「老子」といえば、すぐ浮ぶのが「無為自然」です。
「無為」について具体的な説明をしている章をご紹介します。
(p194より引用) 為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。図難於其易、為大於其細。天下難事、必作於易、天下大事、必作於細。是以聖人、終不為大、故能成其大。
(p193より引用) 何もしないことをわがふるまいとし、かくべつの事もないのをわが仕事とし、味のないものを味わってゆく。
小さいものを大きいとして大切にし、少ないものを多いとして慎重に扱い、怨みごとに対して恩恵でむくいる。
むつかしいことは、それがまだやさしいうちによく考え、大きなことは、それがまだ小さいうちにうまく処理する。世界の難問題も、必ずやさしいなんでもないことから起こり、世界の大事件も、必ず小さなちょっとしたことから起こるものだ。それゆえ、聖人は決して大きなことをしたりはしない。だからこそ、その大きなことを成しとげられるのだ。
「無為」といっても「何もしない」ということではないようです。
ことがまだ微小なうちに、何かをしたという証跡を残さない形で「事を成している」のです。ちょっと自分で勝手に思っていた「無為」とは違っていました。
このあたり、以下のような「無」についての解題にも関わりがありそうです。
(p44より引用) 故有之以為利、無之以為用。
なにかが有ることによって利益がもたらされるのは、なにも無いことがその根底でその効用をとげているからのことなのだ。
「無」というものが、「効用の実際(有)」を産み出しているのです。
「道(無為自然)」の人は、何事も満々と満たそうとはしません。
(p56より引用) 保此道者。不欲盈。夫唯不欲盈、故能蔽而新成。
「道」をわがものとして守っている人は、何ごとについてもいっぱいまで満ちることは望まない。そもそもいっぱいになろうとはしないからこそ、だめになってもまた新たになることができるのだ。
このあたりの境地は、正直ちょっと理解し難いです。極めていく方向が「エントロピー増加」の方向のように思うので・・・。
「100%を求めない、完璧を求めるとそこで前進は止まってしまう」という教えであるならば、ある意味、よく言われていることです。そうであれば納得できるのですが、「道」の場合も同趣旨で唱えているのでしょうか。どうも違うような気がします。
「100%を求めない聖人の境地」と、単に「何もしない」とか「究極まで努力しないで途中で手を抜く」とかの姿とは、表層的には区別しにくいものです。
老子―無知無欲のすすめ 価格:¥ 1,008(税込) 発売日:1997-04 |