OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

日本文化私観 (坂口 安吾)

2006-09-02 13:55:09 | 本と雑誌

Sakaguchi_1  先に読んだ「日本文化論の系譜」という本で、昭和期の代表的評論として紹介されていました。

 著者の坂口安吾氏(1906~1955)は、小説家。本名は炳五(へいご)、新潟有数の大地主である旧家に生まれました。
 戦中・戦後にかけて、伝統尊重の時流に抵抗してその欺瞞をついた評論「日本文化私観」(1942)や終戦後の価値観の崩壊や世相の混迷の中、戦後の人間のあり方を提唱した「堕落論」(1946)などを発表し、若者を中心に当時の人々に衝撃を与えたといいます。

 さて、その代表的著作の「日本文化私観」です。

Katsura_rikyu  この著作は、桂離宮等の日本の伝統美学を絶賛したドイツの建築家ブルーノ・タウトの主張への批判・反論の書です。
 その直接的な批判の意図を明らかにすべく、タウトの著作と全く同じ「題(日本文化私観)」としたのです。

(p100より引用) 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。

 坂口氏によると、「日本の文化」とか「日本の精神」といったものは、「日本人」でありさえすれば、そして「必要」に拠っていれば独自のものとして存しうるのであり、別にことさら「伝統」の力を借りる必要はないということになります。

(p98より引用) 伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。

日本文化私観―坂口安吾エッセイ選 日本文化私観―坂口安吾エッセイ選
価格:¥ 1,103(税込)
発売日:1996-01

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする