以前、このBlogで「わかったつもり」のことを書きました。
老子流の「わかる」についての教えです。
(p215より引用) 知不知上。不知知病。(夫唯病病、是以不病。)聖人不病、以其病病、是以不病。
(p215より引用) 自分でよくわかっていても、まだじゅうぶんにはわかっていないと考えているのが、最もよいことである。わかっていないくせに、よくわかっていると考えているのが、人としての短所である。(そもそも自分の短所を短所として自覚するからこそ、短所もなくなるのだ)。聖人に短所がないのは、かれがその短所を短所として自覚しているからで、だからこそ短所がないのだ。
説かれていることは、一見(「老子」に限らず、)当たり前のことのように思われます。
が、金谷氏の解説によると、そうではないようです。
(p215より引用) わかったことはわかったとし、わからないことはわからないとする、それが合理主義の原則である。『論語』には「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり」とあった。『老子』のことばは、それと似ているようで、実は違っている。わかったことをわかったとはしないのである。
老子流には、「『わかった』ということ自体を否定するのだ」と言います。
(p216より引用) なぜなら、何かがわかったとか知ったとかいうかぎりは、それ以外の知らないわからない世界をいつまでも残しているのであって、それでは「道」に到達したとはいえないからである。
どうも「道」を究めたという状態は、「ソリッドなものに到達する」ということとは全く別次元のもののようです。
やはり、難解です。
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