吉村昭さんは私の好きな作家のひとりで、かなり以前には集中して何冊か読んでいました。
今回、まだ読んでいない作品が、いつもの図書館の新着本リストの中に並んでいたので手に取ってみました。
吉村さんの作品の中では、比較的軽めですね。幕末から明治維新期が舞台。函館に渡った旧幕府軍と新政府軍との一連の戦い(戊辰戦争)におけるエピソードのひとつを取り上げたものです。
小説なのでネタバレになるような引用は避けますが、精緻な取材に基づくノンフィクションを基本としつつも、「表現者」としての吉村さんの非凡な筆力を示すところを書き留めておきます。
新政府軍艦艇との戦闘に向かう「回天」が、中継地のある湾内に進んでいった場面です。
(p91より引用) 不意に、甲板上の者たちの間からどよめきに似た声が起った。
かれらの視線は、一様に湾をかこむなだらかな傾斜地にむけられていた。
そこには、驚くほど鮮やかな黄の色が明るい陽光をあびてひろがっていた。咲き乱れた菜の花の色であった。
山に雪が残っていてまだ冬の季節の中にある箱館の陰鬱な情景を見なれていたかれらの眼に、傾斜地をおおう黄の色は鮮烈なものに映った。山田浦はすでに春の季節に入っていて、梅や桃の花もみえ、すべてが明るい。海上を渡ってくる微風も温かかった。
乗組の者たちは、目前にせまる新政府軍艦隊との戦闘も忘れたように、手すりにもたれて菜の花をながめていた。
リアリティを積み上げた壮絶な戦いの物語を綴っている合間に、こういう一滴の清涼剤のようなくだりを織り込むところが見事なんですね。