あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

国立歴史民族博物館の常設展示紹介③(千葉)

2008-08-16 22:16:36 | Weblog
 2008年8月5日(火)に訪ねた、千葉県佐倉市の国立
歴史民族博物館の常設展示室の紹介の続きで、第3展
示室の中ほどあたりから。

○東海道写真五十三次勝景

 幕末と明治初年に出版された東海道の鳥瞰図の一部、
長い図の中の江戸周辺のみを撮った。  

○旅から帰って
 
 伊勢詣でなど、講中で旅に参加した人たちの中には、
旅日記をつけて生涯の思い出とする人もいたという。
その旅日記の一つ。

○北前船の積荷

 18世紀後半に登場した北前船(きたまえぶね)は、大
坂などと上方(かみがた)と蝦夷地(えぞち)(北海道)とを
つなぐ長距離航路を活躍の舞台として、各地の産物など
を買い取って輸送先で売り渡す買積方式を中心に、大き
な利益を上げたという。

○四季農耕図屏風

 福岡秋月(あきづき)藩の御用絵師だった斉藤秋圃(しゅ
うほ)による、農村生活を描いた屏風絵の部分。

 全体では、春夏秋冬の農作業や祭礼などの風景が描か
れている。

○旅籠のセット
 
 江戸時代の旅籠(はたご)の実物大セットも展示され、
室内の模様も垣間(かいま)見ることが出来るようになっ
ていた。

 最近は地方の多くの都市に、歴史博物館や郷土資料館
といった展示施設が増えているが、中には出土品や民具、
農具などを整理不十分なまま、乱雑に並べたものとか、
説明不足なのものも見うけられる。

 しかしここは国立の施設だけあり、豊富な教授陣や学芸
員、その他のスタッフをかかえていることもあり、展示の
仕方や説明などに工夫が凝らされ、よく理解できる。

 ゆっくり見れば1日でも見終わらないほど展示があり、
日本歴史をふり返るには格好の場所と思われる。

 第3展示室まで回ったところで16時半を過ぎ、閉館時刻
の17時が近づいたので「日本人の民族世界」と題した第
4展示室と、19世紀後半から1920年代までの第5展示
室の観覧は次の機会とし、ミュージアムショップに行く。


 ショップには、展示されていた埴輪や土偶の模型なども
販売されていた。


 ミュージアムショップの大型窓からの外の眺め。


 別に、出版物を揃えたコーナーもあり、この博物館だけ
でなく、全国の博物館、美術館などが企画展などの機会
に出版した図録や書籍など、書店では入手できない貴重
な資料を購入することもできる。

 博物館を出たのは、閉館間近の16時50分頃だった。


 京成佐倉駅に向かって佐倉城址公園を北に下って行く
と、左手斜面下に真崖仏(まがいぶつ)が見えたのでそば
へ行ってみた。

 日本を代表する臼杵(うすき)真崖仏の中で、最も有名
な古園石仏(大日如来及び諸尊像13体)の中心をなす
大日如来像の複製。

 凝灰岩(ぎょうかいがん)の岩壁から掘り出したもので、
平安時代後期の木彫像に通じる作風を示す丈六仏(じょう
ろくぶつ)(約2.8m)だという。

 城址公園の堀を離れ、駅に向かう通りには、かやぶき
屋根の民家が残っていた。


 17時20分頃、京成佐倉駅に着き、特急電車で日暮里
に向かった。

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国立歴史民族博物館の常設展示紹介②(千葉)

2008-08-15 23:24:22 | Weblog
 2008年8月5日(火)に訪ねた、千葉県佐倉市の国立
歴史民族博物館の常設展示室の紹介の続き。

今日は、第2展示室(平安時代から安土桃山時代)の続き
から。

○京都の町並み

 戦国末期(1570~1580頃)の京都四条室町付近の
町並み。

○春日神社の田楽

 奈良市春日大社の若宮祭礼(おん祭り)は、平安末期の
芸能史の縮図ともいわれ、なかでも中心が田楽(でんがく)。
その、きらびやかな田楽の衣装

○大鋸と大鋸挽き

 室町初期に大鋸(おが)と呼ぶ縦挽鋸(たてびきのこぎり)
が中国から導入され、製材が容易になり、建築界に一大革
新をもたらしたという。この模型は、播磨石峯寺に残る大鋸
を推定復元したもの

○古井家住宅模型

 兵庫県安富町の古井家は平面積112.5㎡あり、その半
分は土間が占め、前側は接客用のオモテ、後に日常生活に
使われるチャノマとナンドあるようだ。

【第3展示室】本年3月に20年ぶりにリニューアルしたところ。
江戸時代の人々の生活や文化を、4つのコーナーにわけて
展示している。

○御朱印船模型

 寛永11年(1634)末次氏により長崎清水寺に奉納された
船絵馬などをもとに復元したもの。

○地球儀

 マテアスが1632年、ローマで製作したもので、これまで
ポルトガルや他国の公開者が発見したすべての大陸地域・
群島が正確に記され、正確な地図と実用性に富んだ地球儀。

○通信の国

 徳川将軍と朝鮮国王が対等な関係を表す書式による国書
を取り交わしあい、日本では「通信(信を通わす)」と表現し、
朝鮮では「光隣」と読んだ。いわゆる朝鮮通信使による外交
の模様。

○伊能図 中図(四国)

 伊能忠敬が全国を測量して作った大図(だいず)と呼ぶ
地図を集成・縮小して作成した図。中国・四国地方をカバ
ーしているが、撮った部分は四国のみ。

○江戸幕府撰天保下総国絵図

 天保8年(1838)に作成の最後の幕府撰国絵図で、それ
以前の慶長、正保、元禄などのものは各国大名に作成・提
出させたが、これは幕府勧請所が一括して作成したもの。

○江戸時代後半の貿易品

 18世紀半ばを過ぎたころの中国との交易品。輸出品は
海産物が多くなったという。

○江戸御上屋敷惣絵図

 1840~45年ころの製作で、加賀藩本郷邸の絵図。現在
の東京大学本郷キャンパスの一部にあたる。

○江戸橋広小路模型図

 日本橋江戸橋周辺の家並みと日本橋川(左側)。

○一里塚の道標

 江戸幕府が整備した街道の一里塚には道標があるが、こ
れらのほとんどは私的に建てられたものがほとんどだという。

○旅の小道具

 旅の小道具には工夫を凝らしたものがつくられ、その種類
は多かったようだが、着物の着替えなどは持って行く余裕は
なかっただろうという。             (続く)
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国立歴史民族博物館の常設展示紹介①(千葉)

2008-08-14 23:10:57 | Weblog
 2008年8月5日(火)に訪ねた、千葉県佐倉市の国立
歴史民族博物館の常設展示室では、フラッシュを使用しな
ければ撮影可とのことだったので、当日回った第1展示室
から第3展示室の展示物の幾つかを紹介する。

 コメントは展示物の前に記されていたものの一部。

【第1展示室】日本列島に人類が登場した旧石器時代から
律令国家が成立した奈良時代まで、日本文化の形成過程
を概観している。

○縄文土器の特色

 およそ5500年前、縄文土器の形と文様の地域色が著し
くなり、東北・北海道、関東、西日本など地方の細かな特長
が見られるようになったので、その特長が分かるように展示
している。
 
○青森市三内丸山遺跡の復元家屋

 縄文前・中期の6000年前~4500年前までの約1500
年間続いた大規模な村の跡。同時に立っていた竪穴住居
は20棟から数十棟に達したと見られ、中には面積200㎡
以上の大型住居もあったという。

○前方後円墳の副葬品

 3世紀後半には、それ以前より飛躍的に巨大化した墳丘
墓である前方後円あるいは前方後方形の墳丘を持つ古墳
が出現し、長大な石室に多量の銅鏡を中心とする呪術的
な副葬品が埋葬された。その副葬品の一つ。

○三角縁神獣鏡(3世紀)

 縁の断面が三角形で、想像上の神や獣を立体的に表現
した銅鏡を三角神獣鏡といい、日本列島製と中国鏡と考え
られるものがあるという。

○長持形石棺(5世紀)

 群馬県伊勢崎市お冨士山古墳の長持形石棺で、近畿の
大王陵の古墳の石棺と全く同じ形式なので、近畿の石棺
を作った工人が東国へ来て製作したと推測されている。

○東国のムラ(6世紀中頃)

 この頃の東国のムラは、竪穴住居と垣根に囲まれた複数
の平地住居、作業小屋、高床倉庫、家畜小屋を基本とする
屋敷が、3~4単位集まって共同生活を行っていたらしい。

○東国の人物埴輪

 6世紀の関東の古墳の大きな特色は、人物は庭を並べた
古墳がきわめて多いことだという。人物埴輪は、大型の前
方後円墳ばかりか、小型の円墳にも立てられたようだ。

○平城京羅城門復元模型

 約1300年前、奈良の平城京の入口にあった国内最大の
門。左右には羅城がのびていて、京を訪れる外国人や国内
各地の人々に都城の偉容を示すものだったという。羅城門は
東西38m、南北20m、高さ24mくらいの規模らしい。

○平城京中枢部の復元模型

 平城宮を守る三重の門があったが、これはその中の中門
から内側の平城宮中枢部を復元したもの。

○薬師寺伽藍の復元模型

 奈良・薬師寺の復元模型を南からみたもの。南側には堂
塔が並び、北方には寺院経営を支える政所、大炊院、修理
院などがあり、東には薬師寺宮などがおかれた別の区画が
あったようだ。

【第2展示室】平安時代から安土桃山時代までの日本の文
化と生活を、貴族や武士、庶民といった様々な階層の立場
から探って行く。

○貴族の服装

 旧暦4月から9月に着用する夏装束で、女官は十二単(じ
ゅうにひとえ)と呼ぶ盛装をしている。奥左は束帯(そくたい)
という朝廷の儀式で着用された男子武官の盛装。右奥は直
衣という公家の平常服。 


○阿弥陀種子板碑(13世紀)

 追善や供養などの目的で中世の関東で多く作られた石製
の塔婆。緑泥片岩などを用い、種子(しゅじ)と呼ぶ梵字(ぼ
んじ)を刻み込んだ。埼玉県飯能市智観寺のもので、仁治3
年(1242)に造立したもの。 

○鎌倉の地形模型

 鎌倉は、自然地形を利用した城塞都市で、一方が海岸、
三方が山に囲まれ、稜線には切岸、主要道路の接点には
切通しを設けて防御を固めた。縦(南北)に走る広い道は
若宮大路。

○武士の館

 鎌倉幕府を支えた武士たちは、塀に囲まれた館(やかた)
に住んでいた。これは文献、絵巻物、地理学や考古学の成
果をもとに想定復元した東国の武士の館。

                           (つづく)

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歴史民族博物館 企画展「江戸の旅から鉄道旅行へ」(千葉)

2008-08-13 22:58:26 | Weblog
 2008年8月5日(火)



 千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館で開催中の企画展
「江戸の旅から鉄道旅行へ」の観覧に出かけました。



 この日、東京都心で日中激しい雷雨があり、浸水家屋が
出たりしたので心配しましたが、佐倉周辺はそれほどの雨
にはならず、自宅から約2時間半をかけて行き、正午前に
入館しました。


 この企画展では鉄道発達以前を「旅の時代」、以後を「旅
行の時代」として、2部構成で展示しています。

 第1部「旅の時代」では、江戸時代の寺社参詣を中心とし
た旅について、その主役である庶民の旅を紹介しています。

 当時は、伊勢講や富士講など、講中で集めた資金を使い、
メンバーが交代で何年かに1度、伊勢参りとか富士登山など
をしたのですが、あわせて江戸や京都、善光寺や金比羅参り
をするなど、何十日もの旅をしていたようです。 

 旅の隆盛に伴い、各地の都市を中心に多くの旅行地や周
遊コースが成立しました。当時は全部徒歩の旅ですが、そ
の旅では道中も楽しみで、旅人は街道沿いの名所や社寺に
立ち寄り、名物の食物も楽しんでいました。

 江戸時代の旅は、楽しいことも困難なことも含め、「壮大な
アミューズメントパークを作り上げていた」、ということのよう
です。
 
 展示物としては、東海道や中山道などの街道絵図、江戸
や京都の名所絵図、庶民が記録した旅の記録・道中記、旅
での楽しみの一つ、各地の名物食べ物や食事などが紹介さ
れていました。

 第2部「旅行の時代」の本格到来は、明治22年(1889)
の東海道線開通以後といってよいようです。
 
 これ以降、東西を行き来する人は鉄道を利用するように
なり、駅から離れた宿場は衰退しました。

 一方で、旅行者は短時日のうちに目的地に達することが
できるようになり、より遠くの旅行が可能になりました。

 その結果、都市周辺の温泉地や海水浴場などへも手軽
に行けるようになり、新たな行楽地・保養地が生まれ、登山
やハイキングも行われるなど、時代とともに変化する旅行の
多様性などを紹介しています。

 主な展示物は、東京や京都などの名所図会、田山花袋
著など各種の旅行案内書、鉄道路線図やパノラマ図、修学
旅行の案内書、次第に隆盛になった温泉の案内書、地元
房総の案内書、旅行の記録やコレクション類など、多彩な
出版物を中心に展示されていました。

 資料展示が主で、旅行用品など実物展示が少なかったの
で、少し期待はずれの感がしましたが、常設の第3展示室
には旅行用品などがが展示されていたので、合わせてご覧
になれば、理解が深まると思います。

 企画展示室は撮影禁止なので、写真で紹介できないのが
残念なところです。

 首都圏にお住まいの旅行好きの方は、佐倉まで足を伸ば
して、観覧されてはいかがでしょうか。

 企画展示以外に、5つの常設展示室に数多くの展示物が
あり、ゆっくり見れば1日では見切れないほどです。
 それらは別途、紹介するつもりです。

 この企画展は8月31日(日)まで。休館日は18,25日
です。開館時刻は9時30分~17時(入館は16時30分ま
で)。入館料は一般830円(常設展示も見られます)です。

交通:京成佐倉駅(京成上野駅から特急で約55分)下車、
   バス約5分または徒歩約15分。

   JR総武線佐倉駅(東京駅から快速で約60分)下車
   バス約15分。

 なお、国立歴史民族博物館のWebは下記をご覧下さい。 
   http://www.rekihaku.ac.jp/

 

 




 
 

 

 
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松本市内の湧水巡り(長野県)

2008-08-11 22:28:44 | ウオーキング
2008年8月2日(土)



 塩の道・千国街道歩きの帰路も、JRの「青春18きっぷ」
で帰ることにした。

 糸魚川8時15分発の大糸線に乗り、南小谷で乗り換え、
11時47分に松本駅に着く。中央線の上り普通電車は1本
後にして、松本市内を2時間ほど巡ることにした。

 どこを回ろうか、往路に松本駅構内の観光案内所でもら
った「信州松本」という絵地図を大糸線車中で眺めていた
ら、湧水が10か所ほどあるのに気付いた。

 よしよしここだ、今日も暑いので湧水巡りをしようと決めた。

 ザックはコインロッカーに預け、飲料などの軽装で正午近
くに駅を出た。湧水巡りの前にまずは松本城をと、公園通り
から松本中央通りへ。

 女鳥羽川の中央大手橋から川沿いに、次の千歳橋まで
行く。松本も今日は、34回目の「松本ぼんぼん」という夏
祭りの日。

 橋の歩道には提灯(ちょうちん)が下がり、露店が準備中。

 祭りは17時~22時、この通りを中心にかなりの通りが
歩行者天国になるらしい。

 平成橋を渡って大名町通りを北に進む。この通りでも露店
の準備が進行中だった。そのまま進むと松本城公園に入る。

 国宝松本城の木造天守閣は、現存する日本最古の城郭。
堂々たる姿を堀に映している。

 以前に見ているで、場内の観覧は省略した。

 南側の堀に戻ると東の空に、やまさんの国際ウオーキング
トレイル実踏に初めて参加して2年前に上がった、美ヶ原の
アンテナ塔などが望まれる。


 近くのそば屋さんで昼食をした。

 堀よりひとつ南側の通りを東に向かう。信州独特の建築様
式・本棟(ほんむね)造りの店の先、下町会館の前に、最初
の湧水「東門の井戸」がある。

 かなりの流量で流れ落ちていたので、ひしゃくですくい、
まろやかな味わいの冷水をいただく。

 細い通りをさらに東へ、正行寺小路を抜け、次は女鳥羽川
に近い「女鳥羽の泉」。清酒善哉の醸造用水としており、地
下30mから自噴しているという。

 小さな一角だが湧水は豊富。汲みに来ていた奥さんの後
でひしゃくを借り、ここでものどを潤す。

 「まつもと城下町湧水群」は、「環境省平成の名水百選」に
認定されていることが記されていた。

 女鳥羽川の清水橋を渡ると、すぐ東の槻井泉(つきいずみ)
神社の小さな境内には、「槻井泉神社の湧水」がある。

 古代から涸れることなく湧き出し、往古の官道もこのあたり
を通り、当時の通過客もこの水に涼を求めたとか。「清水」
の地名もここが起源という。

 狭い境内でひときわ目立つのが大ケヤキ。

 目通りの幹囲4.8mの太い幹が、よい目印になる。

 清水橋に戻って、女鳥羽川沿いに南東へ。日陰が無くて
暑い。すぐ先の妙勝寺境内には大きな鐘楼があった。

 旧念来寺の鐘楼で松本市重要文化財。鐘楼は墓に囲ま
れていて、説明板は無い。

 隣の、大本堂が目につく大松寺の先、鍛冶橋際を南に向
かうと、「伊織霊水」が石の中から流れ出ている。

 背後は鈴木伊織の墓所。貞享3年(1686)、年貢の軽減
を要求して農民一揆が起き、悲劇的な結末を迎えたが、藩
士鈴木伊織は、農民に同情し、入獄中の農民の助命を図り、
農民に信頼され慕われたという。

 さらに南へ、東京電力の構内にあるのが「源池の湧水」。
南側は広い「あがたの森通り」に面しているが、西側のこの
一角は小公園になっている。

 このあたりは二つの川の扇状地で湧水が豊富なことから、
この地に深井戸を掘り、昭和23年(1948)から市の水源
地として給水を続けているという。

 ここで再び折返すようにして、車の通れぬ西側の細い路
地に入る。

 途中、右手の金網へいの向こうにも、地下からの湧水が
パイプから流れ出ていた。北側には、りっぱな本棟造りの
民家があった。


 その民家の横から西に向かい、一つ通りを横切った角に、
七夕飾りの並ぶ小公園のような一角がある。

 松本の湧水の代表ともいうべき「源智の井戸」。松本に
城下町が形成される以前から飲料に用いられたという。
 
 所有者の、小笠原藩の家臣・河辺与三衛門源智の名を
とって、「源智の井戸」と呼ばれるようになったとか。地名
も源智になっている。

 天保14年(1843)の「善光寺名所図会」では、「当国
一の名水」で、松本の酒造業者は、ことごとくこの水を使
い、歴代の領主は制札を出してこの清水を保護したという。

 数人の方がたくさんのペットボトルを用意して汲みに来
ており、その名水ぶりが知れる。私も何杯か味わい、空に
なったペットボトルに詰めて持ち帰った。

 北に抜けて、白壁土蔵造りの商店が軒を連ねる中町の
通りへ。

 電柱、電線を地中化してすっきりした、新しい蔵造りの
町並みである。

 その中心にあるのが中町蔵シック館。館の入口前にも、
「中町蔵の井戸」があり、きれいな湧水が石造りの井戸か
ら流れ出ていた。

 時間が少なくなったので蔵シック館内の観覧は次回に
回し、駅に向かう。

 松本城に通じる本町通の建物には、今夜の祭り「松本ぼ
んぼん」の小さい提灯が、幾つも竹に結ばれ下がっている。


 伊勢町通りとの三差路には、塩の道を通って塩を運んで
きた牛をつないだという「牛つなぎ石」があり、永禄11年
(1568)1月、越後の上杉謙信により運ばれた牛車が、
この石にたどりついた伝承のことが記されていた。

 往路の公園通りを進み、14時近く松本駅に戻り、14時
25分発中央線普通電車高尾行きに乗り、帰路についた。 

 北アルプスの山登りなどで、松本に途中下車する人は多
いだろう。でもほとんどが訪ねるのは、松本城や旧開智学
校、あるいは あがたの森公園くらいではなかろうか。

 松本の市街地には、主要道路だけでなく細い路地にも、
城下町らしい建物や寺社が多い。次の機会には、湧水巡り
を中心のこんな町歩きもお勧めしたい。

(天気 晴、距離 5㎞、地図 「信州松本」(久芳勝也画
 の絵地図)、歩行地 松本市)
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糸魚川の雁木とヒスイ(新潟県)

2008-08-10 23:23:53 | Weblog
 2008年8月1日(金)午後



 塩の道・千国街道の最終コースを歩き終え、糸魚川市内
を少し巡ってみることにした。

 塩の道の最後の通り、白馬通りを糸魚川の道路元標のあ
る交差点に向かうあたりは、雁木(がんぎ)が残っていた。

 雁木は、新潟県内でも降雪量の多い市街地にある、雪除
けの覆いをした通りのこと。雪のときでも雁木の下は容易
に歩くことができる。

 道路を挟んだ西側には、銘酒謙信の醸造元があった。


 すぐ北で交差する細い通りにも、雁木が連なっている。


 細い通りの北側の通りが、糸魚川の中心街らしい。この
通りを東に向かうことにした。

 この通りにも、雁木が続いている。

 こちらには、別の銘酒・加賀の井の醸造元があった。


 かなり広い雁木なので、行き交うのも容易である。


 駅前通りとの交差点付近まで行くと、翌8月2日(土)と3日
(日)に開催される糸魚川の夏祭り・おまんた祭りの翡翠(ひ
すい)太鼓がやってきた。




 駅前通りとの交差点付近の雁木は、歴史を感じさせる造り。


 駅前通りの雁木の下に、ヒスイの原石が展示されている。

 塩の道沿いに走る姫川の支流である小滝川のヒスイ峡と、
青海川上流の橋立ヒスイ峡は、日本有数のヒスイ原石地。

 ともに糸魚川市内で、国の天然記念物に指定されている。

 JR糸魚川駅に隣接するヒスイ王国館1階にも、ひときわ
大きなヒスイの原石が展示されていた。

 小滝川原産で重量は約8トン、主として白地に緑の入る種類
で、回りを取り巻くヒスイは、ムラサキ、コバルトヒスイの原石
だという。

 このヒスイ王国館1階は、観光物産センターがあり、糸魚川
名産、ヒスイ、真柏(盆栽)、地酒、銘菓、海産物、民芸品など
が並んでいる。


 先ほど見かけた醸造元の酒など、糸魚川の地酒も並んで
いた。


 同じフロアには、糸魚川市観光協会の案内所、食堂、喫茶
などもあり、列車の時間待ちや土産物選びなどに利用できる。


 ヒスイ王国館は、この糸魚川駅の左手にある。

 駅前には、やはり8月2日の夏祭り「第33回 糸魚川おま
んた祭り」にちなんだ、船みこしが展示されていた。


 ちなみに、「糸魚川おまんた祭り」では、三波春夫が歌って
いることで有名な“おまんた囃子”が流れる中、糸魚川駅の
周辺で大市民流し、船みこしなど市民総出で繰り広げられ、
8月3日(日)には、姫川港周辺で大花火大会が行われると
いう。

 1日違いで、この祭りを見ることは出来なかった。

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塩の道・千国街道(小坂~美山公園~糸魚川海岸)【新潟】

2008-08-09 22:50:57 | 塩の道を歩く
 2008年8月1日(金)<続き> 



 小坂にある道の駅の休憩棟で昼食を終え、12時半過ぎ
出発する。

 家並みが少なくなり、緩やかに下った三差路に、古い石
の道標がある。

 今来た塩の道の方には「左志ん志やう」と刻まれ、「信州」
への道であることが記されていた。

 すぐ先の家の壁面に、木彫りの作品がたくさんな並べて
ある。この家の方の作品らしい。


 ニゴリスミ川を渡ると大野集落。川のすぐ北にある大野
神社は、かやぶき屋根にトタンを被せた社殿。

 りっぱな杉木立の並ぶ境内に、1等水準点があった。

 鳥居のそばには、高さ29mの大ケヤキがあったようだが
今は切り株しか残っていない。

 次の十字路際に十王堂があり、古い閻魔(えんま)像が
10体以上並んでいた。

 「十王を供養すると、死後、閻魔さんの裁判のときに罪が
軽くなる」という庶民信仰により造られたものらしい。

 木陰が少なく日差しが強まり、汗が止まらない。大野小
の東でJR大糸線の東に回り、用水沿いに進む。色鮮やか
なヒャクニチソウがたくさん咲いていた。

 頚城(くびき)大野駅の東側を過ぎたあたりに、馬頭観音
などの石仏が並ぶ。


 少し先で塩の道を逆行する女性3人のグループと行き交
う。この暑いのによく歩く気になったと感心。行く手の道の
様子を教えてくれた。

 文字のかすれた「林道下山線」の表示に従い、T字路を
右折すると緩やかな上り道。大汗をかいて上がる。

 最高点近くに、権現清水と呼ぶ湧水が右手の斜面から落
ちていた。

 手を合わせてすくって何杯も飲み、乾いたのどを潤す。

 左カーブする最高点に、新しい握手像の双体道祖神が置
かれていた。

 携帯電話のアンテナ塔の先で、車道をヘヤピン状に横切
る。その先からは林間の土の道。緩やかに上がると林間か
ら、北の谷間に日本海が見えてきた。


 再び右から接近した車道の横に、木のベンチがあったの
で小休止する。


 カラマツ林の横を下ると美山公園の一角となり、小さい池
のそばに平成2年(1990)に作られた歩荷(ぼっか)像が
立つていた。


 公園の一角、西側の高台を少し上がって展望台に登る。
糸魚川市の上水道配水塔を展望台としたもので、南は緑の
田んぼや山並み、西に姫川の流れ、北に日本海と糸魚川
市街、東は緑濃い山並みと、360度の展望が得られる。


 歩道のある車道をゆるやかに北に下り、最終コースに向
かう。北陸自動車道を越え、総合体育館や中学校横を過ぎ
ると、糸魚川の住宅街になる。

 「蒼龍松の古木」の表示があった淨福寺に寄ったが、枯れ
たようで、本堂前に切り株だけが残っていた。

 山門はなかなか趣がある。

 新鉄2丁目の狭い家並みの間を抜け、JRの踏切を越えて
市街地へ。中央通りの交差点際に、「塩の道広場」と呼ぶ
小公園があり、牛と牛つなぎ石の石像やトイレ、ベンチが
あった。


 すぐ先、東側を入った経王寺には、新潟県最古という永享
4年(1432)銘の梵鐘(ぼんしょう)があり、県の文化財に
指定されていた。


 次の通りが糸魚川市の繁華街。交差点に糸魚川町道路
元標が立つ。


 さらに進んで15時33分、ついに日本海海岸沿いの国道
8号に出た。テトラポットの護岸の向こうに穏やかな海が広
がる。


 3年前の前回の大峰峠越え西コースに続き、今回は大網
峠を越えて東コースでの、2度目の日本海への到達である。
塩の道千国街道の歩きが終わった。

 今回も、江戸時代の塩の道の雰囲気をかなりのところで感
じることが出来、暑かったが満足できる歩きだった。

 まだ午後の日差しは厳しいが、早いので東に向かい、糸魚
川の中心街をめぐることにして、塩の道を離れた。

(天気 晴、距離 12㎞+確認往復5㎞、地図(1/2.5万)
 小滝、越後大野、梶屋敷、糸魚川、歩行地 糸魚川市、
 歩数 34,100)
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「前田真三写真展」へ(東京・渋谷)

2008-08-08 21:50:00 | Weblog
 2008年8月8日(金)

 いよいよ北京オリンピックの開幕日。東京は今年1番かと
思われる暑さになりましたが、会期が間もなく終わるので、
「前田真三写真展」を見に出かけました。



 会場は、東急百貨店本店。JR山手線渋谷駅ハチ公口か
ら西北へ10分足らずです。

 風景写真に独自の作風を確立し、今日の風景写真隆盛の
礎を築いた前田真三氏の作品が、2部構成で展示されてい
ました。



 第1部「風景への想い」では、アマチュア時代のモノクロ作
品から、晩年の名作まで、年代を追って100余点を、第2部
「美の継承」では、長男・前田晃氏とのコラボレーション展で、
それぞれが花と丘を撮った約60点の写真です。



 今はすっかり見られなくなった、前田氏の郷土、八王子市
の1950年代の農村風景や、全国各地をめぐって撮った日
本の懐かしい原風景など、前田氏ならではの視点で捉えた、
いずれもすばらしい作品でした。



 写真は、会場でもらった二つ折りのリーフレットから。

 会期は8月12日(火)まで。入場料大人600円です。


 
 
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塩の道・千国街道(根知駅~中山峠~小坂)【新潟】

2008-08-07 23:52:30 | 塩の道を歩く
 2008年8月1日(金)
 

 
 朝7時半過ぎ、糸魚川のビジネスホテルを出る。糸魚川駅8時
15分発上り大糸線に乗り、昨日のゴール・根知駅まで戻り、8時
33分に出発する。

 駅の東側は、緑の田んぼが気持ちよい。

 根小屋集落の三差路までは昨日の道。朝から好天で、少し歩
くと汗が出てきた。三差路から北に向かい、根知川を渡る。


 次の仁王堂集落の十字路にある飯縄神社に参拝。境内は太い
杉木立に囲まれていた。


 集落の名のもと、仁王堂はこの神社境内にあったらしいが、
現在は残っていない。

 神社の前にある塩の道の道標に従い、2車線の車道を北に向
かう。少しの集落が終わると上り道となり、振りかえると仁王堂
の家並みが見下ろせる。


 大きなカーブの先からは、林間の木陰の道を期待したのだが、
道幅が広いので木陰は少ない。上り道が続くので暑くて汗が目
に入り、何度となくハンケチで顔をぬぐう。

 早くも、秋の気配を感じさせるススキの穂が出ていた。


 中山峠と思われるところに来たが、標識は何もない。その先
からは緩やかな下りとなる。(下の写真はふり返ったもの)


 案内図にある「旅人の墓」のところから、西側を並行する道が
あるはずだが分からず、塩の道が車道になってしまったと思い、
そのまま車道を進む。

 ところが、2つの送電線が交差するところで、予定した右側の
塩の道ではなく、左の車道を来たことが分かった。

 さらに進むと、その車道の舗装が途切れ、右斜面からの崩れ
た土砂を取り除く工事をしている。(写真は工事か所通過後、
ふり返る)

 工事中のショベルカーすれすれに通過させてもらい、未舗装
の車道を少し進むと、車道も終わり、車の通れぬ草道となった。
しかしこの道も間もなく延長工事が始まりそう。


 棚田が現れ、間もなく小坂集落に下った。Y字路に休憩棟と
トイレの建物があったので休憩する。


 休憩棟にあったノートを見ると、東側の塩の道は、昔のまま
残っているらしい。

 そばに塩の道の標識もあったので、本来の塩の道がどこから
入ったものか、戻って確認することにした。


 標識のある林道を500mほど行ったら道が途切れた。おかし
いと思い休憩棟そばまで戻ったら、林間に入る本来の塩の道
があった。その林間の杉林の下の土道に入る。


 杉林を過ぎるとブナ林となり、カンパ地蔵と呼ぶ小さな地蔵
堂がある。


 すぐ先からは「ウトウ」と呼ぶU字状の堀割を上がる。


 稜線上を走るようになり、気持ちよいブナ林の中の緩やかな
アップダウンが続く。


 西側下部で道路工事の音が聞こえ、先ほど通った工事中の車
道が樹間から見下ろせる。

 二つの送電線下を通過し、地図と現在地を対比確認でき、無
いと思った茶屋跡の表示も残っていた。

 送電線が車道を西北から東南に横切る車道のそばに出た。

 そこに塩の道の大きな標識があったのだが、気付かずに車道
を進んだのだった。

 まだ先まで草の道が残っているので、車道の東側を並行する
道をさらに進み、林が途切れて車道が大きく左カーブするとこ
ろまで戻った。

 ここには塩の道の標識が無く、分かりにくそうなので確認を
終え、再び本来の塩の道を休憩棟まで戻った。

 確認のための往復で5㎞近くを要し、休憩棟に最初に着いて
から2時間を経過していた。

 ちょうど正午を過ぎたので、休憩棟で昼食とする。  <続く>

【注】塩の道・千国街道は、越後側(糸魚川市)では「松本街道」
と読んでいますが、松本~糸魚川間を通して普通、「千国街道」
と呼んでいるので、タイトルは「塩の道・千国街道」とします。 
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塩の道・千国街道(白池~山口関所跡~根知駅)【新潟】

2008-08-06 23:34:45 | 塩の道を歩く
 2008年7月31日(木)<続き>



 昼食をした白池からは、雨飾山や鬼が面山、駒ヶ岳など
が見えるはずだが、雲が多くてはっきりしないのが残念。
 下は、白池の北側にある休憩舎。 


 池には、小花のヒツジグサが咲いていた。休憩舎のそば
に、ぼっか宿の柱の台石などが残っていた。

 近くには、独特な形のオオウバユリが咲き出していた。


 昼食を終え、山口への下り道へ。


 ところどころに緩い木の段が設けられている。林間で
ウグイスやヒグラシが鳴く。

 林道を横切るところに、塩の道を読んだ短歌の碑が立っ
ていた。


 日向(ひなた)茶屋跡(下)あたりでは、パラパラ降って
きたが、すぐに止んだ。


 東側に岩稜の山並みを見ながら下り、庚申塔や百番供養
塔などを過ぎると山口集落に入る。

 左から駒ヶ岳(1487m)、鬼ヶ面山(1571m)、鋸岳
(1631m)である。 

 田んぼの向こうに、かやぶき屋根のりっぱな民家が見えて
きた。そばに下ると「道の駅資料館」だった。

 400円の入館料を払って入館し、内部を観覧する。

 豪雪に耐えるためのガッチリした造りで、屋根裏の3階
や2階には古い民具や農具など、1階には塩の道を往復し
た歩荷(ボッカ)や牛方たちの生活用具などが収集・展示
されていた。


 目を引いたのは、土間から2階の天井くらいもある頑丈
で重そうなそり。(下の写真は2台分)

 材木を、2本ひと組のそりの間にいっぱいに積み、雪道
を下ろすのに使ったのだという。

 集落の中心の三差路に下ると、車道の上に小さい人形
がたくさん吊してある。

 何の風習なのか知りたかったが、人気(ひとけ)が無く、
聞くことは出来なかった。

 少し南側が山口関所跡。天保年間(1830~)から明治
2年(1869)4月まで、塩の道の輸送物資の監視と、物品
に課税する「運上銀(うんじょうぎん)」の徴収が主業務で、
運上銀は藩の重要な財源だったという。

 現在は、毘沙門天を祭る小さいほこらと「関所址」の碑が
あるのみ。

 車道を北に進み、左手にスキー場を見て、民宿案内図の
ある三差路を西に入る。

 すぐ先にスキー場内の宿泊施設、ホテルホワイトクリフが
ある。そばに、「塩の道交流館歩荷(ぼっか)茶屋」もあるら
しいが見逃し、寄らずに通過した。

 次の集落、稲場との間は、地名のとおり緑の田んぼが広
がり、振りかえる山口集落の南(下の写真)や東に、特徴的
な山容の山が姿を見せる。

 真ん中に山頂付近だけ見える双耳峰のピークが、日本百
名山・雨飾山のようだ。

 このあたりの交差点には、塩の道の新しい道標が設けられ
ているので、地図と対照して迷わず進める。


 大工屋敷集落が近づくころ、日が差してきて暑くなった。
西側の山腹でヒグラシがカナカナカナカナ…と鳴く。

 和泉で車道に出たが、車の交通量は少ない。家並みの並
ぶ根小屋集落に入り、2階が鐘楼を兼ねた古い山門のある
廣傳寺前を通過する。


 根小屋会館の前の通りにも、先ほど山口にあったのと同
様な、たくさんの人形が吊されていた。

 集落を西に抜けて大糸線の踏切を越え、16時21分に
根知駅に着く。今日の行程はここまで。


 16時58分発の下り電車で糸魚川まで行き、宿泊する市
内のビジネスホテルに向かった。

(天気 曇後晴、距離 行戻り2㎞+16㎞、地図(1/2.5万)
 越後平岩、雨飾山、越後大野、小滝、歩行地 長野県
 小谷村、新潟県糸魚川市、歩数 34,300)
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