟(ばっこうくつ)が穿たれている鳴沙山(めいさざん)は三国志の中華に打ち寄せる大波。だとしたら、この奇観は、その大波が神か悪魔の力で石化したものに違いない。
石化した大波には七百余の石窟が穿たれ、その五百近くの石窟には絢爛たる壁画や仏像が残されている。
石窟は三層、高いところでは五層になり、1600メートルも連なって、初めて見た転生学院の校舎の連なりよりも迫力がある。
見ようによっては城壁なのだが、城壁に有りがちな『防御』という拒絶を伴う単純な属性はない。
ここには人をゾクゾクひれ伏させる酒精を帯びた攻撃性がある。
壁画や仏像は仏教という理屈の密林に人や国を迷い込ませひれ伏させるための象徴、いや呪物だ。
上手く利用すれば、見た目の凄さで人を酔わせ、刀槍を用いずして天下を支配する。この攻撃性と世俗の権力が一つになれば天下が取れるのかもしれない。
俺はやらない。
これは、俺がぶちのめした比叡山の禍々しさに通じるものだ。
力とは、秩序と豊かさだ。安心安全に日々の暮らしが成り立ち、作物が成り、ものが作られ、迅速確実な物流に載って売り買いが出来ることだ。コケ脅しの呪物でひとの目を眩ますものではない。
おっと、信長に戻ってしまってはことを仕損じる。
俺は玄奘三蔵を天竺から連れ帰る一番弟子の孫悟空、今は妖怪どもを平らげるために自ら三蔵の姿に化けて妖どもの注意をひきつけているところなのだ。
ウキ!
見通しただけで、千余の聖俗どもがチョロチョロと巣穴に出入りする蟻のように窟壁を出入りしている。石窟の中や市内に居るものを含めれば万を超える者たちがこの西域のほとりの街に蠢いているだろう。
石窟群の前には、安土の楽市を思わせる大小の露店が並び、道を挟んで常設の店や公司、その甍のむこうには敦煌の家並がひしめいている。
おそらくは、この賑わいに隠れて何者かが居る。
まずは三蔵らしく石窟群の見学をしよう、俺の鍛え上げた勘は、ここに何かが居ると囁いている。
最初の石窟に入って、クラクラしてしまう。
四方の壁はおろか、天井や柱にまで仏画が描かれている。
そのほとんどがハガキ大の仏のバストアップ。一つ一つは驚くほどのものではないが、数の迫力。数万の人間に見つめられているようで気持ちが悪い。
次の石窟も、細密に描かれた仏たちの絵で埋め尽くされてはいるが、正面に三尊像。
印を結んだ釈迦を中心に、菩薩と観音、脇には羅漢たちが人間的な表情で立っている。さらに外側の脇には金剛力士像。憤怒の表情ではあるが、どこかユーモラスだ。元来は仏の守護神なのだろうが、大衆受けするためには取っつきやすい方がいい。こういう合理的な解釈は好みだ。坊主らしく合掌して次へ……
第57窟。
ちょっと人が多いのでパスしようかと思ったのだが、運よく人波が切れたので覗いてみる。
おお……!
思わず唸ってしまった。
絵の主題は樹下説法図、菩提樹の下で釈迦が説法しているのを菩薩や観音や仏弟子たちが聞きいっている図だ。
主役の釈迦は絵の具の劣化か黒ずんでいるが、それを差し引いても凡作だ。
しかし、その向かって左で緩やかな姿勢で立っている菩薩は見事な美形だ。
仏は両性具有とか性を超越したものだと言われるが、こいつは完全に女だ。ごく緩いS字に撓らせた姿勢、媚びるほどではないが顎近くまで寄せられた左手の甲、なよやかな胴は頭よりも細く腰はひきしまり、コスと髪型を変えればアルテミス沐浴の図だ。
これを目にしたアクタイオーンは牡鹿の姿に変えられたという。そのエピソードを知っている西域の画工がアルテミスをモチーフに描いた……そんな菩薩像だ。
釈迦を描いた画工と菩薩像を描いた画工は違うのではないか。
釈迦が親方ならば菩薩の方はその弟子か……親方はともかく、弟子の方は仏画を描いた意識などはないだろう、己の記憶の中で――美しい――と時めいたもののエッセンスを纏めて昇華した憧れなのだ。
いかん、これに見入ってしまっては、平山郁夫のように模写するために通い詰めるハメになる。井上靖のように長編小説を書くことになってしまう。
俺は、ちょっと格好をつけ坊主らしく合掌して次の石窟に移動した。
☆彡 主な登場人物
- 織田 信長 本能寺の変で討ち取られて転生 ニイ(三国志での偽名)
- 熱田 敦子(熱田大神) あっちゃん 信長担当の尾張の神さま
- 織田 市 信長の妹 シイ(三国志での偽名)
- 平手 美姫 信長のクラス担任
- 武田 信玄 同級生
- 上杉 謙信 同級生
- 古田 織部 茶華道部の眼鏡っ子 越後屋(三国志での偽名)
- 宮本 武蔵 孤高の剣聖
- 二宮 忠八 市の友だち 紙飛行機の神さま
- 雑賀 孫一 クラスメート
- 松平 元康 クラスメート 後の徳川家康
- リュドミラ 旧ソ連の女狙撃手 リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリィチェンコ 劉度(三国志での偽名)
- 今川 義元 学院生徒会長
- 坂本 乙女 学園生徒会長
- 曹茶姫 魏の女将軍 部下(備忘録 検品長) 曹操・曹素の妹
- 諸葛茶孔明 漢の軍師兼丞相
- 大橋紅茶妃 呉の孫策妃 コウちゃん
- 孫権 呉王孫策の弟 大橋の義弟
- 天照大神 御山の御祭神 弟に素戔嗚 部下に思金神(オモイカネノカミ) 一言主