『金槐集』・定家本を締めくくる歌の一つである。太上天皇(後鳥羽上皇)から“御書”を頂き、感激を新たに、忠誠を誓った歌と言えようか。さまざまな思いが起こり、交錯する中、他言はならぬ と自戒しています。
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[詞書] 太上天皇御書下預時歌
おほ君の 勅を畏(カシコ)み ちゝわくに
心はわくとも 人にいはめやも (金塊集 雑・661)
(大意) 大君から勅を頂いた、恐れ多いことである。心乱れるほどにいろいろ
な思いが湧いてきたが、他言はできないことだ。
註] 〇太上天皇:後鳥羽上皇か; 〇御書下預時:建歴三年八月か;
〇勅を畏み:勅のおそれ多さに; ○ちゝわくに:とやかくも、
さまざまに; 〇心はわくとも:心は思い乱れるとも;
〇人にいはめやも:決して他言しない。
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<漢詩>
奉大君勅 大君より勅を奉(ウ)く [下平声七陽韻]
粛奉大君勅、 粛(ツツシ)みて 大君(オオキミ)の勅(チョク)を奉(ホウ)ずる、
孰当不祗惶。 孰(ダレ)か当(マサ)に祗(ツツシ)み惶(オソレ)ざらんか。
参差別念過、 参差(シンシ)として別念過(ヨギ)るも、
固覚豈能詳。 固(モト)より覚(サト)る 豈(ニ)詳(ツマビ)らかにし能(アタ)わんかと。
註] ○奉:(目上の人から)頂く; 〇孰:だれ、だれか; 〇祗惶:恐れ多い
と思う; 〇参差:長短・高低が不揃いのさま; 〇別念:いろいろと
違う思い。
<現代語訳>
大君より勅を頂く
謹んで大君より勅を頂いた、
誰が恐れ多く思わないであろうか。
心乱れて様々に思いは湧いてくるが、
その思いを どうして他人に打ち明けることができようか。
<簡体字およびピンイン>
奉大君勅 Fèng dà jūn chì
粛奉大君勅、 Sù fèng dà jūn chì,
孰当不祗惶。 shú dāng bù zhī huáng.
參差別念過、 Cēn cī bié niàn guò,
固覚岂能详。 gù jué qǐ néng xiáng.
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『金槐集』の定家本は、巻頭に次の歌を載せている(詳細は、閑話休題-308参照):
今朝見れば、山も霞(カスミ)て 久方の
あまの原より 春は来にけり (『金塊集』 春・1)
この歌は、『新古今集』の巻頭を飾る太政大臣藤原良経の歌を本歌とした“本歌取り”の歌とされており、後鳥羽上皇と因縁のある歌と言えよう。『新古今集』の巻頭の歌に対応させるように、『金槐集』では掲歌の「今朝みれば……」を巻頭に置き、後鳥羽上皇への忠誠を表しているように思われる。
巻末では、前々回(閑話休題-346)に紹介した660番の歌:「君が世に 猶ながらえて 月きよみ 秋のみ空の かげをまたなむ」を筆頭に、続けて、掲歌(661番)を含めて、後鳥羽上皇関連の歌計4首が収められている。
但し巻末での4首の配置は、定家本と貞享本でやや異なる。定家本では、全663首中、後鳥羽上皇関連歌が660、661、662および663番と、巻末を締めている。一方、貞享本では、これら4首は、719首中、それぞれ、672、679、681および680番と、集の中ほどに不揃いに配置されている。
これらの事実から、五味(後注)は、定家本に見られる巻末の配置は、実朝の意図ではなく、その編纂に関わった定家の意図に因るであろうとしている。すなわち、定家は、実朝の歌を見て、その朝廷への厚い忠誠を読み取り、このような構成にしたのであろうと。
したがって、その定家本における巻頭・巻末の歌の配置から、定家が実朝の歌をどう評価していたのかは伺えても、実朝の想いを探るのは危険である と警告している。心に留めておくべきことのように思われる。
注] 五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』 角川選書、2015
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