今回の対象歌は、屏風絵を見て詠んだ歌である。屏風絵は、旅人が花の下に宿っている情景のようですが、歌の内容は、屏風絵に触発された作者・実朝自身の想いと月との関りを話題にしている。
歌の下(シモ)の2句は、「“衣手”に涙を思わせる露が置かれていて、そこに“月”が宿っている情況を想像させ、“月が衣手に馴れ親しむほどに、幾夜も寝(ヤス)んでいた”」という。失恋の痛手が相当深いことを想像させる歌である。
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[詞書] 屏風絵に 旅人あまた花のしたに臥せるところ
木のもとの 花の下ぶし 夜ごろ経て
わが衣手に 月ぞ馴れぬる (金塊集 春・51)
(大意) 大樹の下 花蔭に幾夜か休むうち、袖に置く露に宿る月が我が袖に馴れ
親しんできたよ。
註] 〇花の下ぶし:花の下に寝(ヤス)むこと; 〇夜ごろ経て:夜を重ね。幾夜
か経て; 〇月ぞ馴れぬる:“月”を擬人化している。
※ 新古今集中、「袖に月宿る」とは、「袖が濡れていて、その濡れた袖に月が
映ずる」ことを意味する。“濡れる”は涙にぬれること。
<漢詩>
露宿在大樹下 大樹下に露宿す [去声二十六宥韻]
花蔭休休旁株躺, 花蔭 休休(シュウシュウ)として株(キカブ)の旁(ソバ)に躺(ヨコタワ)る,
誰知白白多夜逗。 誰か知らん 白白(ハクハク)たり 多夜(イクヨ)か逗(トドマ)る。
荏苒夜夜重重睡, 荏苒(ジンゼン)として 夜夜 重重(カサネ)て睡(ネ)るに,
露月徐徐親近袖。 露に宿る月 徐徐(ジョジョ)に袖に親近たり。
註] ○露宿:野宿する; 〇休休:心安らかに; 〇躺:横になる、寝る;
〇白白:いたずらに、むだに; 〇逗:とどまる; ○荏苒:なすことの
ないまま歳月が過ぎること; 〇重重:かさねかさね; 〇徐徐:ゆっく
りと、徐々に; ○袖:わが衣手; 〇亲近:馴れる、親しくなる。
<簡体字およびピンイン>
露宿在大树下 Lùsù zài dà shù xià
花阴休休旁株躺, Huā yīn xiū xiū páng zhū tǎng,
谁知白白多夜逗。 shéi zhī bái bái duō yè dòu.
荏苒夜夜重重睡, Rěnrǎn yè yè chóng chóng shuì,
露月徐徐亲近袖。 lù yuè xú xú qīnjìn xiù.
<現代語訳>
大樹の花蔭で野宿
大樹の花蔭で心安らかに横になり、
空しく幾夜休んだことであろうか。
なすこともなく一夜一夜と重ねて寝(ヤス)んで行くうちに、
露に宿る月が 徐々に我が袖に慣れ親しむようになってきたよ。
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実朝の歌は、五言絶句とするには内容が豊富、七言絶句とするには“材料不足”の、難しい作品であった。曲がりなりにも、“七言絶句”の形に整えましたが、研究を要する課題である。
歌人・源実朝の誕生 (10)
実朝の父・頼朝の歌才を想像させる歌、京都朝廷並びに京都歌壇との繋がりを垣間見ておきます。
慈円(1155~1225)は、摂政関白・藤原忠通(1097~1164)の六男・九条兼実(1149~1207、カネザネ)と、母(加賀局)を同じくする兄弟である。多くの兄弟の中で、慈円が最も親愛の情を交わしたのが、兼実であったという。慈円は、2歳で母を、10歳で父を亡くしており、6歳年上の兼実を父親のように慕っていた と。
慈円は、11歳で延暦寺に入り、青蓮院門跡の覚快法親王の弟子となり、13歳で出家、道快と称して密教を学び、後に、慈円と改名していた。頼朝は、京都との繋がりを築く目論見を胸に秘めながら、1190年、上洛の際、兼実や慈円と親しく面談している。現況・行末、諸々の状況を語り合ったはずである。
その事情を想像させる、頼朝-慈円の間で交わされた贈答歌が慈円の『拾玉集』に多数収められているという。その一例は:
思ふこと いな陸奥の えぞいはぬ
壷のいしぶみ 書き尽くさねば (慈円『拾玉集』 )
(大意) 思っていることを伝えたいが、壷のいしぶみのように書き尽くすこと
がどうしてもできず、思いを言い現わすことができない。
註] 〇いな陸奥の:“否(イナ)み”と“陸奥(ミチノク”); 〇えぞ知らぬ:“得ぞ~”=
~し得ぬ; 〇壷のいしぶみ:かつて坂上田村麻呂が、奥州の蝦夷討伐後に
「日本中央」と刻んだ という岩のこと、多賀城にあった石碑。
この慈円の歌に対して、頼朝は次の返歌を贈っている。
みちのくの いはでしのぶは えぞ知らぬ
書き尽くしてよ 壷のいしぶみ (源頼朝 『新古今集』巻第18 雑歌下 1786)
(大意) 言いたいことは はっきりと言ってもらわないと知りようがありませ
ん。“壷のいしぶみ”のように書き尽くしてください。
註] 〇いはでしのぶ:岩手(イワデ、岩手)と信夫(シノブ、福島)=「言わで、忍ぶ(言
わずに黙っている)」; 〇えぞ知らぬ:知りえぬ。
頼朝は、慈円とすっかり意気投合した風である、お互い話の内容には触れていませんが。陸奥の地名を歌枕に詠みこみ、また掛詞を駆使した詠いぶりなど、頼朝は、当代きっての歌人・慈円と渡り合える新古今調の歌人の一人と言い得よう。
なお、慈円は、優れた歌人で、生涯に詠んだ歌は6000首を越え、『拾玉集』という家集を編んでいる。また『新古今集』に92首撰されており、西行の94首に次いで2番目に多く撰されている と。更に百人一首にも撰されている。
1192年、後白河法皇が崩御すると、後鳥羽天皇の御代となり、頼朝は征夷大将軍に任じられる。一方、頼朝の後援で兼実が後鳥羽天皇の摂政となるや、その推挙で37歳の慈円は天台座主となる。しかし兄・兼実の失脚など、パトロンを失うと天台座主を辞するが、以後、再登壇を繰り返し、四度の座主を務めている。
現実主義者の慈円は、当時、対立する鎌倉と後鳥羽上皇との友好関係を保つべく、血気に逸る上皇をことあるごとに諫めていた。上皇の考えを改めさせるために、歴史の推移を「道理」という考えからとらえた歴史哲学書『愚管抄』を著している。しかし功を奏することなく、「承久の乱」が起こるに至った。
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