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真の美 (日本文化私観(坂口 安吾))

2006-09-03 16:10:35 | 本と雑誌

Fushimi_inari  坂口氏は、単なる「伝統」には何の価値も認めません。「実質」を問います。

(p105より引用) 伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼が国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。

 「実質」とは、「切羽詰った精神の必要」です。

(p119より引用) 京都や奈良の寺々は大同小異、深く記憶にも残らないが、今も尚、車折神社の石の冷めたさは僕の手に残り、伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。

 伏見稲荷の鳥居のトンネルは、私も実際行ったことがありますが、洗練された美しい風景とは言い難いものです。ただ、何がしか一途なエネルギーの凝縮は確かに認められます。

 坂口氏は、この「必要」に押された「実質」が「芸術の根源」であると言います。

(p126より引用) 美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。

 そうなると当然「必要」の純度が問われることになります。

(p127より引用) 問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。

 坂口氏の言う「必要」は、人々の「生活に密着した」ものです。

Horyuji (p128より引用) 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。

 生活に根ざしたものでなければ、どんなに歴史的に価値を認められているものであっても、坂口氏の価値観では、「不要なもの」とされます。
 逆に真に生活に必要なものであれば、それが模倣であっても「価値」を認めるのです。

(p128より引用) 我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

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