愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 111 飛蓬-漢詩を詠む 28: 小倉百人一首(6) かささぎの

2019-07-18 14:59:06 | 漢詩を読む

かささぎの渡せる橋におく霜の
      白きを見れば夜ぞふけにける

小倉百人一首から、中納言家持(718?~785)の作とされる第6番の一首です。新暦七夕の一夜は、ちょっと前に過ぎましたが、改めて思いを馳せるのも時宜に叶って、一興か と取り上げました。

大伴家持は、『万葉集』の編者とされ、その序文を書いた人であろうとされています。この序文を基に、元号“令和”が案出されたことは、まだ記憶も新しいところです。和歌の漢詩化を試みる第一号として選びました。

この歌を七言絶句の漢詩に仕立ててみました(下記ご参照)。この歌については、世上いろいろな解釈がなされています。歌を読む角度が、これまでとは少々異なるかな と。ご鑑賞、ご批判頂けるとありがたいです。

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<原文と読み下し文>
星垂首冬一夜   星垂れる首冬(シュトウ)の一夜
(上平声十四寒韻)
牽織同踮隔銀漢、
……牽と織 銀漢(ギンカン)を隔(ヘダ)てて 同(トモ)に踮(ツマサキダ)ちてあり、
承鵲帥援如愿歓。
……鵲の帥(ソツ)な援(タスケ)を承(ウ)け、愿(ネガイ)は如(カナエ)られ歓(ヨロコ)ぶ。
星散玉階無動影、
……星散って、玉階(ギョクカイ)に動く影は無く、
凝霜皎皎知夜蘭。
……凝霜(ギョウソウ) 皎皎(コウコウ)として夜蘭(ヤラン)と知る。
 註]
牽織:牽牛星と織女星; 銀漢:天の川;
鵲;カササギ、七夕の夜、たくさんの鵲が翼を広げて橋を設えて、織姫が銀河を渡るのを助けたという故事(中国、前漢『淮南子(エナンジ))による。わが国では北西九州にのみ生息する鳥らしい。
帥:粋な; 如愿:願いが叶えられる;
玉階:宮中の建物をつなぐ階段(キザハシ); 凝霜:凝結した霜;
皎皎:白く光って明るい; 夜蘭:夜更け。

<現代語訳>
 星降る初冬の一夜
牽牛星と織女星は銀河に隔てられて、互いに爪先立ちしつつ対峙している、
七夕の夜、カササギの粋な計らいで両星の逢瀬の願いは叶えられ喜びあふれる。
星明かりの中 目の前に玉階はあるが その向うに動く人影は無く、
凝結した霜が白く光って見えるだけ、いつしか夜は更けているのだ。
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百人一首の歌を“漢詩として仕立て直す”ことに挑戦しています。何故に“百人一首”? 第一に、子供の頃から“かるた遊び”で馴染みがある、からである。恥ずかしながら、どの歌についても、かつて歌の内容を深く考えたことはない。

実際に取り掛かってみると、難事業である。歌を“読み”、その“感想”を述べる、では終わらない。枢要な点は、当然ながら、作者が「何を訴えたいのか?」を“読み解く”ことにある。「志や大なり!」。その難しさに腰が砕けそうではある。

実は、「令和」―『万葉集』と、世の話題に上がったのを機に、改めて和歌を“読んで”みよう、その結果を漢詩に再構築したら、どうであろうか と愚考した次第です。勉強をし直し、また漢詩を書く腕を磨く機会にならないか と。

古今無数の和歌を対象としては難儀である。数が有限で、また長い歴史の篩を通りぬけてきた優れた歌、やはり『百人一首』を置いて他にはない と。第二の理由です。以後、肩を張らずに進めるつもりです。ご鞭撻のほどを!

件の歌については、世上いろいろな解釈がなされていて、一層難しくしていま
す。整理すると、大きく次の2点に分けられそうです。もっとも、筆者は、あらゆる書類を読破したわけではなく、通説を参考にしているに過ぎませんが。

[1] 歌の“カササギの橋におく霜”の表現から、冴え冴えとした冬の夜空の星を白い霜に見立てて、天の川、そしてカササギが渡した橋を想像します。その美しく輝く星群を見つつ、“夜が更けたのだな!”と感じ入る。

[2]宮中の玉階(キザハシ)に霜が積もり、星明かりの下、きらきらと白く輝いているのを目にする。その輝きに天の川の星群を想像して、「もう夜更けなのだ」と感じる。

[1]では、歌を、天上界の情景として捉えています。冬の幻想的な雰囲気の世界に遊び、風雅な気分に浸れます。しかし冬空に夏の星群を想像する不自然さ、また星空を見上げていて、「何で“夜更けなの”」と、疑問が湧きます。

一方、[2]では、歌の内容を現実世界の出来事と捉えています。実際に玉階(キザハシ)に降りている霜の輝きを目にして、それに触発されて、天上界の星群を想像しています。この場合でも、「何で“夜更けなの”」と。

これらの解釈はさて置き、虚心に、この歌を読み直してみます。

この歌を、繰り返し繰り返し、声を出して読むと、結句の“夜ぞ更けにける”が、非常に重く感じられてなりません。単なる“感慨”ではなく、“慨嘆”・“嘆息”に近い状態のように読めます。「こんなにも夜は更けていたのか」と。

胸に蟠る“何事か”に囚われて、なかなか寝付かれずに懊悩していて、いたたまれず部屋の外に出てみる。気が付くと、「あゝ 夜は更けたな!」と。歌を詠んだ折の作者の胸の内を率直に表現しているのではないか と想像したくなります。

「カササギの 渡せる橋に…」は、読む人の想像を、天上界の情景=天の川に掛かる橋と、地上界の情景=宮中の玉階(キザハシ)とに向けさせます。読む人をして三次元の広い世界に誘い込む重要な部分と言えるでしょうか。

しかし「カササギの 橋」は、故事が語るように、牽牛星と織女星(恋人同士)の‘逢いたい’という願いを叶えた“喜び”につながる“橋”と言えます。一方、作者の眼前の玉階(キザハシ)には霜が積もっています。寒々とした情景に思えてなりません。

このように“読んで”いくと、この歌は、“恋の歌”に思えます。その“読み”に基づいて書いたのが上掲の七言絶句でした。如何でしょうか。「ハシにも棒にも掛からん? そう無下に仰らんと…」。

大伴家持について簡単に触れておきます。大伴氏は大和朝廷以来武門の家で、家持は、奈良時代末の武人、公卿、歌人である。平安時代に、優れた歌人として選ばれた36人(36歌仙)のうちの一人です。

『万葉集』(成立759年?)には家持の歌473首が収められていて、全数の一割を占めている と。そこで『万葉集』の編者であろうとされています。但し、「カササギの……」の歌は、『万葉集』には収められていない ということです。
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1 コメント

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Unknown (Rumi)
2019-07-30 19:47:11
百人一首を漢詩に、とは面白い試みですね。
子供の頃にお正月に遊んだ百人一首、今でも私の中では健在です。初めの5文字を聞いたら全句言えるな、今でも、、、多分。
百人一首は人間の色んな感情が詠まれていて共感する事も多く、どんなに技術が進んでも、1000年以上前から人間の思う事は変わらんな、感情は進むものではないんだな、、と思います。
そうそう、有限で100個のみ、というのがいいのよねー。
私の百人一首活用法は、思いついた時に(って数年毎ですが)自分にぴったりくる歌を探す、、、これが見事に毎回違う歌を選ぶんで、自分の現在の状況心境はこれなんだ!と自己分析してます。心理テスト教材ですな。笑
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